洞察力
リーガム街領主館。
奥まった一角に設えられた浴室で、少年たちは目を丸くして立ち尽くしていた。
床も壁も、すべてが滑らかなタイル張り。
湯気に濡れて淡く光る白と青の模様は、これまで彼らが使ってきた木桶や簡素な浴場とはまるで別世界だった。
「……すげぇ……」
誰ともなく漏れた声に、他の者も無言で頷く。
湯そのものも澄んでいて、足を沈めるたびにわずかに波紋が広がるのが分かる。
風呂から上がった後も、しばらくは興奮が冷めなかった。
濡れた髪を拭きながら、互いに小声で感想を言い合う様子は、年相応の少年そのものだった。
使用人に導かれ、サロンへ向かう頃には、さすがに気持ちを切り替える。
ぎこちないながらも背筋を伸ばし、教えられた通りに立ち止まる。
「……本日は、ありがとうございました」
ビリーを先頭に、少年たちは順に頭を下げた。
言葉は少し硬いが、そこに込められた感謝は真っ直ぐだった。
サロンでは、マリウスをはじめ、ワーレンたちが和やかに談笑していた。
酒の杯が回り、落ち着いた笑い声が空間を満たしている。
「どういたしまして」
マリウスは柔らかく微笑み、少年たちにそう返す。
「喉は渇いていないかい? ジュースでいいかな」
「あ、ありがとうございます」
ビリーたちはほっとしたように答えた。
そのやり取りを見て、エッケハルトがにやりと笑う。
「マリウス様、ハイドの奴は結構いける口ですよ」
「ほう?」
続けてデルガーが肩をすくめる。
「ロイドは底なしですからな。兄弟だけあって、そこは似てます」
「……確かに」
マリウスは思い出すように言う。
「ロイドが酔ったところは、私も見たことがないね」
「シマとロイドを二人で割れば、丁度いいのにな!」
ビョルンの一言に「ワハハ!」とサロンに笑いが弾けた。
その輪の外で、モーガンとキャシーが顔を見合わせ、不思議そうな表情を浮かべる。
察したマリウスが、穏やかに説明する。
「シマはね、全くお酒が飲めないんだ」
「……それはまた」
モーガンは、何とも言えない顔で唸り、思い出したように聞く。
「ロイドでしたか?話が通じる男に見受けられましたな」
「間違いなくね」
マリウスは即座に頷く。
「事を荒立てる為人ではないよ」
「怒らせたら一番恐ぇやつだ、とは言われてるけどな」
ブラスが口を挟む。
「あいつが怒ったところなんざ、見たことねえけどな」
ブレーズが続け、また小さな笑いが起こった。
ちょうどその時だった。
執事長クレメンスが、静かにサロンへ入ってくる。
カート上には色とりどりの飲み物――ジュース、果実酒、エール、ワインが整然と並んでいた。
「さて……」
ベルンハルトがハイドを見下ろす。
「ロイドから、あまり酒を飲ませるなって言われてるからな。エール一杯でいいか?」
「はい! ありがとうございます!」
ハイドは元気よく答え、差し出された木杯を受け取る。
そして――迷いなく、一気に飲み干した。
「プッハァ~……」
満足げに息を吐き、顔を上げるハイド。
「これはたまげましたな」
マリウスの側近、ビリャフが目を丸くする。
「良い飲みっぷりで」
一同がどっと笑いに包まれた。
少年たちはジュースを手に、少し照れながらもその輪に混じる。
サロンの空気は終始和やかで、誰もが肩の力を抜いて過ごしていた。
こうして領主館の夜は、騒がしすぎることもなく、しかし確かな温もりを残したまま、更けていったのだった。
領主館の廊下を、メイドに先導されて歩く少年たちの足取りは、どこかぎこちなかった。
厚い絨毯に足を取られないよう気をつけながら、背筋を伸ばし、しかし内心では落ち着かない。
理由は単純だった。
心臓が――やけにうるさい。
特に年頃のビリーとハイドは、意識しないようにすればするほど、胸の鼓動が早まっていくのを感じていた。
案内役のメイドは、絶世の美女というわけではない。
だが清潔感のある身なりに、整った顔立ち。
年相応の落ち着きと、大人の女性らしい柔らかさを備えている。
正直に言えば、サーシャやリズ、ケイトたち――シャイン傭兵団の女性陣の方が、容姿だけを見ればよほど綺麗だ。
だが彼女たちを、もはや見慣れてしまった存在でもある。
では、なぜこうも落ち着かないのか。
答えは明白だった。
丁重な物腰。柔らかな声。
そして何より――「メイド服」を着た、大人の女性。
それだけで、うぶな少年の心臓は簡単に乱されてしまう。
「こちらが、皆さまのお部屋になります」
静かに扉が開かれ、丁寧な案内の言葉が添えられる。
「何かございましたら、いつでもお声がけくださいね」
そう言って一礼し、去っていく後ろ姿を、ビリーはしばらく呆然と見送っていた。
扉が閉まった瞬間――
「……やっべえ~!」
