重圧と責任とアイキドー?!
カシウム城の奥、静けさに包まれた一角にあるジェイソンの私室は、城の中でもひときわ落ち着いた空気を湛えていた。重厚な扉が閉まると、外の喧騒は嘘のように遠のく。
壁には控えめな装飾と書架が並び、実務の場であることを感じさせながらも、どこか個人の息遣いが残る空間だった。
「私がね、家族と側近、それに使用人以外の者をこの部屋に通したのは……君たちが初めてだよ」
そう言って、ジェイソンは柔らかく微笑む。
「そりゃあ光栄だな」
シマが肩をすくめて応じる。
ロイドは穏やかな笑みを浮かべ、オスカーはいつも通り平静を装っているが、マリウスはわずかに背筋を伸ばし、空気を噛みしめるように周囲を見渡していた。
そしてシマの腕の中では、真っ白な仔狼アルが小さく鼻を鳴らし、くんくんと新しい匂いを確かめるように首を動かしている。
「この景色を、見せたくてね」
ジェイソンはそう言うと、迷いのない動きでカーテンを引いた。
風が室内へ流れ込み、そのまま彼はバルコニーへと歩み出る。
続いてシマたちも外へ出た。
眼下に広がるのは城塞都市。
一望とまではいかないが、東南から東北にかけての街並みが視界いっぱいに広がり、その向こうには堅牢な城壁が立ちはだかっている。
城壁の先は見えず、この都市が「守られた世界」であることを改めて実感させられた。
「これは……凄いですね……!」
思わず声を漏らしたのはロイドだった。
「だろ?」
ジェイソンはどこか誇らしげに、しかし自慢しすぎぬように頷く。
「うわあ……」
オスカーは言葉を失ったまま、街の広がりに目を奪われている。
「……こうして上から見ると、街の区画もよく分かりますね」
マリウスは冷静に観察しながら、整然とした街路と建物の配置を目で追った。
「今は理路整然と建ち並んでいるけれどね」
ジェイソンは城壁の方向を見つめながら続ける。
「何十年、何百年……いや、それ以上の時間をかけて今の形がある。ご先祖様たちの苦労と工夫、その積み重ねを思うと……自然と頭が下がるよ」
「街並みも立派だけど」
シマが腕の中のアルを軽くあやしながら言う。
「この城と城壁を作り上げたことの方が、正直すげえと思う。これ、どんだけの人と時間を要したんだ?」
「言われてみれば確かに……」
オスカーも同意するように頷く。
「想像もつかない年月と労力だろうね」
「ジェイソン様の前で、こんなことを言うのは失礼かもしれませんが……」
ロイドは一瞬言葉を選び、それから続けた。
「歴史の重みを、強く感じます」
「責任の重みも、ね」
マリウスが静かに言葉を継ぐ。
「私が背負っているものとは……比べ物にならないほどの重圧が、ここにはある」
「それも侯爵家嫡男に生まれた宿命さ」
ジェイソンは軽く肩をすくめて答えた。
その表情はいつも通り涼やかだが、決して軽い言葉ではない。
重圧から逃げるでもなく、押しつぶされるでもなく、正面から受け止め、今日まで戦ってきた者の顔だった。
シマはしばらく黙って街を眺めていたが、やがてぽつりと口を開く。
「ジェイソン……お前は凄いな」
そして少し首を振り
「いや、お前だけじゃない。ブランゲルたちもそうだし、マリウス……お前たちもそうだ。当たり前みたいな顔で、人の営みを守ってる」
ロイドが深く頷く。
「普段の日常は、決して当たり前じゃない、陰で尽力している人たちがいることを……忘れてはダメだね」
「シマ」
オスカーが静かに言う。
「僕たちも、責任は確実に増えてきている。でも……弱音を吐いてはいられないね」
夕暮れの光が城塞都市を包み込み、長い影を落としていく。
バルコニーに立つ彼らの背中は、それぞれ立場も重さも違えど、同じ方向――人々の暮らしと明日――を見つめていた。
その腕の中で、アルが小さく「キュッ」と鳴き、まるでこの景色を胸に刻むかのように赤い瞳を細めていた。
