日常
わたしの名前は――フリーデ。
クリフとケイトおねえちゃんが、一生懸命に考えてつけてくれた、大切な名前。
前は、名前なんてなかった。
呼ばれるときは「おい」とか「そこの子」とか、そんなふうで、それが当たり前だった。
だから最初に「フリーデ」って呼ばれたとき、なんだか胸の奥がくすぐったくて、でもすごく嬉しかったのを覚えてる。
わたしは王都のスラムで育った。
親はいない。物心ついたときには、もうそこにいて、小さい子たちと一緒に生きてた。
誰かに教わったわけじゃないけど、残飯を探して、泥水でも飲んで、寒いときは体を寄せ合って寝る。
それが普通で、それ以外の生き方なんて知らなかった。
怖い大人もたくさんいた。
怒鳴られたり、追い払われたり、時々蹴られたりもした。
だから、大人っていうのは怖いものだと思ってた。
――でも。
あの日、全部が変わった。
馬車が二台、ゆっくりとスラムに入ってきた。
こんな場所に来る人なんていなかったから、みんな遠くからじっと見てた。
最初に目に入ったのは、きれいな女の人。
あとでケイトおねえちゃんだって知るんだけど、そのときはただ「すごくきれいな人だな」って思った。服も、髪も、全部がわたしたちとは違ってた。
それから、大きな男の人。
本当に巨人みたいで、ちょっと怖かった。
ザックって名前だって知るのは、ずっとあと。
銀色の髪の男の人もいた。
冷たそうな顔をしてるのに、目がすごくきれいで、不思議な感じだった。
ユキヒョウって呼ばれてた。
それに、クリフ、フレッド、ベガ。
みんな背が高くて、いい服を着てて、まるで別の世界の人みたいだった。
最初は、やっぱり怖かった。
でも――炊き出しの時。
ケイトおねえちゃんが、わたしたちにしゃがんで目線を合わせてくれた。
そのときの顔、今でも覚えてる。
怖くなかった。優しかった。
それから、生活が変わった。
温かいご飯をもらった。
ちゃんとした寝床もあった。
毛布って、あんなにあったかいんだって初めて知った。
誰かに怒鳴られることも、蹴られることもなくて、ただ普通にそこにいていいって言われた。
それがどれだけすごいことか、最初はよく分からなかったけど――だんだん分かってきた。
ある日、怖い大人たちが来た。
いつもわたしたちを追い払うような人たち。
その人たちが――ケイトおねえちゃんの前で、ペコペコ頭を下げてた。
びっくりして、わたしは聞いた。
「ケイトおねえちゃんの方がエライの?」
ケイトおねえちゃんは、ちょっと笑って言った。
「そうよ。それにね、私の方が強いの」
強い——その言葉に、少しだけドキッとした。
「家族を守るために、強くなったのよ」
……家族を守るために。そのときは、よく分からなかった。
家族って何かも、守るってどういうことかも、ちゃんとは知らなかったから。
でも、その言葉は、ずっと耳に残った。
それから、わたしたちは旅に出た。
馬車に揺られて、いろんな場所に行った。
見たことのない街。見たことのない村。
どこも全部、スラムとは違ってて、目が回りそうだった。
ケイトおねえちゃんの家族や仲間にも会った。
『シャイン傭兵団』。
最初は名前も難しくて覚えられなかったけど、今はちゃんと言える。
みんな優しかった。面白かった。いつも笑ってた。
怖い大人なんて、ひとりもいなかった。
仔狼のアルにも会った。
ふわふわで、あったかくて、かわいい。
リズおねえちゃんの歌も聞いた。
踊りも見た。きれいで、楽しくて、なんだか胸がいっぱいになった。
それから――チョウコ町に来た。
最初は何もなかったって、メグおねえちゃんが言ってた。
「この町はね、私たちが一から作ったのよ」
その言葉に、わたしたちはびっくりした。
こんなに人がいて、家があって、あったかい場所を、自分たちで作ったなんて、信じられなかった。
今、わたしたちはここで暮らしてる。
スラムで一緒にいた子たちも、みんな一緒。
前よりも、ずっと笑うようになった。
わたしも、いっぱい笑ってる。
朝はお勉強。ちょっと苦手。
でも、ちゃんとやる。
終わったら、温かいご飯。
それからお昼寝。
ふかふかで、すぐに眠くなる。
起きたら――弓の練習。
小さな弓。
いっぱい練習して、強くなるため。
ケイトおねえちゃんみたいに、強くなりたいから。
でも、ちょっと練習したら――「おーい!一緒に遊ぼうぜー!」
だんちょーが来る。
シマだんちょー。
「広場に小山作ったぞ!ソリやろうぜ!」
すっごく楽しそうに言う。
……本当は、もっと弓の練習したい。
でも。
「いくー!」
って言っちゃう。
いつも誘惑に負けちゃう。
だんちょーは、いつも子供たちと遊んでる。
一緒に笑って、一緒に転んで、一緒に騒いで。
大人なのに、なんだか子供みたい。
でも、すごく強くて、すごく優しい。
ケイトおねえちゃんは――わたしのおかあさんで、おねえちゃんでもある。
優しくて、強くて、あったかい。
じゃあ――クリフは?
クリフは、いつも近くにいてくれる。
あんまりいっぱい話すわけじゃないけど、ちゃんと見ててくれる。
……おとうさん、なのかな?
