ヒ素中毒
領主館・デシャン・ド・ホルダー男爵の寝室
執事長クレメンスが静かに寝室の扉を開けた。
室内は厚手のカーテンが引かれ、空気がどこか淀んでいる。
広々とした部屋だが、そこには病人特有の静寂が漂っていた。
クレメンスが一歩前に進み、ベッドに横たわる男爵に向かって恭しく頭を下げる。
「お会いになるそうです」
彼の言葉にマリウスが軽く頷き、シマと共に部屋へと足を踏み入れた。
シマが目にしたのは、かつては強靭であったであろう男の姿だった。
デシャン・ド・ホルダー男爵──マリウスの父親は、広いベッドの上に横たわっていた。
彼の顔には頬を斜めに走る剣傷があり、病に伏しているとはいえ、その骨格や体格からかつての偉丈夫ぶりがうかがえた。
年齢は40代半ばといったところだろう。
しかし、今の男爵は衰弱しきっていた。
青白い顔、窪んだ頬、疲れた瞳。
そして何より、彼の全身から発せられる異様な虚脱感。
「…父上、体調はどうですか?」
マリウスが静かに尋ねる。
しかし、男爵は口を開かない。
ただ、微かに目を細め、ため息のような呼吸を漏らすだけだった。
良くないらしい。
「……」
マリウスはしばし沈黙した後、意を決したように言葉を継いだ。
「僕の友人を紹介したいと思い、連れてきました。彼は医学に精通している者です。」
「……は?」
シマの眉が一瞬ピクリと動いた。
──何を言ってくれるんだこいつは!
ハードルを上げるんじゃねえ!!
心の中で叫びながらも、表情には出さない。
ちらりとマリウスを見ると、彼は真剣な目でシマを見つめ、軽く顎を動かして「来い」と合図を送った。
(……ちっ)
シマは内心で舌打ちしながら、静かに男爵のもとへと歩み寄った。
ベッドの側に立つと、男爵の顔がはっきりと見える。
頬には古い剣傷。
体格は良く、健康であれば間違いなく屈強な戦士であったことがわかる。
だが、今の彼はやつれ、痩せこけていた。
「……失礼します」
シマはそう言って、まず男爵の手に目を向けた。
気づいたのは爪の異変だった。
(……爪に横線?)
爪をじっくりと観察する。
不自然な横縞模様が爪に刻まれている。
「……?」
男爵の手を取り、掌を見る。
次に目に入ったのは、皮膚に点々と現れた斑点のような模様だった。
「……」
さらに細かく診ていくと、皮膚の色素が部分的に抜け落ちていることに気づいた。
(……色素脱色、角化症……?)
ここまできて、シマはある病気の可能性に思い至る。
──これって、ヒ素中毒じゃね?
シマの脳内に、日本で見た医学的知識が次々と浮かんでくる。
──ヒ素中毒の主な症状
爪に横線(ミーズ線)、 皮膚の色素脱色、角化症(皮膚が硬くなる)、倦怠感、食欲不振、神経障害、筋力低下
これらの症状が揃っている。
確証はないが、ヒ素による慢性中毒である可能性が非常に高い。
「……どうだ?」
マリウスが低い声で尋ねる。
「断定はできねえが、ヒ素中毒の可能性が高い。」
「ヒ素……?」
シマは深く息をつきながら、できるだけわかりやすく説明する。
「ヒ素ってのはな、一気に飲ませればすぐに死ぬ猛毒だが、ごく少量を長期間摂取させると、身体がじわじわと衰弱していくんだ。」
「……」
「爪の横線、皮膚の色素異常、角化症──これらはすべてヒ素中毒の症状と一致する。」
「……それは、治るのか?」
マリウスが慎重に問いかける。
「……この症状は、何ヶ月、場合によっちゃ何年もかけて毒を摂取させ続けた結果だ。」
マリウスの顔に、冷たい怒りが浮かんだ。
「……父上を、少しでも楽にする方法は?」
「……とにかく、まずはヒ素の摂取を止めることだ。」
シマは淡々と答える。
「それと、解毒作用のある食事や薬草を摂取させる必要がある。」
「例えば?」
「解毒には、硫黄を含む食材、卵、ニンニク、タマネギが有効だ。それとミルクや緑黄色野菜を積極的に摂らせるべきだな。」
「わかった。」
マリウスはすぐさま執事長クレメンスに指示を出した。
「急ぎ、シマの指示に従った食事を用意してくれ。」
「かしこまりました。」
「それと、まだ完全に安心できるわけじゃねぇ。」
「……どういうことだ?」
「ヒ素中毒には遅れて発症する症状もある。内臓がダメージを受けていれば、回復しても後遺症が残る可能性がある。」
マリウスの顔が険しくなる。
「……つまり、治療が成功しても、完全に元の状態には戻れないかもしれない、ということか。」
「そういうことだ。」
シマは真剣な目でマリウスを見つめた。
「それでもやれることはある。まずは男爵の体力を回復させること、それから内臓へのダメージを最小限に抑えることが重要だ。」
「……わかった。」
マリウスは強く頷いた。
