4.王女カンナとの対話
控えめなノック音が、扉越しに響いた。
「失礼いたします」
澄んだ女性の声だった。
「……はい」
返事をすると、扉が静かに開く。
足音の主は、淡い色の衣をまとった侍女だった。
年は新とさほど変わらないように見えるが、所作は落ち着いていて、視線も必要以上に新を捉えない。
「アラタ様。夕刻のお食事の準備が整いました。王女殿下がお待ちです」
「……分かりました」
新が立ち上がると、侍女は一礼し、先に立って歩き出す。
廊下に出ると、昼とはまた違う空気が流れていた。
高窓から差し込む光はやや赤みを帯び、王宮全体が、静かに夜へ向かっているのが分かる。
途中、何人もの兵士や使用人とすれ違ったが、誰もが新に深く詮索することはなかった。
ただ、視線の端で客人として見られている感覚だけが、確かにある。
やがて、侍女は一つの扉の前で足を止めた。
「こちらでございます」
扉が開かれる。
王宮の一角に設えられた食堂は、謁見の間とはまるで雰囲気が違っていた。
高い天井はあるものの、壁は白木で統一され、余計な装飾はない。
大勢で食事するような広さじゃない、そう思う程度には、狭かった。
長い卓はなく、中央にあるのは四人掛けほどの円卓がひとつだけだった。
新は、その席の一つに落ち着きながら、どこか居心地の悪さを覚えていた。
向かいの席には、カンナが静かに腰掛けていた。
そしてその少し後ろ、壁際にはフィオナが控えている。
侍女の姿はない。給仕も最低限で、すでに料理は卓上に並べられている。
「……緊張していますか?」
ふいに、カンナが声をかけてきた。
「え、あ、はい。まあ……正直」
新は苦笑しながら頷いた。
「さっきまで普通に学校行く途中だった人間が、王女様と食事って……なかなかない経験なので」
冗談めかして言ったつもりだったが、カンナは軽く目を瞬かせただけで、否定も肯定もしなかった。
「無理もありません。ですが、今日は王女としてではなく、一人の立場として話したいと思っています」
そう前置きしてから、カンナは静かに手を合わせる。
「まずは……召し上がってください。話は、その後で」
料理は、森で採れる野菜と果実を中心にしたものだった。見た目は素朴だが、香りは豊かで、どこか安心する味がする。
新は一口食べて、思わず息をついた。
「……おいしいです」
「よかった」
カンナの表情が、ほんの少しだけ柔らぐ。
しばらくは、食器の触れ合う音だけが場を満たした。
だが、その沈黙は長く続かなかった。
「アラタ」
名を呼ばれ、新は顔を上げる。
「あなたが、聖樹の管理人様から何も聞かされていないだろうことは、フィオナから報告を受けています」
「はい……。正直、ほとんど状況が分からなくて」
「でしょうね」
カンナは否定しなかった。
「ですから、ここからは私の言葉としてお話しします。今、この世界は、戦争の最中にあります」
その一言で、空気が変わった。
「人族が治めるシーグラス帝国。その皇帝、ネクサス・シーグラス六世が、各国への侵攻を開始しています」
新は、無意識に背筋を伸ばしていた。
「すでに、獣人族のアースガル王国、竜人族のデュラハル王国、巨人族のアリアス王国は陥落しました」
淡々と告げられる国名。
どれも、つい先ほどまで遠い世界の名前だったはずなのに、今は現実として胸に落ちてくる。
「亜人族のフィルス連邦は、シーグラス帝国と同盟を結んでいます。小規模な反乱は各地で起きていますが……いずれも短期間で鎮圧されています」
「……つまり」
新は言葉を選びながら口を開いた。
「ほとんど、止められていない?」
「はい」
カンナは即答した。
「そして、現在シーグラス帝国は、次の標的としてユグドライン王国を見据えています」
新の喉が、かすかに鳴った。
「……俺が、呼ばれた理由って」
「争いを鎮めるためでしょう」
あまりにも静かな口調で、カンナは言った。
「聖樹の管理人様が、あなたを守護者として遣わした以上、この状況と無関係だとは、私には思えません」
新は、皿に残った料理を見つめた。
自分が選ばれた理由。
世界の危機。
守護者という役目。
頭では理解しようとしても、実感が追いつかない。
「……正直に言うと」
新は、ぽつりと零した。
「俺一人で、そんな大きな争いを止められるとは思えません」
カンナは、すぐには答えなかった。
