コンラート領
夜が明け薄青の空の下、ジカルイミの街は徐々に活気づいていた。
「……よし、出るぞ」
ワーレンが小さく声を掛ける。
四人はすでに荷をまとめ、装備の点検も済ませていた。
チリッロとデチモはすでに夜明け前、コルネリウス組とエッケハルト組に“退避”の連絡を済ませていた。
ジカルイミの東門へ向かう途中、ワーレンは三度、四度と周囲を確認した。
屋根上の影、人の足跡、曲がり角の空気の動き――すべてが不自然でないか、丹念に観察する。
ワーレンたちは旅商人を装い、馬車一台を購入。
荷には乾燥肉、食材、布、干し果物。
商人なら持っていて不自然でない中身ばかりだ。
門兵の二人が近づき、淡々と荷を改める。
ワーレンは無表情で彼らを見る。
ビョルンは馬の手綱を握り、旅慣れた商人の佇まいを意識する。
チリッロとデチモも、荷台の後ろで静かに立つ。
しばらくして、門兵が言った。
「……異常なし。通って良い」
四人は短く会釈し、馬車を進める。
門を抜けた瞬間、ワーレンは気配を確認したが、追跡の気配はなかった。
ジカルイミの街下を離れて半日。
小高い丘の上、夏草に縁取られた街道脇の休憩地で、ワーレンたちは馬車を止めていた。
薄曇りの空からは柔らかな日差しが落ち、遠くには揺れる金色の麦畑が風に波紋を描いている。
「……出られたな」
デチモが大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
ジカルイミの空気は、どことなく重かった。
兵の数ではない、街全体に流れる“見えない警戒”の匂いがあった。
それをようやく抜けたことで、皆の表情にわずかな緩みが戻っていた。
麦畑の方をじっと見つめながら、ビョルンが小さく呟く。
「畑は、平和そのものなのによ」
「表はな」
チリッロが応じる。
彼の声は街道を舐めるような鋭さを帯びていた。
「その裏ではスニアス侯爵家は何か企んでいる。酒を薄めて売りさばき、商会を取り込み、教会とも繋がって……あれはただの腐敗じゃねぇ。計画性のある“動き”だ」
ワーレンも視線だけで頷いた。
軍閥国とスニアス領、教会、商会――四つの大きな流れが一つの渦を巻いている。
「主導は誰だと思う?」
デチモが問う。
ビョルンが答える。
「領主はいねぇんだろ。領主代行の……なんだ、モンテロだっけか? あいつか?」
「モンテロというやつの為人がわからねえ」
チリッロが続ける。
「コルネリウスたちを待って聞こう。あいつらなら、街中で直接声も拾ってきてるはずだ」
ワーレンが言った瞬間、街道の向こうから複数の影が見えた。
歩いてくるのは――コルネリウス組とエッケハルト組だ。
「おぉ!」
ビョルンが手を振る。
彼らは駆け寄ってくるでもなく、周囲に目を配りながら慎重に近づいてきた。
街中での緊張がまだ解けていないのだろう。
「待たせたな」
コルネリウスが息を整えながら言った。
「おう、お疲れさん」
そう言い水袋を渡すワーレン。
「なあ、モンテロって奴はどういうやつなんだ?」
と聞くチリッロ。
「スニアス侯爵家長男、モンテロか?――凡人だな」
「……凡人?」
デチモが聞き返す。
コルネリウスは肩をすくめた。
「プライドだけは高いらしいが、秀でたところはねぇ。弟妹も同じ。正妻も側室も――家の表には出たがらねぇし、政治的にも鈍い。周囲の評価も“あいつらはただ座ってるだけ”って話だ」
つまり、領主家そのものに強い意志も方針もないということだ。
「家中はどうなんだ?」
ワーレンが低く尋ねる。
「言いなりだな」
コルネリウスがきっぱり言った。
「誰も逆らわねぇ。勘気を恐れてるだけの、つまらねぇ連中ばかりだ」
エッケハルトが前に出た。
その表情はいつもの軽口とは違う、深刻な影を落としていた。
「俺が感じたことなんだがな……ルダミック商会の影響力はかなりのもんだと思うぜ」
ワーレンたちは息を呑む。
「スニアス領の商会はほぼ全部、ルダミック商会に抑えられているとみていいかもしれん。物流、流通、酒、食糧、日用品――全部、“あいつらの許可”がなきゃ動かねぇ」
「そうなると情報遮断もできるな」
ビョルンが呟く。
「できるどころじゃねぇ」
チリッロが言う。
「領の中の噂も物資の流れも、気づかれねぇように操作されてる可能性がある」
「教会には金が流れてる」
デチモが腕を組む。
「……何をやろうとしてるんだ? ゼルヴァリア軍閥国と繋がり、アンヘルとの国境線を抑え、エスヴェリアの交易隊まで頻繁に動いてる……全部、線が繋がるようで繋がらねぇ」