「シマ、頼む。父上を救ってくれ。」
「……できる限りのことはやる。」
シマは深く息をつく。
領主館会議室での報告
シマとマリウスが会議室に戻ると、すでにジトー、サーシャ、エイラ、マリウスの側近(ハインツ、ポプキンス、ビリャフ)、数人の使用人やメイドたちが待っていた。
二人の顔を見て、全員が静かに成り行きを見守る。
シマはまず、ホルダー男爵の容態について説明した。
「男爵はまだ40代半ばで体力がある。適切な治療を行えば3~6か月でほぼ回復するだろう。ただし、完全に元の健康状態に戻るには1年近くかかる可能性がある」
続けて、治療のポイントを伝える。
「できるだけ早く回復させるためには、しっかり休養を取らせ、体内のヒ素を排出するために水分をしっかり補給すること。そして、適切な食事と治療を続けることが重要だ」
さらに、注意すべき点も強調した。
「長期間の中毒のせいで、内臓や神経にダメージが蓄積している可能性がある。後遺症として、しびれ、内臓機能の低下、皮膚の変色などが残ることも考えられる」
「…命にかかわることは?」
マリウスが神妙な顔で尋ねる。
シマは少し考えてから、「…確信はできないが、このまま適切な治療を行えば命に関わることはないだろう」と答えた。
マリウスは深く息を吐き、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう、シマ。本当に感謝する」
続いて、ハインツ、ポプキンス、ビリャフ、使用人、メイドたち全員が一斉に頭を下げた。
この様子を見て、シマはホルダー男爵がいかに慕われていたかを改めて実感する。
しばしの沈黙の後、マリウスが口を開く。
「ところで…ヒ素中毒というのは、一体どういうものなのか?」
その問いに、シマはエイラに視線を向ける。
「エイラ、ヒ素という言葉を聞いたことはないか?」
しかし、エイラは首を振る。
「いいえ、聞いたことがないわ」
シマは周囲を見渡すが、誰もが首をひねるばかりだった。
(どうやら、この世界ではまだ知られていない毒らしいな…)
心の中で思いながら、シマは簡潔に説明する。
「ヒ素はな、少量を長期間摂取すると体に蓄積していく毒だ。最初はただの体調不良にしか見えねぇが、そのうち爪や皮膚に異常が出て、最終的には内臓がボロボロになって死ぬってことだ」
シマの説明を聞き、マリウスは驚いたように目を見開く。
「…そんな恐ろしい毒があるのか…」
すると、マリウスがふと疑問を口にした。
「…君はどこでそんな知識を?」
シマは一瞬、言葉に詰まるが、すぐに肩をすくめて軽く笑う。
「おっと、詮索はなしだ」
そう言うと、エイラやサーシャがくすりと笑い、マリウスも苦笑した。
「まぁ、君たちには色々と謎が多いが…今回は助かったよ、シマ。…次期領主として、また一人の人間として、君たちに報いたい。何か望みはあるかい?」
シマは腕を組みながら、あっさりと答えた。
「金でいいぞ。どうせ財産没収やら、ため込んでいた奴らから分捕った金があるだろ」
マリウスは苦笑いしながら肩をすくめる。
「この街の財政が厳しいことは話したよね?」
「ああ、聞いたな」シマは適当に相槌を打ちつつ、「その話はエイラとしてくれ」とあっさりと丸投げした。
エイラは優雅に微笑みながら、軽く礼をする。
「お手柔らかにお願いしますわ、マリウス様」
その間、シマとサーシャはメイドに頼んでお茶を飲み、ジトーはエールを飲んでくつろいでいた。
会議室の端でのんびりくつろぐ彼らの姿に、ハインツやポプキンスは何とも言えない表情を浮かべる。
「図太いというか、なんというか…」
ポプキンスがぼそりと呟く。
ハインツも「まぁ、あれが彼ららしいが…」と苦笑した。
その一方で、マリウスとエイラの話し合いは白熱していた。
「この街の財政は逼迫していて――」
「それは理解しておりますわ。ですが、それを理由に傭兵団への適切な報酬を渋るのは感心しませんわね」
「だからといって、財政を圧迫しすぎるわけにも――」
「そちらの都合はわかりますが、傭兵団としての立場も考えていただかないと困りますわ」
お互い一歩も譲らず、激しい駆け引きが続いた。
交渉の末、最終的に報奨金として100金貨で決着した。
「ふぅ…交渉でこんなに疲れたのは久しぶりだよ…」
マリウスがため息をつく。
エイラはにっこりと微笑んで、ティーカップを口に運ぶ。
「ご満足いただけたかしら、マリウス様?」
その様子を見ながら、サーシャはエールを飲むジトーに小声で言った。
「…エイラが交渉役で本当に助かったわ」
ジトーは笑いながらエールを一口。
「だな」
こうして、シマたちは正式に報奨金100金貨を受け取ることになったのだった。




