1.祠での目覚め
竹の匂いがした。
道場へ向かう通学路。
いつもと変わらない朝。
気だるい春の陽気に包まれて、稲森新は肩にかけた竹刀袋の重みを感じながら歩いていた。
その、ほんの一瞬後だった。
耳鳴り。
視界が白に塗りつぶされる。
足元が崩れ落ちたような浮遊感。
息をする暇すらなく、世界が反転した。
気づけば、新は石造りの祠の中で、冷たい床に仰向けになっていた。
「……は?」
あたりを見回す。古い石壁、青白い苔、湿った空気。
制服も竹刀袋も消えており、代わりに身体には淡い緑の薄手チュニックに、動きやすい布ズボンを着ていた。
軽い根革の靴、腰には蔓の紐と小さな布袋、どれも自然素材で作られた、飾り気のない森の民族服のような装いだ。
……ただ、その服が微妙に合っていない。
肩まわりがやけに詰まっていて、腕を上げると背中が突っ張る。
袖は短く、前腕が中途半端に露出していた。
剣道で鍛えていたせいか、肩幅と背中だけが服の想定より一回りでかい。
ズボンも太腿がきつくて、膝を曲げるたび布が引っ張られた。
立ち上がると、目の前に人影が立っていた。
背丈は新と同じくらい。
四肢の形も、顔立ちも、ぱっと見れば人間に近い。
だが、どこかおかしい。
肌は血の気がなく、白磁のように滑らかすぎる。
瞬きの間隔が不自然で、呼吸の気配もない。
何より、その存在は足音を立てずに、最初からそこにいた。
「目覚メ……タ……守護者……」
口は確かに動いている。
だが声は、喉から発せられたというより、頭の奥に直接響いてくるようだった。
頭が追いつかない。
でも、驚いて固まってる場合じゃなかった。まず状況が知りたい。
「守護者? 俺のこと……?」
人の形をしたその存在は、わずかに首を傾ける。
「……詳シク、語レナイ。
語レバ……其レハ、枷トナル……」
抑揚の乏しい声。
感情を理解しているようで、再現しているだけのような、不完全さ。
「オ前ハ……役目ヲ果タセ。
王宮ヘ行キ……コレヲ……渡セ」
そう告げると、管理人は静かに手を差し出した。
その手から浮かび上がったのは、古びた一枚の紙だった。
紙の中央には、はっきりとした紋章が刻まれていた。
丸い円の中に、一本の大樹が描かれている。
太い幹、広がる枝、地面に深く食い込む根、誰が見ても樹だと分かる、素朴な意匠だった。
「…王宮? 俺を、行かせるってこと?」
「……行ケ。其ノ先デ……始マル……」
言い終えると同時に、その存在はふっと光に溶けて消えた。
残されたのは、よくわからない民族衣装を着た自分と、手にした古びた紙だけ。
「いや説明……足りな……!」
文句を言っても誰も返事をしない。
だが、ここにいても仕方がない。
新は祠を出た。
⸻
外に出た瞬間、思わず息を呑んだ。
巨大な樹の根が大地を貫き、その上に家々が並ぶ。
木でできた吊り橋が空中を走り、風に揺れる葉が光を反射して黄金色に輝く。
「……すげぇ」
まるでファンタジー世界。
混乱よりも、感動が勝ってしまう。
だが、その美しさ以上に目をひいたのは、すれ違う人々の耳が皆、長く尖っていること。
大人も子どもも、顔立ちはどこか中性的で整っており、年老いた人の姿が見当たらない。
だが、それだけではなかった。
樹の上へと伸びる通路には、尖った耳の者だけでなく、毛並みを持ち獣の耳が生えた者や、新と同じ、人間と変わらない姿の者も行き交っている。
映画やゲームで見た光景が、作り物ではなく、現実として目の前に広がっている。
違和感が、理解よりも先に身体を支配していく。
(……俺、完全に場違いだろ)
胸の奥がざわつく。
ここが異世界だと、ようやく現実として飲み込まされ始めていた。
ともかく、王宮に行けば何かわかるのかもしれない。だが、王宮の場所がわからない……。
勇気を出して近くの耳の長い女性に声をかけた。
「あ、あの! 王宮はどっちに行けば……?」
言葉が通じるだろうか。
しかし女性はにこりと笑った。
「王宮?翠晶宮ならこの大通りをまっすぐ行けばすぐですよ?」
「あ、はい……ありがとうございます!」
通じた。驚くほど自然に。
相手は新を物珍しそうに見つつも言葉には違和感を覚えていない様子だった。
(どうなってんだ……俺、なんでこんなところに……?)