麦畑の向こう、風が強まり、穂がざわりと揺れた。
まるで地の下でうごめく何かが、地表に伝わる振動を送っているかのように。
ワーレンは静かに口を開いた。
「――スニアス領を使って、誰かが何かを動かそうとしている…その“誰か”が、モンテロでないなら……
裏にいる別の勢力か……あるいはルダミック商会そのものか、神聖教会も絡めば、やれることは無数だ」
全員が口を閉ざす。
風の音だけが続いた。
ワーレンは、ゆっくりと仲間たちを見回した。
「……コンラート領に入れば、もう一歩“向こう側”の気配がつかめるかもしれねぇ。」
全員が静かに頷いた。
しかしその奥底には、表の平和とは真逆の、暗い流れが蠢いていた。
ワーレン隊は一泊の野営を終え、早朝の霧がまだ地面に残る中、コンラート領へと足を踏み入れた。
領に入った瞬間、森の密度や整備された街道の様子から統治者の性格がなんとなく伝わるような気がした。
最初に立ち寄ったモッチ村では、簡素な門を守る門番が二名。
村としては小規模にしては珍しく、簡易ながらも入村料が設定されていた。
額は高くはないが、領全体の財政事情か、慎重さか、あるいは欲深さか──何かの気配を感じさせる。
村の宿は木造二階建てで、古いものの掃除は行き届いている。
その隣には、質素な白壁と十字の紋章を掲げた神聖教会があった。
夕方、ワーレン隊が宿の前を通ると、教会の扉が軋んで開き、中から黒衣の牧師が出てきた。
その歩みを見た瞬間、隊の何人かが眉を動かす。
無駄のない足運び。
踵を引きずらず、地面を滑るように踏む、戦闘経験者特有の動き。
牧師は気配を悟ったように一度だけ彼らの方を見たが、何事もなかったかのように教会へ戻っていった。
モッチ村の夜は静かで、領内に特段の不安が漂っている様子はなかった。
しかし、どこか「表面だけ整っている」ような、妙な空気も感じられる村だった。
二日後、ワーレン隊はコンラート領の中心『ミガシンの街』へ到着する。
石造りの街壁は立派だが、あちこちに日々の補修の跡が残り、財政の締め付けを示すようでもあった。
門を通る際の入街料は、他領と比べても明らかに高めで、門兵たちはそれを当然のように徴収する。
「……高いな」
「これで“普通”って顔して取り立てるんだから、領主様の懐事情が知れるってもんだ」
街には人の気配が多く、商人の往来も盛んだ。
しかし活気の奥に潜む「微妙な重苦しさ」が、ワーレン隊の耳に引っかかった。
宿を取り、隊が荷を下ろし休息に入ると、これまでの旅で集めたコンラート領の情報が改めて整理される。
――麦類は比較的安く買い取られている。
――入村料、入町料、そしてこの入街料も“微妙に高い”。
――酒はエール、ワイン、果実酒どれも薄められた様子はない。
むしろ、他領より質がいいものもある。
つまり領民からの徴収は厳しめなのに、生活の質そのものは悪くはない。
これは統治者の性格を反映しているのか、それとも別の力が働いているのか──。
宿の食堂で聞き耳を立てるまでもなく、領民の噂話が自然と耳に入ってくる。
コンラート伯爵は、名門貴族に生まれながら、気が弱く、強気な者や上位者の前では萎縮してしまう性格だと言われていた。
特にスニアス侯爵には頭が上がらず、完全に腰巾着と陰で揶揄されている。
ただ、伯爵自身について悪行の噂は少ない。
むしろ気弱ゆえに“統治の実権を握れていない”という印象だった。
問題は──嫡男のヨーゼフ。
ミガシンの街に入ってから、どこの店に行っても耳に入るのはヨーゼフの悪評ばかりだ。
女好き。
我儘で癇癪持ち。
貴族であることを鼻にかけ、平民を見下し、気に入らないことがあれば怒鳴り散らす。
それだけならばまだいい。
しかし、もっと深刻なのは以下だった。
「ヨーゼフ様が街に出ると、女たちは一斉に家に隠れるんだよ……。あの人に気に入られたら終わりだからな」
「前に、断ったってだけで商人の店を閉めさせたことがあったって聞いたよ」
「領軍の若い兵士なんて、ヨーゼフ様の機嫌を取るために女の尻を追い回してるようなもんさ。あれじゃまともな軍にはならん」
噂の一つひとつが悪意ではなく「恐れ」から語られているため、信憑性が増す。
ワーレン隊の数名は、自然と表情を険しくした。
「これ……下手したら、街の空気そのものが腐り始めてんぞ」
「放置されれば、いずれ暴発するな。領民の怨嗟ってやつはよ」
コンラート伯爵の“弱さ”と、ヨーゼフの“暴走”。
