一旦退く?!
ワーレンたちが「ビーア村」の存在を確認してから二日。
初日は村の規模と警備体制を把握し、二日目は見張りの交代時間・巡回の癖・兵士たちの緩み方を詳細に観察するだけにとどめた。
そして三日目──ついに“潜入”を決行する。
夜明け前。
雲に隠れた月が淡く光り、霧が低く地面を這っていた。
ワーレンは仲間たちを集め、短く確認事項を述べる。
「ターゲットは村中央の“醸造棟”と、隣接している“貯蔵庫”だ。そこに証拠となる文書、あるいは完成品のエールが保管されている可能性が高い」
ビョルンがうなずく。
「見張りの巡回は相変わらず一定だ。二人一組で村をぐるりと回ってるが、裏手の林沿いだけ妙に薄い。あそこが一番の侵入口だろうな」
「交代まで残り三十分。巡回組が最も集中力を落とす時間……狙うならそこしかねぇな」
デチモは装備を確認をしながら低く笑った。
ワーレンは全員の顔を見渡し、静かに言う。
「声は一切出すな。戦闘は最小限。なにより“足跡を残さない”ことを優先する。……行くぞ」
四つの影は霧の中へ溶け、無音で村へと近づいた。
林沿いの裏口は、彼らが予想した通り警備が薄かった。
簡素な木製の扉に鍵は掛けられているが、兵士の見張りはなし。
「……なぁ、これ。鍵のかけ方すら雑じゃねぇか?」
チリッロがひそひそ声で言う。
ビョルンが針金を取り出し、たった十秒で錠前を開けた。
「驚くなよ。昨日なんて、閉め忘れてた時間帯すらあったからな」
やはりスニアス領軍にとって、この村は「外敵が来ることはない」という前提で運用されているらしい。
扉の先は細い裏路地になっており、すぐ向こうに巨大な酒造施設の影が見えた。
高さ六メートルはある醸造棟。
石造りで、アンヘル王国の一般的な酒造とは似ても似つかない独特の構造をしている。
天窓からわずかに橙色の明かりが漏れており、どうやら夜中でも作業が続けられているようだ。
「中は稼働中か……」
ワーレンが眉をひそめる。
「なら逆にこっそり紛れ込める。静かな場所より、こういう方が隠れやすいぜ」
デチモは慣れた調子で小さく笑った。
五人は醸造棟の外壁を伝い、側面の小窓へと向かう。
だが、そこでチリッロがひそかに手を上げた。
「停止。中で作業してる奴ら、こっち向いてる」
窓の隙間から覗くと、作業台の周りに四人の職人が立ち、何かの発酵具合を確認しているところだった。
その背後の棚には、大量の樽と文書らしき束。
あきらかに証拠の温床だ。
しかしこの窓からの侵入は不可能。
「……となると、裏口しかないな」
ワーレンが判断する。
醸造棟裏手の階段を降りると、小さな鉄扉があった。
ここも鍵は掛かっているが、粗雑な造りだ。
「……こうも安い扉だと、逆に不安になってくるな」
ビョルンが苦笑しつつ、また数秒で錠を解く。
「よし、入るぞ。──三、二、一」
扉を静かに押し開けると、そこは暗い通路だった。
湿った麦の匂い、煮た麦汁の甘い香り、そして微かに漂う酒精の刺激臭。
まぎれもなく、"本物の"酒造の内部だ。
「足音に気をつけろ。床板が古い。鳴る可能性がある」
ワーレンが手で制しながら先導する。
彼らは壁沿いを進み、階段を上がって地上階へ。
ちょうど職人たちが居る作業室の一室横へと出た。
ここからが本番だった。
作業室の隣には小さな資料室が付属している。
昨日の遠目の観察で、そこに文書がある可能性が最も高いと判断していた。
ワーレンは扉の前に耳を当てる。
……無音。
「誰もいない。チリッロ、外の巡回を見張れ。ビョルン、内部の証拠を探す。デチモは扉に張り付け。俺は棚を確認する」
役割が瞬時に決まり、全員が無言で動く。
