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隣にいたい

僕が目覚めたのは9時であった。


あんなに落ち込んでいた人の横で熟睡をかました僕は、自分の家なのにも関わらず居心地が悪くなった。


「あっおはよう。」


僕が上半身を起こすと、彼女は昨日よりかは随分と落ち着いた声でそう挨拶してきた。


僕も、おはようと返し、家を出る準備を始める。

彼女は、服装以外の準備はすでに終わっているようだった。


というか、着る服がないのだ。


母には悪いが、少しの間拝借させてもらおう。


そうしてものの30分程度で身支度を済ませた僕に彼女は羨ましそうに言った。 


「いいなぁー男の子は。そんな短時間で準備が終わるなんて。」


この言葉で僕が真っ先に抱いた感情は安堵であった。


こんな含みを持たせた言い方をできるなら、だいぶ立ち直ってきたのだろう。


僕らは家を出た。


電車の中は相変わらず人が少なく、会話しても煙たがれることもない。


「どこに行くの?」


「僕が見た中で1番の美しさを持つ場所だよ。」


そう言うと、彼女は慈愛に満ちたような優しい微笑みを浮かべた。

ここ最近で、久しぶりの自然な笑みだった。


僕が今しなければいけないのは、同情して彼女を慰めることではない。


この大きな困難に立ち向かい、乗り越えるきっかけを与えることだ。


その後、僕らの間に会話はなかった。

しかし、以前のように気まずさを感じることは一切なかった。


心地よい沈黙。 


観覧車の時とは違った。


その沈黙は、目的の駅に着くまで破られることはなかった。


***


「流石に遠すぎない?電車で1時間半もかかったよ。」


「美しいものを見るには対価が必要なんだよ。」


「私の場合はそれが、この目だったわけだ。」


僕は何も返すことができなかった。

完全に言葉選びを間違えた。後悔が押し寄せる。

しかし、ここで黙り込んでしまったのは更なる失敗だったと気づき、さらに後悔の念が強まる。


「いつもの石川くんだったら、涼しい顔して、そうだねみたいな思いやりのかけらもない返答をするのに。私に気を使う必要なんてないよ。」


「じゃあ、聞かせてよ。結局何があったのかを。」


彼女はそのことを訊かれることをわかっていたかのように、澱みなく淡々と語った。


「昨日も言った通りだよ。私の戸籍上は父であるあいつが、お母さんの遺産を使ったんだよ。

ギャンブルなんかに。」


彼女は尚も語り続ける。だんだんと冷たくなっていく声で。


「あいつはお母さんがいなくなってから壊れた。ギャンブルに明け暮れ、負けた時は私に当たる。

『お前のせいだ。お前が悪い。』

もう何度言われたかわからないよ。

そんなどうしようもないあいつも、お母さんの遺産にだけは手を出していなかったのに。」


僕が以前、彼女のことをお前と言った時に彼女が異様に激昂した理由がわかった。


ろくでもない父親を想起してしまうからだ。


彼女はその明るい性格とは裏腹に、壮絶な人生を歩んできているようだった。


「なかなかすごい人生でしょ。」


そう言いながら彼女は自嘲する。


僕は言葉を紡いでいく。


「僕には、君に共感することも同情することもできない。してはいけないと思う。

君のように僕は、母が亡くなったわけでも、父がギャンブルで自分の子供の希望を奪ったこともない。

当然、色が見えないこともなければ、君に新たな選択肢を用意することもできない。

でも…」


ゆっくりと息継ぎをする。 


僕らの間に風が吹き抜ける。


彼女が着ている青色の服が靡く。


僕が着ている白黒の服が靡く。


僕は、自然と口から出る言葉を続ける。


「君の隣にいることはできる。

どんな大きな困難に、どんな大きな壁に直面しても、それを乗り越える手助けはできる。

君を下から支えることができる。

これは僕にしかできないことではない。

けれど、これは僕がやりたいことなんだ。

僕は君の隣にいたいんだ。」


彼女は動かなかった。瞬きすらしなかった。


僕の目を見る。


彼女の目を見る。


彼女の目が潤む。  


僕の目が潤む。


互いに涙を流すことはなかった。


流してしまったら、涙と一緒に何か大切なものが流れてしまうような気がした。


「そういうことは、もっと声を大きく、勢いよくいうものじゃないの?」


そう言いながら、彼女は僕の目から視線を外す。


「ほら、早く案内してよ!」


そう急かす彼女の顔は、もう何度も見た、花ような笑顔であった。


***


先ほど言った言葉に羞恥を感じながらも目的地に到着した。


そこには、前にこの場所に訪れた時と変わらない風景が広がっていた。


遠くに見える大きな山々。


緑色の葉をつけた数多の木々。


それらを反射させている透明感のある青色の湖。


その全てを神々しく照らす太陽。


非常に美しかった。

ここは日本なのかと疑いたくなるくらいに美麗であった。


「君の目にはどう見えてる?」


この美しさは色ありきなのではと思い、訊くのは少し怖かったが、訊かなかればならない。


彼女からの返答はない。


この風景を瞬きもせずにその大きな目をさらに見開いて、見つめている。


その反応だけで十分だった。


彼女が瞬きをしない。

その反応をここでするのは、光栄なことだった。


「凄いね。」


「そうだね。」


そんな会話を久しぶりに交わす。


心が通じ合っているようであった。


手を繋ぐようなことはしない。


その行為は必要がないと心でわかる。


僕らはそのまま、この場所で何時間も一緒にいた。


***


帰りの電車に乗り、僕らの街に着いた後も僕らはずっと隣に居合った。


しかし、僕らは高校2年生だ。


いつまでもいつまでも隣にいたいという気持ちは大きくなり続けるが、17歳の僕らにはそれをすることができない。


24時間以上も一緒にいた僕らは、ついに別れた。


大きな名残惜しさを残して。

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