ビリーが、ベッドに身を投げ出す。
「まだ心臓がドキドキしてるぜ!」
「わかる……」
ハイドも深く息を吐き、胸元を押さえ、感嘆する。
「シャイン傭兵団って、すごいよね。どこへ行っても、こんなに丁重にもてなされて」
「勘違いしたらダメだよ、ビリー」
すかさずジーグが言う。
「そうだぜ」
ザシャが頷く。
「シャイン傭兵団だからこそ、だ」
「ビリーはすぐ調子に乗るから」
ヴィムが釘を刺すように続ける。
年下のジーグ、ザシャ、ヴィムに囲まれ、ビリーはむっとする。
「んなもん、分かってんよ!」
そう言い返してから、少し間を置き――天井を見上げた。
「……でもさ」
ぽつりと零れる声。
「俺も、いつかシャイン傭兵団に入りてえなぁ」
部屋が、少し静かになる。
「その前に」
ジーグが穏やかに言った。
「勉強を頑張れって、シマ団長なら言うんじゃないかな?」
「ああ」
ザシャが苦笑する。
「あの人なら、間違いなくな」
「憶えてる?」
ヴィムも続ける。
「“競争じゃない”って言われたこと。自分なりに頑張ればいい、って」
「……」
ビリーは黙って聞いていた。
「ビリー」
ハイドが、少しだけ真剣な声で言う。
「焦らずいこう。ワーレンさんも言ってたじゃないか。最近のビリーは、勉学も頑張ってるって」
ビリーは、目を閉じる。
「頑張っていれば、いつかみんなから認められるよ」
「……分かってるさ」
ビリーは起き上がり、拳を握った。
「それに、これだけの経験をさせてもらってるんだ。無駄にはしねえ」
これまでに少年たちには数々の経験をさせてきた。
今回はチョウコ町から出発して、城塞都市まで十日。
そこまでは大団体での移動だった。シャイン傭兵団の半数以上と、その家族たち。
そして、城塞都市からリーガム街までの道程は、わずか一日。
彼らにとっては、決して短い旅ではない。
新しい景色。初めて触れる空気。頼れる大人たちの背中。
何より――ハイドとの思い出。
ハイドはいずれ、シュリ村へ戻らなければならない。
次期村長として、今は経験と見聞を広げるためにここにいる。
この時間が、永遠ではないことを、皆がどこかで理解していた。
部屋の中では、やがて話題が移っていく。
夢の話。希望の話。将来の目標。
そして――少し照れくさい、女の話。
笑い声は尽きることなく、夜は静かに更けていった。
この一夜が、いつか振り返る「大切な記憶」になることを、少年たちはまだ知らない。
翌朝。
リーガム街領主館の応接間には、朝の光が大きな窓から差し込み、磨き上げられた床と長卓を静かに照らしていた。
卓の中央、上座にはマリウスが腰を下ろしている。
その左右には側近のハインツとビリャフ。
さらにマリウス配下のモーガンとキャシーが控え、背後には執事長クレメンスと数名の使用人、メイドたちが必要に応じて動ける位置に立っていた。
他にもリーガム領軍団長マニー・シモンズ、リーガム領憲兵司令官クリヤー・シャハリ。
そして民間からは、商人組合代表のカレマル・イガナ、役所代表のアンソニー・ギデンズが並ぶ。
一方、シャイン傭兵団から出席しているのは、デシンス、ダルソン、キリングス、リットウ。
軽い挨拶が交わされた後、デシンスが一歩前に出て、書類を差し出した。
「今回の交易目録になります」
それを受け取り、ハインツが目を落とす。
紙を整え、落ち着いた声で読み上げ始めた。
「弓――数量は前回と同等。スレイニ族産の布織物。ラドウの街産の布織物。香辛料各種……」
一同が黙って耳を傾ける中、ハインツは一拍置き、次の項目に進む。
「……それと、チョウコ町で作られた新たな酒。名称――『ショウチュー』」
その瞬間、応接間の空気がわずかに動いた。
カレマル・イガナとアンソニー・ギデンズが、互いに一瞬だけ視線を交わす。
そして、抑えきれない期待が表情に滲んだ。
マリウスはその様子を見逃さなかったが、あえて何も言わない。
「前回、マリウス様より要望のあった品目は、すべて揃えてあります」
ハインツの言葉に、デシンスが静かに頷く。
この「ショウチュー」という酒――
デシャン男爵が気に入り、今では愛飲してやまない一品だった。
以前、デシャンはこの酒を、カレマルとアンソニーに振る舞ったことがある。
飲み方は、チャノキの葉を使ったお湯割り。
結果は明白だった。
二人は一口飲んだだけで虜になった。
「これは……実に、いい」
そう呟いたアンソニーの声を、カレマルは今も鮮明に覚えている。
デシャンはその時、いかにも誇らしげだった。
まるで自分が開発した酒であるかのように語り、飲み方を熱弁した。
実際にはルーカスたちの受け売りであり、デシャン自身も後追いで試行錯誤を重ねたに過ぎない。