疑問を抱えたまま、新は王宮へ向かった。
⸻
王宮は巨大な樹木を組み合わせたような造りで、
翠の結晶が光を反射し、緩やかに脈動している。
それがユグドライン国の中心、翠晶宮だった。
門には槍を持った兵士が二人立っている。
「止まれ。ここは王家の領域だ。用件を述べよ」
「え、えっと……これを……渡せって」
目覚めた際にもらった紙を差し出す。
「……聖樹管理人様の印状だ」
兵士の顔つきが変わる。
「フィオナ様をお呼びしろ!」
ほどなくして現れたのは、銀鎧に身を包む女騎士フィオナ。
長い金髪を高く結い、鋭い眼差しを持つが、洗練された騎士らしい気品を漂わせている。
同じ人間なのだろうか、耳が長くない。
「私は王宮警護隊のフィオナ。あなたを王女殿下のもとへ案内いたします」
その口調は落ち着き、威厳を保ちつつも礼節を忘れない。
新は圧倒されながらも、彼女の後に続いた。
⸻
案内された謁見の間は光に満ち、中央の玉座にはひとりの少女が静かに座していた。
赤色の髪。
透き通るような肌。
どこか儚げでありながら、確かな気品を宿している。
フィオナが一歩前に進み、片膝をつく。
「殿下、聖樹の管理人様の印を持つ者をお連れしました」
その声に応じ、殿下と呼ばれた少女はゆっくりと視線を上げ、新を見据えた。
「はじめまして。私はユグドライン王国王女、カンナ・リュミエール・ユグドラインと申します」
柔らかく、しかし揺るぎのない声。
「……あなたが、アラタで間違いありませんね?」
「は、はい。稲森新といいます」
名乗りながらも、新の胸中は疑問で満ちていた。
意を決し、言葉を続ける。
「あの……失礼ですが。
ここは、どこなんでしょうか」
謁見の間に、わずかな静寂が落ちる。
「俺は……さっきまで、別の世界にいました。それと……元の世界に、戻ることはできるんでしょうか」
率直な問いだった。
カンナは一瞬だけ目を伏せ、差し出された紙を受け取ると、そこに刻まれた印を指先でなぞった。
「……ここは、ユグドライン王国。そして、あなたが言う元の世界とは異なる場所です」
新の胸が、わずかに締めつけられる。
「戻れるかどうかについては……正直に申し上げます。私にも、確かなことは分かりません」
逃げも誤魔化しもない答えだった。
「ただひとつ言えるのは、聖樹の管理人様が意味もなく人を招くことはありません」
カンナは顔を上げ、新をまっすぐに見つめる。
「あなたが守護者としてここへ送られた以上、この世界と無関係ではいられない……それだけは確かです」
その声は優雅で丁寧だが、一定の距離を保っている。
敵意はない。
あくまで、王族としての冷静な判断だった。
「管理人様があなたを王宮へ導いた以上、
私たちはあなたを保護します。今は、それで十分でしょう」
フィオナが一歩前に出て、胸に手を当てる。
「殿下。この者の身柄は、私が責任をもってお守りします」
「ええ。頼みます、フィオナ」
短くも芯のあるやり取り。
新は、二人の間にただの主従関係ではない、深い信頼があることを感じ取っていた。
⸻
フィオナに伴われ部屋を後にしようとする新へカンナは歩み寄り静かに告げる。
「……あなたが守護者として送られたのだとしても、それがこの国にとって救いとなるのか、災いとなるのか……。それを決めるのは、きっとこれからのあなた自身なのでしょう」
王女としての威厳と、少女としての不安が一瞬だけ入り混じった声だった。
廊下を抜ける途中、新はふと立ち止まり、王宮の外を見渡した。
目に映るすべてが、見知らぬ色と形をしている。
そのとき初めて、自分が本当に別の場所へ来てしまったのだと、胸の奥で実感した。
ここから先、どうすればいい。
何を聞けばいい。誰を信じればいい。
まだ何も分からない。
でも、戻り方も分からないまま、立ち止まれるほど落ち着いてもいなかった。




