12.風呂でのひと時
訓練場を出ると外は冷えていた。汗が引いて、肌が少し寒い。
新は腕を回す。身体は動く。守護者の回復で、大きな傷はもうない。
ただ、叩かれた場所だけがまだ痛い。鋭い痛みじゃなく、鈍い痛みが残っている。
廊下を進みながら、少し前を歩くシルヴァンに新が聞く。
「……風呂、あるんですね」
「あるぜ。行けるうちに入っとけ」
「助かります」
「だろ。お前、汗くせぇし」
「ひでぇ……」
「事実なんだから、しょうがない」
シルヴァンは笑いながら廊下を曲がる。石の床は少し湿っていて滑りやすい。足音が小さく響く。
「しかもここ、五十年くらい前の守護者が作らせたって話だ。お前の先輩な」
「……五十年前の守護者が、風呂を?」
新は思わず聞き返した。剣や魔法じゃなく、風呂だ。なぜ、風呂なんか作ったのか妙に気になったが、それよりも自分の先輩守護者の方が気になった。
「その守護者って……俺と同じ世界から来たのかな」
「……なんなら、日本から来たとか」
シルヴァンが小さく笑った。
「それは分かんねぇ」
「記録とか、残ってないんですか」
「守護者の記録は、ほとんど残ってない」
「どこから来たとか、名前とか、何をしたとか、そういうのが丸ごと抜けてる」
新は眉を寄せた。
「なんでですか。重要じゃないですか」
「重要だから残さねぇんだろ。守護者はよそ者だ。触れたくない奴も多い」
新は黙った。嫌な方向に想像が広がる。
シルヴァンはそこで話題を戻すみたいに、軽い調子で言う。
「五十年前に、全種族がぶつかった戦争があったんだよ。人族も亜人も獣人も巨人も、全部だ」
新は言葉を飲み込む。
「……それを止めに行ったのが、その守護者?」
「そう言われてる。戦争が始まる前に、止める役目で呼ばれた守護者だ」
シルヴァンは軽い口調に戻す。
「で、その守護者がな。戦争に出る前に、ここを作らせたって話だ」
「戦争の前に?」
「そう。『戻ってきたら、まず風呂に入りたい』って」
「『だから作っとけ。帰ってきた時に入れないのは最悪だ』ってな」
「……理由が急に人間くさい」
「だろ。だから俺は好きなんだよ、その話」
新は少しだけ笑って、それから真面目な顔に戻った。
「……その守護者、最後はどうなったんですか」
「そこがはっきりしねぇ」
シルヴァンはあっさり言う。
「死んだって言う奴もいれば、役目が終わったら姿を消したって言う奴もいる。誰が何を見たかが揃わない」
「なんで揃わないんですか」
「英雄にしたい奴もいるし、触れたくない奴もいる。あと、本人が語ってねぇ。語らなきゃ、勝手に話が増える」
新は黙った。
シルヴァンは新を横目で見る。いつもの気さくな笑顔と軽い調子で言ってくる。
「だからお前は、記録に残るよう頑張れよ」
「……雑にハードル上げますね」
「上げとかねぇと、すぐ埋もれちまうだろ」
新は返事をしなかった。でも、胸の奥に小さく引っかかった。
湯気の漏れる扉が見えてくる。湿った空気が混ざり、あったかい匂いがする。
シルヴァンが手を伸ばした。
「ほら。考えすぎると湯がもったいない。入るぞ」
扉が開くと、湿った熱が一気に流れてきた。浴場は広い。石の縁の向こうで湯が揺れている。
新は中に入って、すぐ気づいた。
木の格子、洗い場の並び方、桶も並んでいる。どこか、元の世界で見た作りに似ている。
(……銭湯みたいだ)
口に出しかけて、新は飲み込んだ。けど、頭の中の引っかかりは消えない。
