11.実践
木剣が振り下ろされる。
新は木剣を構え直し、手の内を締め、切っ先を相手の中心に置く。
(剣だけなら、自信はある)
小学校から高校三年まで、時間のほとんどを剣道に使ってきた。勝てない日もあったが、逃げたことはない。積み上げてきたものがある。
(やることは一つだ。これを、ぶつける)
新は「いつもの」踏み込みで距離を詰めた。狙いは面、頭部。迷いが一番少ない打ちだ。
だが、シルヴァンは正面で受けない。木剣をぶつけ合わず、体を半歩ずらして新の打ち筋だけを外す。
新の木剣は空を切り、手応えがない。
その一瞬の隙に、シルヴァンの木剣が新の前腕を軽く叩いた。痺れが走り、指が一瞬ゆるむ。
「っ……!」
握り直そうとした瞬間には、もう遅い。
シルヴァンが一歩だけ入ってきた。肩がぶつかる距離まで詰められる。間合いが潰れ、新の木剣は振り切れない。腕が詰まり、刃先が走らない。
そこへ膝の外側を蹴られた。関節が抜けるような感覚が走り、脚が崩れる。新の体が床へ落ちた。
「がっ……!」
背中が床に当たり、息が詰まる。肺が押しつぶされ、声が出ない。遅れて痛みが全身に広がった。
なのに、折れたはずの膝が、勝手に戻っていく感覚がある。気持ち悪い。
視界が揺れているところへ、シルヴァンが一歩近づいて言った。
「今のは、振った時点で負けだ。外されて、入られた」
新は歯を食いしばって起き上がった。膝は形を戻し始めている。動ける。動けてしまう。
痛みだけが置き去りで残って、呼吸が荒い。
シルヴァンが覗き込む。
「治り始めてるな。いけるか、アラタ」
「……もう一回!」
新が踏み込む。面を捨て、胴へ切り替える。先ほどとは違い、横から入れる形だ。
しかし、シルヴァンの木剣が新の木剣の腹を強く打った。刃先が下を向き、新の一撃は胴に届かず落とされる。
そのまま、シルヴァンの木剣が新の脇腹をコツ、と打った。鈍い痛みが残り、遅れて息が詰まる。
「ぐっ……!」
「遅い。構えた時点で、振り出しが分かりやすい。だから対処しやすいんだよ」
シルヴァンは木剣を肩に乗せながら言った。
新は構え直す。悔しくて、息が熱い。
(構えた瞬間、手の内が締まる位置も、肩の向きも、踏み込みの角度も、全部同じになる。自分では変えているつもりでも、結局はいつもの形に戻ってしまう)
新は反省しながら、次の打ち合いに向かう。
新が面に入る。シルヴァンはまた半歩ずれて、新の木剣の進む先から体を外した。新の木剣が空を切る。
空を切った瞬間、足が来る。
新の腹へ、蹴り。
新は肘を畳んで受けた。痛みが腕に走る。それでも腹の方がマシだと体が選んだ。
だが、守れたと思った瞬間、シルヴァンの木剣が新の肩を叩いた。肩が沈み、腕が重くなる。
「っ……!」
新は遅れて柄尻を返した。相手の手元を叩きたい。だが距離が足りない。
木剣の先が、シルヴァンの手首の近くをかすめただけだった。
シルヴァンは痛がらない。ただ、目だけが一瞬動く。
「今の狙いは悪くない。……けど届いてねえ」
新は奥歯を噛んだ。
「続けるぞ。痛みで立ち止まってる暇はねえ」
言い終わる前に、また打ってくる。
肩が当たる。体が流される。新の足が揃う。
足払い。新はまた床に落ちた。
「いっ……てぇ……!」
「起きろ。剣を持ってても、起き上がれなきゃ終わりだ」
新は息を吐きながら立ち上がる。脚が重い。痛みが溜まっている。戻っているはずなのに、打たれた感覚だけが残り続ける。
それでも踏み込む。面。胴。手元。全部、届かない。
届かないまま、こちらが当てられる。
前腕。肩。太もも。脇腹。打点が散るたび、体が遅れる。
(今のままじゃ、当たる場所を選んでがむしゃらに剣を振るってるだけだ……)
新は踏み込んだ。狙いは相手の手。木剣の柄を握っている指、そこを叩けば、剣は落ちる。
だから振りは大きくしない。短く、まっすぐ。狙い通り、木剣の先が手元へ走った。
が、空を切った。
シルヴァンが手首を引いた。新の木剣は相手の手前を叩くだけで終わる。
「くそ……!」
次の瞬間。
新が外れたと理解するより先に、シルヴァンの木剣が新の手首を打った。鋭い痺れが走る。握りがほどけかけ、木剣が落ちそうになる。
