一話 燃え上がる業火
リンドブル近郊の森に住み着くのは、デイルと呼ばれる巨大な男だった。
森の奥に口を開けた洞窟には、最低限の生活道具しかない。
デイルは麻袋から固くなったパンを取り出し、歯で割るようにかじった。ここに来るまで、本当にいろいろあった。
かつて、力こそすべてと信じていた。力さえあれば、守れると。
だがそれは誤りだった。救ってくれた恩人たちも、最後に残った小さな命すらも、彼は守れなかった。
「……結局、俺にできるのは人殺しだけか」
血に濡れた少女の幻影が目の前に立つ。喉を裂かれ、声にならぬ口を動かしながら。
「サニア……すまない! すまない!」
嗚咽と共に頭を垂れる。だが答えは返らない。
彼女も、その両親も、村も――すべて戦火に飲まれた。傭兵だった自分の手で。
幻は何度も現れ、「まだ死ぬな、もっと苦しめ」と嘲るかのようだ。
贖罪のつもりで武具を売り払い、森の奥で抜け殻のように暮らしてきた。だがそんな日々も終わる。
「もう金も尽きる。食い物も水も買えやしない……それで、やっと楽になれる」
そう思いながらも、足は勝手に町へ向かっていた。
最後の金を握りしめ、食料を買うために。
「……何でだ。もう終わっていいはずなのに」
胸の奥に、ざわめきだけが残っていた。まるで「ここが死に場所ではない」と告げるように。
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森を抜けかけた時、デイルは母娘の姿を見つけた。
背にカゴを負い、楽しげに談笑しながら歩いている。まだこちらには気づいていない。
人に会う気分ではなく、迂回しようとした――その時。
茂みの奥に潜む、獣型の魔物の気配を察した。背筋が凍る。
笑顔の母娘は、自分たちが狙われていることなど夢にも思っていない。
(クソッ……!)
デイルは駆け出した。
「おい! こっちに来い! 魔物に狙われてる!」
母娘が振り返った瞬間、茂みから黒い影――ヘルハウンドが飛び出した。
母は娘を抱きしめ、背を向けて震える。
その姿が、戦場の記憶を呼び覚ます。
血に染まった家。倒れた夫婦。泣きながら手を伸ばす少女――サニア。
「……っ! 間に合ええええ!」
怠惰でなまった体に鞭打ち、必死に駆ける。
魔物が跳びかかり、牙を母親の首筋へ伸ばす。
「ぬおおおお!」
丸太のような腕が割り込む。牙が肉を裂き、血が飛んだ。
「ぐ……ぬぅぅぅ!」
苦痛に膝が折れそうになる。だが、母の陰から縋るように見上げる少女の瞳が、彼を踏みとどまらせた。
(まだだ……俺はまだ死ねない!)
