色がなくなる
次の日、僕と彼女の間には何の変化もなかった。
僕は誰にもあの場所を教えるつもりはなかった。
これ以上、立ち入り禁止を破ったことに対する罪悪感を抱える人を増やしてはいけない。
そんな使命感を抱いてしまった。
数学の先生が黒板に公式を書く。
それを特にノートに写すわけでもなく、僕は窓から校庭を見る。
今日は日付的に僕に当たることはない。
「じゃあ、問3の4問を菊池、木村、工藤、桜井
の4人は黒板に答えを書いて。」
桜井以外の3人が一斉に立ち上がりチョークを持つ。
桜井も少し遅れて、黒板に向かう。
だが、彼女はチョークを持たない。
どうやら、白のチョークがもうないようだった。
「桜井は黄色のチョークで答え書いて。」
そう先生に言われた桜井は体を一瞬硬直させて、少し寂しそうな笑顔で先生に告げた。
「私、色が見分けられないんです。」
その言葉で教室から色が失われた。そんな錯覚に陥った。
答えを書いている3人はチョークを持つ手を止め、ノートに問題を解いている生徒はシャーペンを持つ手を止め、再び校庭を眺めていた僕は彼女の方に振り返った。
先生が驚いたように、目を見開いたが、それも一瞬で
「じゃあ、何色でもいいよ」
と言った。
その対応の速さに僕は感服し、「次からは真面目に授業を受けよう」なんて場違いなことを思わず考えてしまった。
その後は何事もなかったかのように授業は終わりへと向かっていった。
***
「花!色が見分けられないってどういうことなの!?」
彼女は授業後に周りの人から怒涛の質問攻めを受けていた。
「そのままの意味。赤も青も私には全部灰色に見えるの。あっ、だけど、真っ黒と真っ白はわかるよ!その2つだけはありのままに見えるの。」
そう明るく言う彼女と対照に、周りの人たちは明らかに動揺していた。
誰も嘘とは思わなかった。いや、思えなかった。
クラス全員の前でそんな嘘をつく必要はない。
しかし、僕は違った。
彼女のその発言は嘘であると確信していた。
なぜあんな冗談にならない嘘をみんなの前でついたのか、それを訊くため、僕は今日もあの場所へ行くと決めた。
***
例の場所に着くと、彼女はすでに芝に寝転び夕日を眺めていた。
「おっ、今日も来てくれたんだ」
彼女は少し嬉しそうに微笑む。
僕は寝転ぶことなく彼女に問いただす。
「色の区別がつかないなんて、そんな嘘に何の意味があるの?」
思わず厳しい言い方になってしまったが、彼女は気にすることなく答える。
「なんで嘘だと思うの?」
「君は昨日、夕焼けを見つめてグラデーションの綺麗さに感心していた。普通、色の見分けがつかないならそんな感想は抱かない。」
「なるほどー。確かに、その通りだね。だけど私は嘘をついていないよ。
あの授業の時は色がなかった。けど、この場所には色がある。それだけだよ。」
彼女の意味のわからない回答に僕は腹を立てた。
彼女はまともに答える気がない。そうわかった途端に、力が抜けた。
「お前の言っていることは支離滅裂で、馬鹿げているよ。自分でもわかっているでしょ。」
その言葉を発した時、彼女は顔を顰めた。
「私に対してお前って言わないで。絶対に。」
彼女の放った言葉の雰囲気に思わず息を呑んだ。
なぜそんなにお前といわれるのを嫌がるのか、皆目見当もつかなかった。
「それは悪かった。けど僕は知りたいんだ。
あの言葉を発した意味を。」
彼女は少し間を置いて、普段の彼女からは想像もつかないようなか細い声で語り始めた。
「不思議な話なんだけどね、この場所にいる時だけは私の視界に色が宿るの。
夕焼けのオレンジ色も、芝生の緑も全部、この場所にいると私にはわかる。
灰色なんてものは今、存在しないの。」
彼女の言ったことがすぐ飲み込めるほど、僕はそんなあり得ない、御伽話のような話を聞き慣れてはいなかった。
しかし、なんとか頭で理解して、僕は筆箱から赤ペンを取り出し、彼女に訊いた。
「何色に見える?」
「赤色。ちなみに石川くんの筆箱は青色。
信じてくれた?」
思わず信じそうになった。けれども、色の区別がつかないという嘘をついているという可能性は払拭できていない。
だが、そんなことは証明できない。
そもそも、そんな嘘をつく必要もない。
「あまりに現実離れしている話ではあるけど、信じてみるよ。」
彼女はその言葉に満足したように、人懐っこい笑みを向けてきた。
「逆になんでこの場所だけ、色がわかるようになるの?」
「私にとって1番大切で大好きなお母さんとの思い出の場所だからだと思ってる。」
その意味を補足するように、彼女は自身の過去を語り出した。
「私は7歳まで色が見えたの。だけど、お母さんが交通事故にあって死んじゃった時から、色は奪われたの。今でもその事故現場には、近づけないくらい、その事故は私に大きな傷を残した。その後は、逃げるようにこの街から引っ越した。
白と黒以外は多少の濃淡があっても全部灰色。そんな生活が当たり前になってきた。
けれど、つい1ヶ月前にこの街に戻ってきた。そして、お母さんとの思い出を思い出すように、この場所に来た時、また私の瞳には色が映ったの。昔、よく一緒に遊んだこの場所で。」
彼女によって母親は、それほどまでに欠かせない人物であったのだろう。
僕は彼女の話を聞いて、思わず空を見上げた。普段はなんとも思わない夕焼けが心なしか、いつもよりも美しく感じた。