教えを乞う?!
カシウム城、ジェイソンの私室。
厚い扉が静かに開き、ひやりと澄んだ気配が室内に流れ込んだ。
「ジェイソン様、お邪魔します」
低く落ち着いた声。
現れたのは、氷の刃隊隊長ユキヒョウだった。
銀髪と鋭い眼差しは相変わらずだが、その表情はどこか和らいでいる。
「マリウス君も元気そうだ」
軽く目を細めてマリウスに視線を向け、続いてシマたちを見る。
「シマ、ロイド、オスカー……君たちのことは、心配するだけ無駄だと分かってはいる。だが、それでも――」
一拍置いて、口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「無事な姿を見られて、正直嬉しいよ」
シマが肩をすくめると、ロイドは穏やかに笑顔を向け、オスカーは軽く手を振った。
そんなやり取りの最中、シマの腕の中で小さく身じろぎする白い塊があった。
「キュウ」アルである。
ユキヒョウは視線を落とし、すぐに察したように言った。
「深淵の森で、かい?」
「ああ」
シマの声がわずかに低くなる。
「託された。瀕死の状態だったが……かろうじて生命を繋いだ」
アルの背をそっと撫でながら続ける。
「こいつは大した奴だよ」
「キュウ!」
まるで誇らしげに返事をするアルに、オスカーが目を細めた。
「こんなに小さな身体で、懸命に生きようとしてたんです」
柔らかな声で語りかける。
「……よく頑張ったね、アル」
「キュキュウ!」
アルは嬉しそうに鳴き、ふわりと尻尾を揺らした。
「そうか……」
ユキヒョウはしみじみと呟き、ゆっくりと手を差し出す。
「それにしても、かわいいなあ」
慎重に抱き上げると、その真っ白な毛並みを撫でる。
「特にこの白さが素晴らしい。雪原みたいだ」
「キュウ~」
アルは警戒する様子もなく、目を細め、なされるがままになる。
喉の奥で小さく満足げな音まで立てていた。
「……懐いたな」
シマが半ば呆れ、半ば感心したように言う。
「動物に好かれるのは昔からでね」
ユキヒョウはどこか誇らしげだ。
その時、控えめな足音とともに使用人が入室した。
「失礼いたします」
テーブルの上に、深い色合いのボトルと磨き上げられたグラスが置かれる。
慣れた手つきで栓を抜いた瞬間、室内の空気が変わった。
ふわり――甘さと深みを併せ持つ、熟成された果実の香りが広がる。
「……さすがだ」
マリウスが思わず息を吐く。
「七十五年物でございます」
使用人が一礼する。
「デキャンターズ、いたしますか?」
「ありがとう」
ユキヒョウはアルをそっとシマに返し、静かに頷いた。
「そうしてくれるかい」
使用人は恭しく応じ、ワインをデキャンタへと移す。
液体が器に触れるたび、さらに香りが立ち昇る。
重厚な私室に、静かで濃密な時間が流れ始めていた。
グラスを手に取ったユキヒョウは、まず一口、ゆっくりとワインを含んだ。
そのまま目を閉じ、しばし言葉を失う。
舌の上で転がすように味わい、喉を通る余韻まで確かめてから、ふう、と小さく息を吐いた。
「……なるほど」
静かに目を開き、満足げに微笑む。
「ジェイソン様、さすがですね。やはりこちらへ来て正解でした」
「それほど褒められると照れるな」
ジェイソンは肩をすくめ、苦笑混じりに応じた。
「私はそこまでのワイン通ではないんだ。ただ、侯爵家としての“見栄”がある」
そう言って果実酒が入ったグラスを軽く傾ける。
「訪れたゲストには、それなりのもてなしを。格を示さねばならない――貴族社会というのは、そういうものだからね」
「なるほど……」
ユキヒョウは納得したように頷いた。
「だが、その見栄のおかげで、我々がこの一本にありつけるわけだ」
「結果的に、そうなるね」
二人のやり取りを聞きながら、ロイドが言う。
「ユキヒョウさん、こちらのワインも美味しいですよ」
勧められた別のグラスを差し出す。
「香りの立ち方が少し違います」
「ほう……」
ユキヒョウは興味深そうに受け取り、今度は慎重に香りを確かめてから口に含んだ。
「……これは」
自然と口角が上がる。
誰の目にも、それが“満足”の表情であることは明らかだった。
「いいですね。重さがありつつも、くどくない。飲み疲れしない」
「ですよね」
ロイドは嬉しそうに微笑む。
「景色も素晴らしいですよ」
今度はマリウスがバルコニーの方へと視線を向けた。
「夜になると、また印象が変わるよ」と言うジェイソン。
「それはぜひ見たい」