「っ……!」
新は歯を食いしばって握り直した。落とさなかったのは、腕の太さと握力に助けられただけだ。
シルヴァンが一歩引き、息を吐く。さっきまでの軽さが少しだけ消える。
「……いいじゃん。今の、落とさなかったの偉いぜ」
新は息を整えながら睨み返した。
「でも、当たらない……!」
「当たらないのは、読まれてるからだ」
シルヴァンは木剣の先で、新の胸のあたりを指すように振った。
「アラタ、お前は構えた瞬間に肩が固くなる。視線が手元に落ちる。相手の動きを見ようとして遅れる。そのせいで、次にどこを叩くかが見える」
新は言葉を失った。言われた通り、今も自分の肩が上がっている。
「それで俺は先に引けるってわけだ。外して、お前の空振りに合わせて叩ける」
シルヴァンは新の手首を軽く叩く仕草をして見せた。
「今みたいにな」
新は息を吐き、額の汗を手の甲で拭った。悔しい。だが黙っていたら、同じ負け方を繰り返すだけだ。
「……じゃあ、どうすればいいんですか。何から直せば」
シルヴァンは肩をすくめる。
「当て方の前に、まず正面から外れるのを覚えろ」
新は眉をひそめた。
「正面から……外れる?」
「相手と真正面でぶつかるなってことだ。半歩でいい。横にずれて、相手の正面から外れろ」
シルヴァンは自分の足元を木剣の先でトン、と指した。
「それから、距離を作れ。近い所で受けたら、押されて終わる」
新は頷いた。倒されたのはいつも、近い所だった。
「……正面から外れる。距離を作る」
「そう。だから、今からそれだけやれ。まず半歩ずれて正面を外せ。距離は、その結果ついてくる」
シルヴァンは木剣を握り直した。説明の延長で、自然に言う。
「俺が詰める。お前は受けに入るな。半歩ずれて、離れろ。まずそれだけできるようになれ」
新は構え直し、息を吸う。
「……分かりました」
「よし。まず一回、普通に詰めるぞ」
シルヴァンが動いた。
その瞬間、木剣が飛んできた。
「えっ……」
反射で新は首を引き、剣先を避けた。避けた瞬間、視線が一度だけ飛んできた木剣に吸われる。
「見るな!」
シルヴァンの声が飛んだ。だが遅い。その一瞬で十分だった。
肩がぶつかった。真正面からの体当たりではない。距離を殺す入り方だ。新の腕が詰まり、木剣が振れない。
「っ……!」
足が払われた。膝が抜け、床が近づく。
落ちる瞬間、膝に鋭い痛みが走った。喉の奥から声にならない息が漏れる。
「……がっ!」
新が倒れるより早く、シルヴァンは拾いに動いている。投げた木剣は床を転がり、次の瞬間には足で跳ね上げられ、手に戻っていた。
「半歩ずれろ。……と、言ったそばから邪魔が入る。戦場は親切じゃねえぞ」
新は歯を食いしばって立つ。痛みが残っているのに、戻りのせいで折れた実感が追いつかない。立ててしまうのが余計に腹が立つ。
「……もう一回!」
「来い」
新が踏み込む。面に行くと見せかけて、胴へ切り替える。横から入れる。
シルヴァンは受けない。ぶつけず、体ごと半歩ずれて新の剣を空振りさせる。
空を切ったところへ、すぐに打たれた。肩。次に前腕。小さく、確実に。
「っ……!」
「止まるな。外されたら、もう一本来る」
新は踏み込もうとして遅れる。遅れた分だけ近づかれる。肩が当たり、間合いが潰れる。
膝に蹴り。今度は外側。脚が抜け、また床へ落ちた。
「ぐっ……!」
シルヴァンは一歩引く。潰しに来ない。ただ、起き上がる時間もくれない。
「次いくぞ!」
新は立ち上がる。呼吸が荒い。
(見えてる)
(だから外される)
(だから入られる)
分かっているのに、体が追いつかない。
シルヴァンが木剣を高く振り上げた。真正面からの打ち下ろしに見える。
新は反射で、受けに腕を上げかけた。
その瞬間。
シルヴァンが木剣を床へ叩きつけた。
バン、と乾いた音。床板に積もった埃が跳ね、薄い白が視界に散る。
「っ……!」
目を細めた。視界が白む。ほんの一瞬。
その一瞬で、太ももに衝撃。足がもつれる。
次に背中を押された。体が流れ、床に転がる。
新は転がった先で木剣を探した。
踏まれた。