一度だけ、フィオナに視線を向ける。
わずかな沈黙のあと、フィオナが口を開いた。
「あなたが戦えるかどうかは、重要ではありません」
「え?」
「守護者が前線に立つ理由は、強いからではないのです」
新は眉をひそめる。
「……じゃあ、なんで?」
フィオナは言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「歴史に記録された守護者たちは、皆、死ななかった」
その言い方が、妙に引っかかった。
「死ななかった、って……」
「剣で貫かれ、骨を砕かれ、時には命を落としたとしか思えない傷を負いながら」
フィオナは、淡々と続ける。
「次に記録されたときには、何事もなかったかのように立っていた」
新は、無意識に自分の胸元を押さえた。
「……それって」
「不死、とは言いません」
フィオナは即座に否定する。
「傷は負います。痛みもあります。恐怖も、死を意識する瞬間もあるでしょう」
「じゃあ……」
「ただ、終わらないのです」
その言葉は、祝福ではなかった。
むしろ、重い。
「守護者は、役目が終わるまで、この世界に縛られる存在だと考えられています」
新は、喉を鳴らした。
「……それ、安心していい話じゃないですよね」
「はい」
フィオナは、否定しなかった。
カンナが、静かに言葉を継ぐ。
「だからこそ、守護者は自分が何を守るのかを選ばなければなりません」
「……選ばないと?」
「ただ戦うだけなら、心が先に壊れてしまうからです」
新は、しばらく黙り込んだ。
(死なない、けど……終われない)
それは、帰れる可能性でもあり、
同時に、帰れない呪いにも聞こえた。
「当然です」
カンナは、きっぱりと言った。
「ですから、あなたに戦争を終わらせろとは言いません」
新は、思わず顔を上げる。
「私が望んでいるのは、聖樹を守ることです」
カンナは、胸の前でそっと手を重ねた。
「そのために、私は聖樹の内部へ入らなければなりません」
「……内部?」
「はい。ただし、それには条件があります」
彼女は、卓上に置かれていた小さな布包みを指差した。
「各国に散らばる鍵を集めること。
それらは、今も各国を治める騎士たちのもとにあります」
新は、嫌な予感を覚えながらも、問い返す。
「……騎士って、侵攻側の?」
「ええ。シーグラス帝国に仕える騎士たちです」
つまり――敵だ。
「彼らを退け、争いを鎮めながら、鍵を集める必要があります」
カンナは、新をまっすぐに見つめた。
「その旅に、あなたに同行してほしいのです。アラタ」
一瞬、言葉が出なかった。
世界を巡る旅。
戦争の只中へ向かう道。
そして、鍵集め。
「……どうして、俺なんですか」
ようやく絞り出した問いだった。
「守護者だからです」
即答。
「聖樹の管理人様が遣わした存在である以上、
あなたは世界の外から来た者であり、同時に世界に干渉できる者です」
新は、椅子の背にもたれた。
(世界を救えば、役目は終わる)
(役目が終われば……消えるかもしれない)
それは、恐ろしい想像だった。
だが同時に――
(消える=元の世界に戻れる可能性、かもしれない)
何もしなければ、何も分からない。
このまま王宮に留まっていても、答えは与えられない。
行動しなければ、帰り道も見えない。
そう理解している自分がいる。
それでも――
「……すぐに、答えを出せって言われたら、困ります」
新は正直に言った。
カンナは、わずかに目を伏せる。
「承知しています」
そして、顔を上げた。
カンナの言葉が、静かに場に落ちた。
「ですから、今夜は考えてください。あなたの意思で、決めてほしいのです」
王女としてではなく、一人の人として。
その願いが、言葉の端々に滲んでいた。
新はすぐには答えられなかった。
軽く頷ける話じゃない。
けれど、ここで立ち止まっても何も変わらない。
食事は、いつの間にか冷めていた。
新は最後の一口を飲み込み、静かに食器を置く。
「……少し、考えさせてください」
それだけを、率直に告げる。
カンナは頷いた。
「ええ。それで構いません」
それ以上、何も言わなかった。
新は席を立ち、食堂を後にする。
扉が閉まったあとも、王女の言葉は背中に残り続けていた。
考える時間は、与えられた。
それでも、王女の言葉だけが背中に張りついて離れなかった。