椅子に腰を下ろし、桶で湯をすくう。肩からかけると、熱が皮膚に広がった。続けてもう一杯。頭にもかける。汗の塩っぽさが流れる。
棚に香りのある固形の洗いものが置かれていた。少し灰色をした石鹸に近い見た目だ。
(石鹸まである……)
それを手のひらで濡らして腕をこする。擦るたび、叩かれた場所が少しだけ痛む。肩、前腕、太もも。青くはなっていないが、押せば痛い。
新は手早く洗って、湯をかぶる。泡が消えて、肌のべたつきが取れる。
湯船に沈むと、息が抜けた。
「……生き返る」
「顔ゆるんでるぞ」
「ゆるみますよ。痛みがマシになる」
新は湯の中で、さっきの引っかかりを捨てきれずに言ってしまう。
「……この風呂、作りが俺の世界のやつっぽい気がするんですよね」
「だから、やっぱり、前の守護者も……同じ世界の人間だったのかなって」
シルヴァンは「へえ」とでも言う顔で、少しだけ興味を向けた。
「じゃあ聞くけどさ」
そこで初めて、シルヴァンがちゃんと新の方を見た。
「元の世界って、どんなとこだった」
シルヴァンが湯の縁に肘を乗せて聞いた。湯気の向こうで目だけがこちらを見ている。
「……人が多いです。建物も多い。こっちと違って、夜でもずっと明るい」
「夜でも明るいのはいいな」
「明るいし、うるさいところですよ」
新が肩をすくめると、シルヴァンが鼻で笑った。湯が揺れて、小さく波が広がる。
「うるさいの大いに結構じゃねえか、贅沢なやつだなぁ」
シルヴァンは少し笑って、すぐ次を聞いてくる。興味が移るのが早い。
「飯は? 何を食べてたんだ?」
「肉とか、魚とか。そこはこっちと同じです」
「じゃあ違うやつ言え。こっちでまだ食ったこと無い味」
新は湯の中で指を組んで考えた。何なら伝わる。言葉だけで説明できるもの。
少し迷ってから、答えた。
「味噌」
「みそ?」
「豆を発酵させて作る、塩っ辛いやつです」
「食えんのか、それ」
「食えます」
「どんな見た目なんだ?」
新は言いながら、自分でも「説明下手だな」と思った。塩っ辛い、発酵、それだけじゃ相手の頭に絵が浮かばない。
余計に焦って、勢いで続けてしまう。
「……えっと、茶色くて……どろっとしてて……」
シルヴァンが眉を上げる。湯気の向こうでも分かるくらい露骨に。
「……おい」
新は言い方を選ぼうとして、失敗した。
「……うんこっぽい」
「食えないだろ、それ」
即ツッコミが飛んできた。
「言い方が悪かっただけです!」
「悪すぎる」
「ちゃんとした食べ物です。味噌を溶かして、味噌汁に……スープにすると美味いんです!」
「うんこっぽいスープって言うなよ」
「言ってねぇよ!」
新がむきになるほど、シルヴァンは面白そうに笑った。笑い声が湯気に混ざって、浴場の天井に吸われていく。
新も悔しいのに、つられて息が漏れる。湯の中だと、怒る気力が長続きしない。
笑いが落ち着いた頃、シルヴァンが湯を手で軽く叩いた。小さな波が新の胸元まで届いて、また静かに戻る。
「でもまあ、そういうのがあるのはちょっと羨ましいな。こっちは塩と香草ばっかだ」
「……たしかに味は薄いですよね」
「だろ。だから俺は肉を食う」
「結局、肉ならなんでもいいんじゃないですか?」
「よく分かってるじゃねぇか」
軽口が続く間だけ、頭の奥に張り付いていた緊張が少しだけ離れた。
新は湯の中で息を吐く。背中が浮く感じがして、肩の重さが軽くなる。
そのまま黙るのも変で、新は次に聞きたかったことを口にした。湯の温度で言いやすくなっている。
「……カンナさんって、普段、どんな人なんですか」