テーブルを囲み、穏やかな灯りの下で五人は腰を落ち着けていた。
ジェイソンの前には果実酒、マリウスとロイドはワイン、オスカーは果実酒、シマは相変わらずのジュース。城の喧騒から切り離されたような静けさが、この小さな卓を包んでいる。
ジェイソンは果実酒を一口含み、喉を潤してからふっと目を細めた。
「母上がね、こう言っていたよ。――父上とエリカが戦っている姿は、怖くて……それでいて美しかった、と」
その言葉に、マリウスは軽く眉を上げ、ロイドは黙って耳を傾ける。
「私も同感だ」
ジェイソンは続ける。
「恐ろしいほどの迫力があったのに、目が離せなかった。見惚れていた、というべきかな。信念を持つ者同士が本気でぶつかり合う姿は……どうして、ああも美しく見えるんだろう?」
そして、ゆっくりと視線を巡らせる。
「君たちも、そうなのかな?」
一瞬の沈黙のあと、シマが言う。
「どうなんだろうな……少なくとも、俺の戦い方は美しいとは言えねえな」
そう言って、ジュースを一口飲む。
「生き残るために、殴って、投げて、逃げて……泥臭いもんだ」
「僕たちも同じです」
ロイドが静かに言葉を継ぐ。
「生き残るために剣を振るい、槍を振るいます」
オスカーも頷きながら、淡々と続ける。
「ズルい、卑怯、逃げる。生き残るためなら、どんな手でもためらわず使います。正々堂々なんて言葉は僕たちにはありませんよ」
その言葉を受け、マリウスはワイングラスをテーブルに置いた。
「……生き残ること自体が、君たちの信念なのかもしれないね」
「そうかもしれません」
ロイドはワインを一口含み、静かに息を吐いた。
ジェイソンは顎に手を当て、しばらく考え込む。
「なるほど……」
そして、ふと表情を和らげた。
「ところで……」
ジェイソンはシマを見る。
「あの“アイキドー”といったかな? 私でも修得できると思うかい?」
「あ、それ」
マリウスも興味深そうに身を乗り出す。
「私も興味がある。理論的に説明できるなら、なおさらだ」
「できんじゃね?」
シマは軽く言った。
「むしろ、二人とも向いてると思うぞ」
「僕たちはね」
オスカーが遠い目をして果実酒を口に運ぶ。
「身体に叩き込まれたから、考える前に動く感じなんです。」
「その後で、人間の構造について教えられました」
ロイドが補足する。
「関節の向き、重心、力の流れ……どこに負荷をかければ、人は簡単に崩れるのか」
「人間の構造?」
マリウスが興味を隠さずに聞き返す。
「確か……相手の力を利用すると言っていたね?」
ジェイソンも思い出したように言う。
「ああ」
シマは頷いた。
「基本はそうだな。力で押し返さねえ。流れに乗せて、ちょっと方向を変えるだけだ。まあ、他にも技はあるけど」
そう言うと、シマは立ち上がった。
「百聞は一見にしかず、だ。ジェイソン、ちょっと立ってくれ」
ジェイソンも素直に立ち上がる。
「ここで?」
「大丈夫だ、危ねえことはしねえ」
シマはジェイソンの手首を軽く取った。
「これは“小手返し”ってやつだ」
その手つきは驚くほど優しく、力が入っているようには見えない。
「いいか、掴まれた力を抜かずに……こうだ」
シマがほんの少し手首の角度を変え、体重移動を添えた、その瞬間。
「……っ?」
ジェイソンの体がふらりと傾いた。
「おっと」
咄嗟に支えようとしたが、シマは途中で手を離した。
控えていた使用人が慌てて近づき、ジェイソンが実際に試す番になる。
「ちょっといいかい?」
ジェイソンは申し訳なさそうに言い、先ほど教わった通りに使用人の手首を取った。
――軽く、ほんの軽く。
次の瞬間。
使用人は「え?」と声を漏らし、腰が砕けたようにその場に崩れ落ちた。
「……!」
場が一瞬、静まり返る。
「だ、大丈夫です!」