ユキヒョウは立ち上がり、グラスを手にしたままバルコニーへと向かう。
ジェイソン、シマたちもそれに続いた。
夜の帳が静かに降り、城塞都市は無数の灯りに包まれている。
電気など存在しない世界だが、家々の窓から漏れる明かり、街路に並ぶランタンスタンドが、柔らかな光の帯を描いていた。
「……これはすごいね」
ユキヒョウは思わず呟く。
「こんな景色、そうそう見られるものじゃない」
「だろう?」
ジェイソンは誇らしげでもあり、どこか遠い目でもあった。
ユキヒョウはしばらく街を眺め、やがて一点を指差す。
「あそこ……ひときわ明るい…歓楽街だね」
「何人かは、もう遊びに行ったか?」
シマが聞く。
「独り者の団員たちが行ったみたいだよ。今日は行ってないみたいだけどね」
「別に咎めるつもりはねえさ」
シマは夜景から目を離さず、淡々と言った。
「むしろ大いに結構だ。任務に支障をきたさねえ限りな」
「それがシャイン傭兵団流だしね」
ロイドが穏やかに頷く。
「でも、ときどき思うんだよね」
オスカーが苦笑しながら口を挟んだ。
「シマは、おおらかすぎて……甘くない?って」
「それは言えてるね」
ロイドも同意する。
「家族や団員たちには、特に甘い」
「おいおい」
シマは眉をひそめるが、否定はしない。
その様子を見て、ユキヒョウが声を上げて笑った。
「あはははは!」
そして意味ありげに続ける。
「だけど、その分――サーシャ嬢たちが、ね?」
「……ああ」
誰かが短く相槌を打つ。
一同の脳裏に、腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべる女性陣の姿がよぎった。
次の瞬間、抑えきれない笑いが広がる。
夜風に混じって、城の高みからこぼれる男たちの笑い声。
重責も立場も、今この瞬間だけは脇に置かれ、ただワインと景色と仲間を楽しむ時間が、静かに流れていった。
再びテーブルへと戻り、各々がグラスを手に腰を落ち着けると、自然と話題はユキヒョウが来る前に盛り上がっていた“アイキドー”へと戻っていった。
ワインを一口含みながら、ユキヒョウが苦笑混じりに口を開く。
「僕も、あれは今まさに“身体に叩き込まれている最中”だよ。……容赦なくね」
グラスを置き、肩をすくめる。
「もう少し、優しく教えてくれてもいいんじゃないかな?」
即座に返したのはシマだった。
「身体に叩き込んだ方が早えし、確実だ。お前もそれを望んでたじゃねえか」
「それは……まあ、確かに」
ユキヒョウは苦笑しつつも否定しない。
「加減というものがあるだろう?……いや、十分に手加減されているのは分かっているんだけどね?」
「そこなんですよ」
オスカーが少し困ったような表情で頷く。
「ユキヒョウさんの場合、どこまで本気で、どこまで手加減すればいいのか……その線引きが、正直とても難しい」
「たまに」
ロイドも真顔で続けた。
「背筋が寒くなるような攻撃が飛んできますし……」
「……」
一瞬、場の空気が静まり、ユキヒョウは目を瞬かせた後、ふっと息を吐いた。
「なるほど……そう言われると、納得するしかないね」
そして自分に言い聞かせるように言う。
「僕も、力をつけてきたということだと、今は前向きに受け取っておこう」
その様子を見ていたジェイソンが、グラスを指で軽く回しながら口を開いた。
「それで……さっきから気になっているんだが、“力ではなく理”という話」
視線をシマへ向ける。
「もう少し詳しく聞かせてもらえないか?」
「先ほどの“小手返し”でしたね」
マリウスも思い出したように頷く。
「あれが、まさに力ではなく理、ということなのだろう?」
「そういうことだ」
シマは短く頷いた。
「合気道はな、合理的な身体の運用で、体格や体力の差を埋める武道だ。相手の力を正面から受け止めるんじゃねえ。流して、崩して、制する」
テーブルに手を置き、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺たちはそれを、自分の武器――剣や槍、あるいは素手とどう組み合わせるか考える。どうモノにするかは、結局そいつ次第だ」
ジェイソンは真剣な眼差しで聞いていたが、やがて静かに息を吐いた。
「不思議な感覚だったよ」
先ほどの出来事を思い返すように言う。
「全く力を入れていないのに、腰砕けのように倒れるんだからね」
「それが“理”だ」
シマは簡潔に答える。