「うおおおおお!」
全力で魔物を押し返す。幻のサニアが無言で見つめていた。
人の力に押され、怯んだヘルハウンドの噛む力が緩む。そこに勝機を見た。
「ぬううう!」
デイルは指を突き立て、魔物の目を潰す。
「キャンッ……!」
悲鳴を上げた顔面を殴り飛ばすと、獣は木に叩きつけられ、やがて怯えて森の奥へ逃げ去った。
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「はあ……はあ……」
どうにか追い払ったものの、噛まれた腕からは血が滴り落ちていた。
(犬ころ一匹に……俺も落ちぶれたもんだ)
「見せてください!」
横から声をかけられた。母親だった。恐怖の色を残しながらも、必死にデイルの腕へ手を伸ばしてくる。
「大丈夫だ……問題ない」
短く拒絶する。だが母親は強い口調で首を振った。
「駄目です! 魔物に噛まれたんです。放っておけば破傷風になります!」
「……だが、俺は――」
言葉を遮るように、母親が叫んだ。
「とにかく来てください! 近くに私たちの家があります。文句なら治療の後で聞きます!」
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結局、母親に押し切られる形で家に上がり込んだデイルは、椅子に座らされていた。
「ノルン、化膿止めときれいな布を持ってきて!」
「うん!」
母親にノルンと呼ばれた少女が、ぱたぱたと別の部屋へ駆けていく。
母親はデイルの腕をまくると、棚に置いてあった壺から柄杓で液体をすくい、両手に馴染ませ始めた。
鼻をつんと刺す、久しぶりに嗅ぐ酒精の匂い。
それで母親が手にかけているのが酒だと分かる。デイルの視線に気づいた母親が、手を動かしながら言った。
「今、手についた毒を落としているんです。えっと……お名前を伺っても?」
「デイルだ」
「デイルさんの腕にもかけますね。しみますけど、我慢してください」
「ああ……」
言うが早いか、母親は柄杓で掬った酒をデイルの傷口にかけた。
焼けるような痛みに顔が歪む。だが、傭兵時代に慣れ親しんだ感覚でもあった。強い酒を傷に浴びせる、あの粗野な治療の記憶だ。
「と応急処置はこれで良いでしょう。後はちゃんとした薬を塗らないと、今娘に取りに行かせてるから少し我慢してて下さい」
「いや、酒をかけたらもう充分だ、有り難う……」
「駄目です!お酒はあくまで応急処置。ちゃんとした薬は塗ります。塗らせて下さい」
「あ、ああ分かった……」
母親の強い口調に少し押されながら答える。
しかし、魔物にやられた傷や流れる血を見ても随分と慣れた調子をする。
「しかし随分と慣れているな。医者か?」
感心したように言うデイルに母親はくすりと笑い、首を横に振った。
「いえいえ、そんな立派なものじゃありません。そういえばまだ名乗っていませんでしたね。私はエリナ。リンドブルで薬師をしています」
「薬師か……。それで森に入っていたのか」
薬草の採集だろう。そこで魔物に襲われたに違いない。
「ええ。冒険者ギルドに薬草採取の依頼も出しているんですが、なかなか受けてもらえなくて。仕方なく、娘のノルンと一緒に取りに行っていたんです」
エリナは苦笑を浮かべ、ふと顔を和らげる。
「……遅くなりましたが、危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
「いや……そんな、俺は……」
デイルは視線をそらす。
(俺は感謝されるような人間じゃない)
胸の奥に重たい違和感を抱えながらも、怒鳴り返すわけにもいかなかった。
「お母さん! 持ってきたよ!」
その時、ノルンが布や瓶を抱えて戻って来た。
「有り難う。ノルン」
エリナがノルンから壺と布を受け取るとテーブルに置いた。
蓋が開けられると辺りに強烈な青臭い臭いが立ち込める。あまりの臭いに顔を顰めるデイル見たエリナが、苦笑いになる。
「酷い臭いですよね。でも効き目は保障します」
別に効き目を疑うつもりは無かったがこれを腕にる塗るのかとなんとも言えない気持ちになるデイル。
「お母さんの薬は凄く効くって評判なの。ギルドでも評判いいんだよ。大きなおじさん」
ノルンがデイルのほうにぐいと身を寄せクリクリとした目で見つめる。
(なぜ、子供はこう距離が近いんだ)
驚いて身を引くデイルに母親が苦笑いで言う。
「こらノルン。デイルさんが困ってるでしょう。あまりベタベタしない」
母親に注意されるもノルンは物怖じした様子もない。
「デイル?おじさんの名前?あたしノルン。8歳!」
子供を見ると、どうしてもサニアを思い出す。
(止めろ!この子はサニアじゃない!)