使用人は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
ジェイソンは自分の手を見つめ、首を傾げる。
「え……?私は、全く力を入れていないのに……?」
シマはニヤリと笑った。
「だから言ったろ。力はいらねえ。相手が立ってるって事実を、ちょっと崩しただけだ」
テーブルに戻り、再び杯を手にする五人。
戦いの“美しさ”とは何か、生き残るという信念とは何か――その答えはまだ定まらない。
だが、この静かな夜の語らいは、確実に彼らの中に新しい視点を刻み込んでいた。
ジェイソンの私室に、控えめだがはっきりとしたノック音が響いた。
談笑の余韻がまだ空気に残る中、ジェイソンは一瞬だけ視線を上げ、何も言わずに使用人へ目配せする。その仕草には、この部屋の主としての自然な威厳があった。
使用人は一礼し、静かにドアを開ける。
「――シャイン傭兵団、氷の刃隊隊長。ユキヒョウ様がお越しになられました」
その名が告げられた瞬間、シマがわずかに眉を動かす。
「通せ」
ジェイソンは短く、それでいて迷いのない声で答えた。
「……アイツ、こっちに来たのか……?」
シマは椅子にもたれたまま、小さく呟く。
「ふふ」
ロイドが口元に微笑みを浮かべる。
「ユキヒョウさんのことだから、お城のワイン目当てじゃない?」
「ああ、なるほどな」
シマは納得したように頷く。
「ユキヒョウさん、ワインにはうるさいからね」
オスカーも思い出したように言う。
「以前ここに来た時なんて、ワイングラスの指定までしてたよ、ハハハ」
ジェイソンも軽く笑う。
「香りの立ち方が違うとか、縁の薄さがどうとか……」
そんな会話を交わしているうちに、使用人が一歩前に出た。
「ジェイソン様。七十五年物のワインがございますが、いかがなさいますか?」
「うん、それを用意して」
ジェイソンは即答し、ふと思い出したように続ける。
「ちなみに、今マリウスたちが飲んでいるワインは?」
「七十三年物でございます」
使用人は淀みなく答える。
「七十五年物と比べましても甲乙つけがたいと評価されている一本でございます」
その言葉に、ロイドは自分の手元のグラスをまじまじと見つめた。
「……希少、ってことですよね……?」
小さく息を呑む。
「僕、そんなワインだとは知らずに飲んでいたのか……?」
改めてグラスを揺らすと、深みのある色合いと、ふわりと立ち上る香りが鼻腔をくすぐった。
「どうりで……」
ロイドは思わず呟く。
「芳醇な香りがするはずですね」
「確かに」
マリウスも頷く。
「栓を開けた瞬間、空気が変わった。あれほど豊かな香りは、そうそうない」
「うん」
オスカーも楽しげに言う。
「開けた時、ふわっと広がったもんね。思わず深呼吸したくなるくらい」
「……いいのか?」
シマがジェイソンを見る。
「そんなワイン、気軽に開けちまって」
その問いに、ジェイソンは肩をすくめ、どこか柔らかな表情で答えた。
「君たちに飲ませたと言えば、父上も許してくれるだろう」
その言葉には、冗談めいた響きと同時に、確かな信頼が滲んでいた。
「それに」
ジェイソンはグラスを手に取り、光に透かす。
「価値のあるものは、語り合える相手と分かち合ってこそ意味がある。そう思わないかい?」
シマは鼻で笑い
「侯爵家の理屈ってのは、相変わらず大したもんだな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そうこうしているうちに、廊下から足音が近づいてくる。
冷たい気配をまとった男が、この部屋に足を踏み入れようとしているのが、誰の目にも明らかだった。
間もなく開くドアの向こうには、ワインに一家言を持つ氷の刃隊隊長――ユキヒョウ。
希少な酒と、強者たちの集う私室。
今宵の語らいは、さらに一段深いものへと進んでいく気配を帯びていた。