まだよく分からないけど。
でも、いい。
ここには、わたしの“家族”がいる。
守りたいって思える人たちがいる。
あのときケイトおねえちゃんが言ってた言葉。
「家族を守るために、強くなる」
今は、ちょっとだけ分かる気がする。
だからわたしも――強くなりたい。
『フリーデ』として。ちゃんと名前をもらった、わたしとして。
十二月下旬、チョウコ町――スタインウェイ・ホルンの家、昼下がり。
外は冬の澄んだ空気に包まれているが、その家の中だけは妙に陽気な熱気に満ちていた。
木製の重厚なテーブルを挟み、向かい合って座る二人の男。
一人は、シャイン傭兵団相談役――スタインウェイ・ホルン。
かつてホルン族を率いた族長であり、六十を越えた今なお、その肉体は衰えを知らない。
太い腕、張りのある胸板、深く刻まれた皺すら威厳に変える風格を持つ男だ。
もう一人は、スレイニ族所属、アドルフ・レーア。
レーアの街の街長であり、五十代ながらも逞しい体躯を誇る。
スタインウェイに負けず劣らずの体格を持ち、その豪放な気質もよく似ていた。
二人の前には、銅板製の杯。
中身は――『ザックビール』
「ぅわっはっはっは!」
スタインウェイが豪快に笑いながら、喉を鳴らして飲み干す。
「くぅ~……美味すぎる!」
アドルフもまた、同じように一気に流し込み、満足げに息を吐いた。
昼間から酒。
しかも、ただの酒ではない。
喉を軽く刺激する微炭酸、爽やかな苦味、すっきりとした後味――これまでにない“新しい酒”に、二人はすっかり魅了されていた。
「この酒は最高じゃな!」
スタインウェイが机を叩く。
「このシュワシュワがたまらん!」
アドルフも頷く。
すでに数杯は空けている様子だった。
そんな中――
「……やっぱり酒を飲んでいやがったか……」
呆れた声とともに、遠慮なく戸が開かれる。
入ってきたのはゴードン・ハッサン。
眉間に皺を寄せ、二人を見据える。
「スタインウェイのオッサン、午後は手伝ってもらうぞ……アドルフもだ」
はっきりとした口調。
だが――
「この酒は最高じゃな!」
「どうすれば、このシュワシュワのエールが出来るんだ!」
二人はまったく聞いていなかった。
ゴードンは深くため息をつく。
「……聞けよ」
だが、その言葉も虚しく、二人は再び杯を傾ける。
――その頃、町の外れでは。
手の空いている者たちが作業に追われていた。
雪をかき集めているのだ。
酒やジュースを“キンキンに冷やす”ための、貴重な資源。
かき集めた雪は、氷室小屋へと運び込まれる。
木造の頑丈な小屋の中に、雪を押し込み、圧縮し、隙間なく敷き詰めていく。
床にも壁にも積み上げ、できるだけ長く保存できるよう工夫されている。
そこは単なる保管場所ではない。
貯蔵庫でもある。
チョウコ町には、その氷室小屋が十棟も存在していた。
その結果――町の周囲にはほとんど雪が残っていない。
少し離れた場所まで足を運び、わざわざ運んでくる必要があるのだ。
すべては――冷えた酒のために。
「……相談役、聞けよ」
再び、ゴードンが言う。
ようやくスタインウェイが顔を上げた。
「ん?なんじゃ?」
その態度は、あまりにも気まぐれだ。
だが、“相談役”と呼ばれると、どこか機嫌がいい。
その役職を、すっかり気に入っているのだ。
「だからな」
ゴードンは指を突きつける。
「飯食ったら午後から手伝え!美味い酒が飲みたいだろう?!」
その言葉に――「うむ、飲みたい!」
即答。
続く言葉は――「しかし断る!ワシは年じゃ!」
堂々たる拒否。
「若い者に頑張ってもらおう!」
アドルフも便乗する。
二人して、まったく悪びれない。
「……普段は年寄り扱いするなって怒るくせに、こんな時だけ……」
ゴードンのこめかみに血管が浮かぶ。
その時――「オヤジィ!飯だぞ!」
勢いよく戸が開く。
入ってきたのはダグ。
部屋に入るなり、その光景を見て――「……おいおい」
呆れた声を漏らす。
「二人して昼間っから酒かよ……よく持ち出せたな……」
視線がジョッキに注がれる。
「今週の氷室小屋の管理、どこの隊だよ?」
「カスパル隊だ!」
スタインウェイが即答する。
「ああ、そういうことか」
ゴードンとダグが同時に頷いた——納得。
養父の頼み…断りづらかったのだろう。
「……ダグ」
ゴードンがにやりと笑う。
「相談役たちは、手伝う気はないらしいぞ?」
その一言で、空気が変わる。
ダグの目が細まる。
「……言いつけてやるか」
低い声。
「ザックとフレッド、それからエイラ嬢、ミーナ嬢にな」
その名前が出た瞬間――スタインウェイとアドルフの顔色が変わった。
ザックとフレッド――キツ~い訓練が待っている。
エイラとミーナ――厳し~い説教が、軽く二時間は続く。
想像は容易だった。
「待て待て待て!」
スタインウェイが慌てて手を振る。
「ちょっとした冗談じゃ!真に受けるな!」
「そ、そうだ!」
アドルフも慌てて頷く。
「ちょっと揶揄っていただけだ!」
その必死さに、ゴードンとダグは顔を見合わせる。
「……どうする?」
「……どうするかな」
わざとらしく悩むふり。
「頼む!」
「やめてくれ!」
二人の大男が、揃って懇願する姿。
先ほどまでの威厳はどこへやら。
「はぁ……」
ダグがため息をつく。
「飯食ったら来いよ」
それだけ言う。
ゴードンも肩をすくめる。
「サボるなよ、相談役、アドルフ。」
「……うむ」
「……分かった」
しぶしぶ頷く二人。
チョウコ町の昼は、今日も騒がしい。
酒と笑いと、そして少しの騒動。
それらすべてが、この町の日常だった。