その組み合わせが、ミガシン全体の不穏な空気を作り出しているのは明らかだった。
夕刻。
ミガシンの街の宿は、旅人や商人の活気でほどよく賑わっていた。
ワーレン隊が宿の一室に荷を置き、夕餉を取るために一階へ下りると、主人がカウンターで帳簿を付けている。
ワーレンは周囲にさりげなく目を配りながら、懐から 二枚の銀貨 を取り出してカウンターに滑らせた。
「なぁ宿の旦那。俺たちゃ見ての通りしがない商隊でね。景気の様子とか、何か耳寄りな話があれば聞きたいんだが……」
銀貨が木の台の上で軽い音を立てる。
宿の主人は驚いたように眉を上げ、銀貨を摘んで光に透かすように見た。
「……いや、これはまた太っ腹で。商隊さんならもっと渋ると思ってましたがねぇ」
しかし、すぐに困ったように笑い、頭をかいた。
「景気自体は悪くありませんよ。ええ。麦は豊作だとあちこちで聞きますし、この地方の果実酒は評判が良くてね。街道沿いの商人たちもだいぶ買って行きます……」
主人は銀貨をもう一度見て、唸るように言った。
「こりゃ、銀貨二枚は貰いすぎだ」
ワーレンは肩をすくめ、酒を口に含みながら柔らかく笑った。
「じゃあ――もうちょっと踏み込んだ話をしようか。伯爵家のことを聞かせてもらえれば、丁度いい額になるだろ?」
その瞬間、主人の表情が“待ってました”と言わんばかりの緩み方へと変わった。
帳簿を閉じ、身を乗り出す。
「いやぁ……それを聞かれるとは思ってましたよ。皆さん、ここに来りゃまず気になるのは伯爵家の話ですからね」
主人は周囲を見回し、近くに客がいないことを確認すると、声をひそめた。
「実は、コンラート伯爵様はいま王都にいましてね。公務なのか、誰かに呼ばれたのか……理由ははっきりしませんが、少なくともここにはいません。」
ワーレンが顎に手を添え、興味深そうに相槌を打つ。
主人はさらに声を落とし、カウンターに肘をついた。
「で、ここだけの話ですがね……」
そこで一拍置き、誰にも聞かれていないか再度確認する念の入れようだった。
「問題は、あの坊っちゃんですよ。ヨーゼフ様。まぁ、とんでもない。女にだらしないわ、気に入らないことがあれば物を投げるわ、平民を虫けらみたいに扱うわで……」
主人は眉を寄せ、諦めたようにため息をつく。
「一人息子だから可愛いんでしょうが……あれじゃ領の未来が真っ暗ですなぁ。……伯爵様がいくら善良でも、今のままじゃ手が付けられませんよ」
饒舌になった主人は、さらに続ける。
「街にふらっと姿を見せると、それだけで女たちは家に隠れます。拒めば何をされるかわかったもんじゃないし……前には、商人の娘が“笑顔で挨拶しなかった”ってだけで、店を潰されたなんて話もありました」
ワーレンの背後で、隊の誰かが静かに舌打ちした。
主人は肩を落とし、ぽつりと言う。
「……伯爵様が弱気なのは有名な話ですが、まさか息子にここまで好き放題させるとは、誰も思わんかったでしょうなぁ。この先、コンラート領は一体どうなるのやら……」
その声音は“怒り”というより“呆れ”に近く、
もう何度もこの話を客にしてきたのだろうと感じさせた。
ワーレンは銀貨を主人の方へ押し戻し、あくまで“商人の顔”で軽い調子を装いながら答えた。
「助かったよ。良いところも悪いところも知っておかないと商売にならないからね。……あとは俺たちで判断するさ」
主人は安堵したように深く頷いた。
「ええ、ええ。お気をつけなすって。ここは物はいいが、人は少々荒れてますからね」
ワーレン隊は料理が並ぶ円卓につき、先ほど宿の主人から聞いた話を反芻していた。
蝋燭の炎が静かに揺れ、ざわつく食堂の一角だけが重い空気に沈んでいる。
「……街で拾った噂と一致してるな」
ワーレンが低く呟くと、周囲の隊員たちはそれぞれ渋い顔をした。
「ヨーゼフって奴、確か……ノエル嬢が九つの時に押し倒そうとしたんだっけ?」
エッケハルトが声を潜めて尋ねる。
コルネリウスが苦い表情で頷いた。
「そうだ。そんな話を本人がしてた。あの時のトーマスは本気でブチ切れてたな。」
テーブルの木目を指でなぞりながら、チリッロがため息を落とす。
「七、八年前の話だろ……。あの頃から腐ってたってことだ。で、今も何ひとつ変わっちゃいねぇってわけだ」
誰も反論しなかった。
ヨーゼフに対する嫌悪と、領民が隠し持つ恐怖が、隊の中にも同じように沈殿していく。
その空気の中で、ワーレンだけが一歩引いた冷静な目をしていた。
だがその瞳の奥には、確かな苛立ちが灯っていた。