シルヴァンが一瞬だけ黙る。さっきまでの笑いが少し引いた。
でも、すぐにいつもの軽い顔に戻る。口調だけ、ほんの少し整う。
「真面目で頑固だな。あと……優しいお人だ」
「優しい……」
「優しいから、抱える。殿下は自分がやるって決めたら引かねぇ」
新は湯の中で息を吐いた。
昨日の短い会話だけでも、カンナが弱音を見せない人なのは分かる。だから余計に、無理を溜め込みそうにも見える。
「……フィオナさんとは、雰囲気違いますよね」
「そりゃ違う。立ってる場所が違うからな」
シルヴァンは湯の縁に腕を乗せたまま言った。指先で水面を軽く触ると、波が小さく広がる。
「殿下は決める側。フィオナさんは動かす側。それだけで空気が変わる」
「決める側……」
「国としてどうするか、どこまで踏み込むか、誰を守るか。そういうのは殿下が背負う。現場が勝手に決めたら、あとで国が割れる」
新は黙って聞いた。湯の中なのに、背筋だけが少し伸びる。
「で、フィオナさんは?」
「殿下が決めたことを、現場で形にする。危ない芽があれば潰すし、邪魔がいりゃ排除する。必要なら自分で前に出る。あの人はそういう人だ」
「……だから、あんなに強いんだ」
「強いし、躊躇しねぇ。迷ってる暇がねぇからな」
新は少し迷ってから聞いた。
「フィオナさんって人族ですよね?元から王宮の人なんですか?」
「さあな。細かいことは表に出てねぇ」
シルヴァンは肩をすくめる。
「ただ、殿下の下に来てからはずっと王宮警護隊の隊長だ。現場の取りまとめは全部あの人がやってる」
「……それだけ信頼されてるってことですよね」
「そういうこと。理由は知らん。けど、実力で黙らせてきたのは確かだ。俺も何回か黙らされた」
言い終わったシルヴァンが、湯気の向こうで口の端を上げた。
新は思わず頷いた。襲撃の時の動きだけでも、速さは見ている。
「……じゃあ、殿下がああやって踏ん張れてるのって、フィオナさんが前を支えてるからでもあるんですね」
「そうだ。殿下が背負えるのは、現場を任せられるフィオナさんがいるからだ」
シルヴァンは湯気越しに新を見た。
「だから、お前も変に気負うなよ。殿下を助けたいなら、まずは、自分の足で立てるようになることを優先するんだな」
「……で、ついでに言っとく」
新が顔を上げる。
「殿下のこと、好きになるなよ」
「は?」
シルヴァンはにやっとする。冗談の顔だ。
「俺のものだから」
「何言ってんですか」
「冗談だよ。って顔こわ」
笑ってから、すぐに続けた。今度は冗談じゃない言い方になる。湯気の向こうで目が笑っていない。
「でも好きになると、余計なこと考えて遅れる。遅れたら終わりだ」
「守るのは仕事だと思ってやれ。仕事なら、手が震えても動ける」
新は湯の中で頷いた。
「……ないですよ、そもそも身分が違いすぎるし……」
「よし」
シルヴァンが立ち上がる。湯が肩から落ちて、床にぱたぱたと音が散った。
「上がったらそのまま食堂行くぞ。殿下が少し一緒に食事でもってさ」
「……わかりました」
新も湯から上がった。タオルで髪の水をざっと取る。肩の鈍い痛みはまだ少し残っているが、湯で温まった分、動かしやすい。
外へ出ると廊下は冷たい。湯気が一気に引いて、肌がきゅっと締まる。食堂の方向に灯りと人の気配がある。
シルヴァンが笑いながら言った。
「あと、殿下の前でうんこっぽいは禁止な」
「言わねぇよ!」
「言う顔してたぞ」
「してねぇって!」
「してる。絶対してる」
二人は言い合いながら、食堂へ向かった。




