騒乱
真夜中、一つの影が闇の中を駆けていた。
家宰ドノバン・マルチネス。
彼の額には脂汗が滲み、荒い息を吐きながら街の外壁を抜け西へと向かっていた。
「クソッ…!」
焦燥を滲ませた声を漏らしながら、夜闇の中を足早に進んでいた。
まさか、こんなことになるとは。
——見誤った…!
あの嫡子がここまで思い切った手を打つとは…!
ドノバンは、マリウスを民想いの甘い小僧だと高を括っていた。
物価の上昇を抑えるために、わざわざ身銭を切ってまでするような小僧だ。
街を混乱させるようなことは絶対にしないと踏んでいた。
それが、まさかこのような大胆な策を仕掛けてくるとは——
「チッ…!」
苛立ちを抑えきれず、舌打ちをする。
——9年だ。
9年の歳月をかけ、ホルダー男爵の信頼を得て、家宰の地位まで上り詰めた。
男爵が政を執らせないようにした。
だが、それも元を正せば——ドノバン自身が仕組んだものだった。
何年もかけて、男爵に微量の毒を摂取させ続けたのだ。
少しずつ、少しずつ、決して即死するようなものではなく、
しかし確実に身体を蝕むような毒を。
結果、ホルダー男爵は立ち上がることすら困難となり、
領主としての務めを果たせなくなった。
そして、その隙を突くようにしてスニアス侯の後ろ盾を得た。
——領主代行の座。
それこそが、ドノバンの狙いだった。
スニアス侯に取り入るため、多額の献金を惜しまなかった。
その資金を用意するために、あらゆる手を尽くした。
違法な奴隷売買、教会、リュカ村との裏取引、ルダミック商会との忖度、ドロコソ商会との癒着、賄賂、横流し、住民たちからの搾取。
全ては、この街を支配し、やがて貴族に成り上がるため。
それが約束されていた。
スニアス侯は、領主代行としての実績を認めれば、
いずれ正式に爵位を授けると確約していた。
——その未来が、今、音を立てて崩れ去ろうとしている。
「…今は…逃げることだけを考えねば…!」
ドノバンは息を荒げながら、夜闇の中を駆けた。
「スニアス侯の元へ行けば、まだやり直せる…!」
そう思った瞬間——
「こんな真夜中に、どこへ行こうってんだ?」
低い声が、闇の中から響いた。
ドノバンはピタリと足を止めた。
二つの影が、目の前に立ちはだかる。
クリフとオスカーだった。
「…! 貴様らは何者だ!」
ドノバンは睨みつけながら吠えた。
「そこをどけ、愚民が!」
しかし、クリフとオスカーは微動だにしない。
「いやいや、僕たちはただの見張りだよ?」
クリフが肩をすくめながら言う。
「そうそう、まさかこの時間に街を捨てて逃げようとしてる家宰様がいるなんてなぁ?」
「や、やめろ!私に近づくな!」
ドノバンはじりじりと後退しながら、必死に声を張り上げる。
「お、怖いのか?それともやましいことでもあるのか?」
「貴様らには関係ない! 私に何かあればスニアス侯爵家が黙っていないぞ!」
その言葉に、二人の表情が変わった。
「へぇ…?」
クリフが興味深そうに首を傾げる。
「お前とスニアス侯爵家とは、どんな関係なんだ?」
「僕たち、そういう裏話が大好きなんだよなぁ。」
オスカーが、悪意のこもった笑みを浮かべる。
「くっ…!」
ドノバンは明らかに動揺していた。
「でも、この人が素直に話すとは思えないよ?」
「だな。ちょっと痛い目に遭った方が、話しやすくなるんじゃねぇか?」
「…その方が手っ取り早いよねえ?」
クリフとオスカーがゆっくりと歩み寄る。
「や、やめ…!」
——パンッ!
突如、乾いた音が響く。
オスカーの平手打ちだった。
「がっ…!」
——パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!
執拗に平手打ちが繰り返される。
バシッ!バシッ!バシッ!
「ひぃ…っ!」
ドノバンの頬はみるみる膨れ上がり、赤黒く変色していく。
「少しは話す気になった?」
オスカーが静かに問う。
「は、話すから…! もうこれ以上は…!」
「おいおい、まだまだ足りねぇんじゃねぇか?」
クリフがニヤリと笑い、足元を見下ろす。
「一本、いっとくか?」
次の瞬間——
バキィッ!!