デイルはノルンの頭を撫でようと伸ばしかけた手を引っ込める。
「そうか、ノルンか……良い名だな」
「うん」
自慢げに頷く子供に思わず頬が緩んでしまう。こんな光景を見ていたエリナがノルンを笑いながら嗜める。
「ノルン、何かデイルさんに言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
エリナの言葉にノルンがハッとした表情を浮かべる。
「デイルおじさん、さっきは有り難う。お母さんを助けてくれて!」
「そうか……」
「うん、凄かった!デイルおじさんのパンチで、魔物がボーンってなって!凄く凄かった!」
子供特有の言い回しで必死にデイルの凄さを表現しようとするノルン。
(まただ。自分は礼を言われる存在ではないのに……。)
英雄譚の主人公を見るようなキラキラした目でこちらを見る少女を見ると胸が苦しくなる。
「ノルン、デイルさんに薬を塗りたいからちょっと離れてね」
「あたしが塗る!」
「駄目です!あなた手も洗って無いでしょう!」
ノルンの訴えはにべも無く却下された。
「はーい……」
シュンと肩を落としすノルンを見て苦笑いを浮かべたエリナは薬壺から軟膏を救い取ると細い指先でデイルの傷口に触れた。
腕に軟膏の冷たさと久々に感じる人肌の感触。
「ごめんなさい。娘もデイルさんのこと気に入ったみたいで」
エリナが柔らかく笑い、ふと問いかける。
「そう言えば……あの森で、何をしていたんですか?」
その問いに、デイルの胸の内がすうっと冷え込む。
あの森は、自らを罰するために選んだ場所。人に説明するようなものではない。
「……ただの流れ者だ。特に目的は無い」
吐き出した声は、氷の膜をまとったように冷たく、重かった。
「そう……ですか」
エリナは一瞬だけ手を止めたが、すぐに処置を続ける。
「ねぇ、お母さん。流れ者ってなぁに?」
ノルンが首をかしげながら尋ねた。
「それは……」と言い淀んだエリナの代わりに、デイルが答える。
「定職もなく、身元も定かじゃない人間のことだ。普通は、あまり関わらない方がいい」
「定職って?身元って?」
小さな顔に浮かぶ次々の疑問。デイルは考え込み、やがて苦笑いを混ぜて言った。
「つまり……大人なのに働きもしないで、ふらふらしてる奴ってことだ」
「えーっ! いけないんだー! あたしだってお母さんのお手伝いするもん! 大人なのにしないなんて、いけないんだー!」
「ぐっ……」
自分の言葉に刺されるような気分になる。胸の奥が痛んだ。
「ちょ、ちょっとノルン!」
エリナが娘を嗜める。
「命の恩人に失礼でしょう。謝りなさい!」
「いや、いい」
デイルは首を振る。
「本当のことだ。本当のことを言って謝らされたら、娘も納得しないだろう」
「でも……」
「本当に構わない」
そう言った直後、部屋に明るい声が弾んだ。
「じゃあね! デイルおじさん、お仕事してないなら冒険者になるんだよ!」
「ノ、ノルン!?」
突拍子もない提案に、エリナの声が裏返る。
「……冒険者?」
デイルも思わず聞き返した。
「そうだよ! お母さん言ってたもん。冒険者は人を助ける立派なお仕事なんだって!」
その言葉に、デイルの胸奥がざらついた。
人を助ける――それは、最も自分から遠い言葉だ。
助けられなかった命。救えなかった笑顔。血に沈んだあの少女。
(……俺が、人を助ける? 笑わせる……)
自嘲とともに冷えた思考が広がる。だが同時に、胸の奥底で熱のようなものがくすぶり始めていた。
(けど……もし、それが俺の贖いになるなら? 生きて、命をすり減らしてでも……。)
思い出すのは、サニアの最後。
徐々に光を失い。生命という光が消え失せる瞬間。
もう、あの娘を救い上げることは叶わない。だが――。
(なら俺が……お前の分まで生きる。人のために。俺の命ごと、全部使い潰してやる)
氷のように冷えていた胸に、じわじわと火が広がる。
それは救いではなく、贖罪の業火だった。だが、その炎に身を焼かれるのなら構わない。
「……冒険者か」
デイルは低くつぶやき、ゆっくりと顔を上げた。
「どうすれば、なれる?」