だが、酒を愛する者としての情熱だけは本物だった。
そして今――
カレマルとアンソニーがこの場にいるのは、完全に私的な理由だった。
是が非でも「ショウチュー」を譲ってほしい。
できるなら、定期的に。
それをマリウスに直談判するために、二人は顔を揃えている。
一方で、軍人二人の目的は明確に公的だった。
マニー・シモンズが、咳払いを一つして口を開く。
「今回、私と憲兵司令官がここにいるのは――“濡れない、浸みこまない”装備についてです」
クリヤー・シャハリが言葉を継ぐ。
「マント、ブーツ、テント……いずれも実地でその性能は確認済み。可能であれば、リーガム領軍および憲兵隊にも卸していただきたい」
シャイン傭兵団が用いる装備――
通称「濡れない浸みこまないシリーズ」は、すでに評判になっていた。
雨中行軍、野営、警備任務。
どれを取っても、軍と憲兵にとって喉から手が出るほど欲しい品だ。
デシンスはすぐには答えず、ダルソン、キリングス、リットウと一度だけ視線を交わす。
マリウスは、静かにその様子を見守っていた。
この応接間には、次期領主としての判断を求める声。
軍としての要請。商人としての欲。そして、傭兵団の矜持。
応接間に、わずかな沈黙が落ちた。
デシンスが少し言いづらそうに口を開いた。
「……実は」
一瞬、言葉を選ぶように間を置き、
「交渉は、俺たちに任されていなくてですね……」
その声は低く、慎重だった。
「要望があれば、エイラ嬢、ミーナ嬢に伝えることは出来ますが」
すぐにダルソンが補足する。
「出来れば、紙に書いていただけると助かります」
マリウスは軽く眉を上げた。
「……ということは」
視線を巡らせ、確かめるように言う。
「今回は、シャイン商会の者はいない、ということだね?」
「その通りです」
即座に答えたのはキリングスだった。
そのやり取りを聞きながら、マリウスは顎に指を添える。
その時だった。おずおずと手を挙げた者がいる。リットウだ。
「……発言しても?」
「どうぞ、遠慮なく」
マリウスが穏やかに促す。
「濡れない、浸みこまないシリーズですが……」
リットウは慎重に言葉を選んだ。
「あれは確か、ブランゲル侯爵家と独占契約を結んでいるはずです」
その言葉に、マニー・シモンズが深く頷く。
「カシウム領軍団長、アデルハイト殿からもそう聞いている」
マニーは、以前の合同演習を思い出していた。
雨中での行軍。 泥濘でも浸み込まぬマントとブーツ。夜営で差が出たテント。
あの時初めて、“濡れない浸みこまないシリーズ”の存在を知ったのだ。
応接間に、微妙な緊張が漂う。
独占契約。
それを破棄させることは出来ない。
無理を通せば、ブランゲル侯爵家との関係に亀裂が入る。
マリウスは、それを誰よりも理解していた。
だが――(ここで、すごすご引き下がるわけにもいかない)
次期領主として。リーガム領軍、憲兵隊のために。
そして自領を守る責任を背負う者として。
マリウスは静かに口を開いた。
「……私もね」
声は穏やかだが、芯があった。
「ここで大人しく引き下がるわけにもいかなくて」
場にいる全員が、息を詰める。
「勘違いはしないでくれ」
マリウスは視線をデシンスたちに向けた。
「大恩ある侯爵家に牙をむけるつもりはない。それに――“友”であるシャイン傭兵団に、無理難題を言うつもりもない」
一拍、間を置く。
「……だが」
その一言で、空気が変わった。
「あるんだろう?」
マリウスの視線が、鋭くなる。
「代わりになるものが」
デシンス、ダルソン、キリングス、リットウ――四人の背筋が、同時に強張った。
「エイラ嬢やミーナ嬢なら」
マリウスは、確信を込めて言う。
「ここまでの展開は、最初から読んでいるはずだよ」
沈黙。
マリウスは続ける。
「シャイン商会の者がいない。それが、少し引っかかってね」
商談の場に、商会の人間がいない。
それは“売るだけ”の取引であることを意味する。
――あるいは。
切り札は、まだ出していない。
(マジで言って来た……!)
デシンスたちの内心は、完全に一致していた。
彼らは、事前にエイラとミーナから言われていたのだ。
『交渉はしなくていい』
『目録を渡して、代金だけ受け取ってくればいい』
そして、こう続けられていた。
『ただし――』
『マリウス様から「新たな商品があるんじゃないか?」と聞かれたら』
『こちらを卸す用意がある、と伝えて』
その品は――乾麵。粉末スープ。
保存が利き、軽く、調理が容易。
軍にも、憲兵にも、街道警備にも向く。
デシンスは、深く息を吸い込んだ。
見抜かれた事実に、彼らは戦慄していた。
リーガム領次期領主、マリウス・ホルダー。
その洞察力は、確かに只者ではなかった。