「ぎゃぁああああああ!!」
ドノバンの右足が、無惨に折られた。
声にならない悲鳴を上げ、地面を転げ回るドノバン。
「おいおい、大声出すなよ。見つかったら面倒だろ?」
クリフがため息混じりに言う。
「なぁ、自発的に話してくれりゃ、こんなことにはならなかったんだぜ?」
「言う! 何でも話します! 言いますからぁぁ!!」
涙と鼻水を垂らしながら、ドノバンは必死に懇願した。
「へへっ、最初からそう言やよかったんだよ。」
クリフが満足げに頷くと、
「おやすみ。」
——ガツンッ!!
鋭い手刀がドノバンの首筋を叩き込む。
「ぐ…っ…」
ドノバンの意識が、闇に沈んだ。
「回収完了。」
オスカーがドノバンの襟首を掴む。
「んじゃ、運ぶか。」
「了解。」
二人はドノバンの体を引きずりながら、静かに闇へと消えていった。
向かう先は——倉庫11。
そこには、すべてを明るみに出すための準備が整いつつあった。
夜が明ける前、リーガム街はまだ眠りについていた。
しかし、その静寂の中で一人の青年が動き始める。
マリウス・ホルダー。
リーガム街の領主、デシャン・ド・ホルダー男爵の嫡子。
そして、今日を境に、この街の未来を決する男。
彼は既に決意を固めていた。
この街に巣食う不正を断ち切り、腐敗を正す。
そのために、彼は領主館の執事長クレメンス、メイド長オーラ、
そして側近の三人——ハインツ、ポプキンス、ビリャフと共に行動を開始した。
「執事長、メイド長。館の管理は頼む」
マリウスの声に、クレメンスとオーラは深く頷く。
「かしこまりました」
二人はすぐに領主館内の全使用人へ命令を下した。
全ての使用人、メイド、下男、見習い、警備兵は館内から一歩も出ることを禁ずる。
外の状況がどうなろうとも、館の安全を確保しなければならない。
ここにいる者の中にドノバンの手の者がいないとも限らない。
慎重に、確実に動くための措置だった。
「ドノバンを拘束する」
マリウスは手勢を率い、ドノバンの部屋へと向かった。
だが、そこに彼の姿はなかった。
「……クソッ!」
悔しげに奥歯を噛みしめる。
やはり、察知して逃げたか…!
しかし、まだやるべきことは山積みだ。
マリウスは感情を抑え、次なる行動へ移った。
「領軍を掌握する」
リーガム街の領軍兵舎へと足を向ける。
そこには、350人の兵士が駐留している。
ここを押さえれば、街の制圧は確実に進む。
兵舎前に立ち、マリウスは大きく息を吸い込んだ。
「デシャン・ド・ホルダー男爵の嫡子!マリウス・ホルダーが命ずる!」
その声は、まだ薄暗い朝の空気を震わせる。
「この街に巣くう不正を糾し、混乱を収め、街を守りたい者は、我に続け!」
その場にいた兵たちがざわめく。
その時——「領軍副団長、ギーヴ・コーエン!私はマリウス様の言葉に従います!」
力強い声が響く。
ギーヴ・コーエン。
領軍の実質的な指揮官ともいえる男。
彼が賛同した瞬間、兵士たちは一斉に動き始めた。
「東門、西門を固めろ!」
まずは街の出入りを封じる。
兵士たちは即座に動き、東門と西門を封鎖。
さらに、外壁からの侵入や脱出を防ぐための監視を強化する。
「ハインツ!」
マリウスは側近の一人、ハインツに目を向ける。
「兵を50人率い、教会関係者を拘束せよ!逃亡を防ぎ、誰とも接触させるな!」
「承知!」
ハインツは即座に動き、50人の兵士を引き連れ、教会へ向かった。
「ポプキンス!」
次に名を呼ばれたのは、もう一人の側近、ポプキンス。
「兵士50人を率いてドロコソ商会を制圧し、関係者を拘束せよ!」
「了解しました!」
ポプキンスもまた、即座に行動を開始する。
「ビリャフ!」
最後の側近に命じる。
「兵士30人を連れて、ルダミック商会の関係者を捜索・拘束しろ!」
「ハッ!すぐに!」
ビリャフもまた、自ら兵を率いて街へと散った。
そして、マリウスはギーヴ・コーエンへと向き直る。
「ギーヴ殿、兵士たちをたたき起こし、集結させよ!さらに、商人組合の関係者を拘束せよ!」
「心得ました!」
ギーヴは頷き、指示を出し始める。
リーガム街の支配構造が音を立てて崩れていく。