そして、ふと思い立ったようにマリウスを見た。
「マリウス、お前もやってみるか?」
「……え?」
一瞬、目を丸くするマリウス。
「大丈夫だ」
シマは立ち上がり、マリウスの前に回る。
「ジェイソンにできたんだ。お前にもできる」
半ば強引に立たされ、マリウスは戸惑いながらも頷いた。
シマは手短に構えを説明し、手首の取り方、体の向き、重心の移動を示す。
「いいか、力を入れるな。相手を倒そうとするな。ただ、流れを作れ」
「……わかった」
マリウスは真剣な表情でシマの手首を取る。
「そのまま……そうだ」
次の瞬間。
「……ととッ、そこまでだ!」
シマが慌てて声を上げた。
ぐらり、とシマの体が傾き、思わず一歩踏み出して体勢を立て直す。
「演技じゃねえぞ、今の」
「……」
マリウスは目を見開いたまま、呆然と自分の手を見つめていた。
「……私は、力を入れていない……」
ぽつりと呟く。
テーブルの上にはワインと果実酒。
重い責務も、剣戟の記憶も一旦脇に置かれ、城の一室では“理”を巡る静かな興奮が、ゆっくりと広がっていった。
ジェイソンはグラスを静かにテーブルへ置き、少しだけ姿勢を正した。
その表情には、先ほどまでの和やかさとは別の、真剣な色が宿っている。
「……教えを乞うことは、できないかい?」
そう問いかけられ、シマは一瞬きょとんとした顔をした。
隣を見ると、マリウスもまた、期待を隠しきれない目でシマを見つめている。
「う~ん……」
シマは後頭部をかきながら、正直なところを口にした。
「俺たちは、いずれ帰っちまうしなあ」
その言葉に、マリウスの表情がわずかに曇る。
だが、すぐにユキヒョウが口を挟んだ。
「そこは問題ないんじゃないか?」
楽しげに微笑みながら、ユキヒョウは続ける。
「エリカ嬢の侍女たちがいるじゃないか」
「……ああ」
シマはそこで思い至ったように頷く。
「確かに、彼女たちがいたな」
僅か半年弱とはいえ、エリカの侍女たちはチョウコ町で生活し、シャイン傭兵団と日常を共にしていた。彼女たちは女湯の管理や掃除を自分たちに任せてほしいと申し出る。シマたちにとってはまさに渡りに船だった——とは言え空いた時間をもてあます侍女たちは、エリカと一緒にシャイン傭兵団の訓練にも参加していたりもしていた。
侯爵家長女エリカの侍女ともなれば、家柄も確かであり、文武両道に秀でた者たちでもある。
エリカが覚えたてのアイキドーを試せば、侍女たちが相手を務め、逆に侍女たちが技をかけ、エリカが受けることもある。小手返しはもちろん、基本技を一通り身につけ、すでに初心者の域はとうに超えていた。
「アンネさん、コリンナさん、バルバラさん、ベティーナさん、ヘルガさんのことだね」
ロイドが名前を挙げる。
「えっ……?」
ジェイソンが思わず声を上げた。
「エリカの侍女たちも、アイキドーを使えるのかい?!」
「ええ」
オスカーが頷く。
「エリカさんと、よく一緒に稽古してましたよ」
「初心者レベルではありませんね」
ユキヒョウも静かに評価を口にする。
「エリカ嬢もそうだけど、彼女たちも筋が良い」
「ユキヒョウがそう言うんなら、間違いねえな」
シマは即座に言った。
その言葉に、ジェイソンは感嘆したように息を吐いた。
「……侍女というのは、ここまで鍛えられるものなのか……」
「鍛えられた、というより」
ロイドは少しだけ笑う。
「彼女たち自身が、学ぶことを楽しんでいましたから」
そのやり取りを聞いていたマリウスは、しばらく黙り込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「……私は」
その声は、珍しく少し硬い。
「恥を忍んででも、教えを乞いたいです」
一同の視線が集まる中、マリウスはジェイソンへ向き直った。
「ジェイソン様。お一人、リーガム街へ派遣していただけませんか?」
その言葉には、覚悟が滲んでいた。
「……エリカに、お願いしてみよう」
ジェイソンは少し考えた後、ゆっくりと頷く。
「私も……彼女たちに教えてもらおう」
グラスを手に取り、微笑む。
「力ではなく理。身につける価値は、十分にありそうだ」
シマはそんな二人を見て、どこか満足そうに鼻を鳴らした。
「いいんじゃねえか。学びたいって気持ちがあるならな」
責任と立場を背負う者たちが、なおも強さを求め、理を学ぼうとする。
その姿は、剣や槍とは違う形で、確かに“戦う者”の顔をしていた。