シルヴァンの足が木剣を床に固定している。新が手を伸ばした瞬間、足に力が増した。
「剣だけ追うな。まず立て」
「でも……!」
「でもじゃねえ。立て。立ってから考えろ」
新は唇を噛んで立ち上がった。剣がない。手が空になるだけで、急に世界が広く見える。
どこに手を出せばいいか分からない。
足が迷う。視線が泳ぐ。
そこへシルヴァンが入ってくる。
新は致命を避ける形だけ選んだ。肩を引く。顎を引く。腹を守る。
だが、守るだけだ。
肋に一発。腕に一発。脇腹に一発。痛い。全部、効く。
「っ……!」
返したい。押し返したい。掴みたい。何も出ない。
剣がないだけで、動きが薄っぺらくなる。自分でも分かるくらい、素人だ。
シルヴァンが一歩引き、拾った新の木剣を足で弾いて渡す。新が受け取る。
「今のが現実だ。武器が無い時がある。投げられる時がある。見えない時がある」
新は木剣を握り直し、息を吐いた。
「……分かりました」
「分かった顔じゃねぇな。でもいい。体に覚えさせてやる」
そこから先は、まともに勝負にならなかった。
逃げる。横にずれる。距離を作る。追いつかれる。転ぶ。起きる。
受けに入ろうとすると叱られる。剣を追うと踏まれる。目を動かすと入られる。
「受けるな! 今のは足から逃げろ!」
「っ……!」
「真っ直ぐ下がるな! 横だ、横!」
「分かって……!」
「分かってねえ! 分かってたらもう動いてる!」
夕方の光が床を斜めに照らす頃、新の脚は重く、腕は痺れて、呼吸だけがうるさくなっていた。
最後の一本。
シルヴァンが木剣を投げた。今度は顔ではない。視線を誘う位置、わざと見たくなるところだ。
新は歯を食いしばって前だけ見た。投げた剣は無視する。
突撃が来る。
新は半歩、横へ逃げた。真正面を外す。距離は詰まる。だが、ぶつかり方が違う。
蹴りが来る。
新は脛で受けない。太ももを引いて空振りにさせようとするができない。肩に当たる。痛い。よろける。
それでも、倒れない。
新は反射で木剣を返しかけて、途中で止めた。返すより先に、もう半歩ずれて相手の正面から外れる。
シルヴァンの次の一撃が、空を叩いた。
「……お」
シルヴァンの声が、少しだけ上がる。
新は息を吐いた。成功した感触は薄い。だが、正面を外せたのは確かだ。
次の瞬間、足を払われた。
新は結局、床に座り込む形になる。
「ぐ……っ」
シルヴァンが息を吐く。
「今日はここまでだな」
新はその場に座り込んだ。汗が顔から落ちる。腕も脚も重い。
(剣道の稽古とは全然違う……)
(今は欲張らない。まず半歩、横にずれる。正面から外れる。それを体に染み込ませる)
(剣があるうちにそれが出来なきゃ、剣を失った時はもっと何も出来ない)
新は呼吸を整えながら言った。
「……明日も、お願いします」
「当然。明日も明後日も、その次も。旅まで一か月だろ。休んでる暇はないぜ」
シルヴァンは笑って、木剣を壁際に戻した。
それから新を見て、肩をすくめる。
「剣を持ってる間は、まだ戦えてる。外されても立てるし、見込みはある」
新は悔しそうに黙る。
「でも剣を失った瞬間、一気に勢いが落ちる。足が止まって、手が迷う。あそこは素人同然だ」
「だからまずは半歩ずれて正面を外すのを染み込ませてやる。剣がある時からな。それが出来りゃ、剣を落とした時も生き残る動きに繋げられる」
「……」
「だからまず直すのはそこだな。剣が無い時に逃げるか、近い距離を捌く。立って、生き残る動きな」
新は息を吐いて頷いた。
「……分かりました」
シルヴァンが一歩寄ってくる。新の顔を覗き込むようにして、にやりと笑った。
「どうだ、シル兄の凄さ、分かったか?」
「……分かりましたよ。すごく」
「だろ」
シルヴァンは笑いながら、新の背中を軽く叩いた。痛みで新の肩が跳ねる。
「いって……!」
「よし。じゃ、とりあえず風呂行くぞ」
「……今から?」
「疲れてるだろ。汗流してスッキリしろ。体が重いまま寝ると、明日もっときつくなるぞ」
新は苦笑して立ち上がった。
「……分かりました。行きます」
「明日もよろしくな、アラタ」
「……よろしくお願いします」