資料室は驚くほど整頓されていた。
帳簿、仕入れ書、樽の管理票、取引先の名簿。
そして──一番の目当ては奥の棚にあった。
「……見ろ、ワーレン。これ、スニアス領主の印章だ」
ビョルンが一冊の帳簿を持ち上げる。
表紙に刻まれた金の刻印。
中を開けば、エールの生産量・流通先・収益が分刻みで記されている。
しかもその利益の一部は、貴族ではなく“教会”に流れている。
「……利益の一部が、教会に流れている……だと?」
エスヴェリア神聖教会の名が、赤い印字で並んでいた。
その横には「寄付金」「謝礼」「祈祷料」などと尤もらしい名目が書かれている。
もちろん、これは表向きの名義にすぎない。
ビョルンが別の報告を低く告げた。
「ワーレン……醸造棟を覗いた。できたばかりのエール樽に……水を入れてやがった」
全員が一瞬呼吸を止めた。
ワーレンは短く息を吐く。
「……偽造酒か。やってるな、完全に」
本来、エールは麦の質と仕込みで味が決まる。
そこに水を加えて薄めていれば──味が落ちるのは当然だ。
ジカルイミで飲んだ“薄いエール”の理由が、ようやく一本の線としてつながった。
「これで決まりだな……」
ワーレンの声は低く、だが確固たるものだった。
彼らが追うべき黒幕は、スニアス侯爵家でもルダミック商会でもなく、
そのさらに奥にある“教会”の可能性が濃厚となった。
しかし、確信を得た瞬間に、警戒の糸がわずかに緩むことほど危険なことはない。
「ワーレン、巡回が一組こっちに来てる。あと一分でこの建物の裏を通る」
チリッロの緊張を帯びた囁き声が、場の空気を引き締めた。
ワーレンは一瞬で冷静さを取り戻し、帳簿を布袋に滑り込ませる。
背表紙が音を立てないよう、丁寧に布で包み込んだ。
「撤収だ。痕跡を残すな。来た時と同じルートで戻るぞ」
四人の影が一斉に動き、資料室を無音で出る。
扉を閉じる瞬間、チリッロが指で持ち手の位置を整え、元の“閉まり具合”を再現した。
こうした細部の徹底こそが、潜入任務の成否を決める。
裏通路を抜けて地下階段へ。
鉄扉に手を掛け、ゆっくりと押し開け、順に外へ出る。
外気は冷たく、霧が立ち込めていた。
「鍵を戻す」
ビョルンが素早く錠前を元通りに閉じる。
その手際は練度の高さを物語っていた。
四人は林側へ潜り込むように移動した。
そのわずか十秒後、巡回兵二人が醸造棟の外壁をのんきに歩く姿が見えた。
「……ギリギリだったな」
デチモが額の汗を静かに拭う。
ワーレンは林の影に身を沈めながら言った。
「いや、ここから村の外までが任務だ。油断すんな。走るぞ」
その声は低く、小さく、しかし鋭い。
四つの影は地を這うように動き、林の濃い霧の向こうへと消えていった。
枯れ枝一本踏まないよう、足の置き場を正確に選びながら、ゆっくりと、しかし確実に距離を取る。
霧が晴れる頃──
ビーア村の酒造元の周辺には、もう彼らの存在を示す痕跡は一切残っていなかった。
たった数分前、樽に水を入れていた職人たちも、巡回兵も、彼らが「帳簿を奪った」ことなど知る由もない。
ワーレンは布袋を軽く握りしめた。
その中には、スニアス領軍とルダミック商会、そして教会を繋ぐ“黒の証拠”が静かに眠っていた。
ビーア村での潜入任務を終え、ワーレンたち四名は霧の林を抜けてジカルイミの街へ戻ってきた。
時刻は夕刻。通りを歩く人影もまばらになっている。
目立たぬようフードを深く被り、彼らは三組の合流場所として決めていた酒場「呑兵衛」へ向かった。
入ってすぐ、いつも通り三組は別々の卓についた。
表向きには他人同士、ただの旅人と傭兵の寄せ集めのように見える。
しかし、給仕が去るとほぼ同時に、すっと各卓の端に“細く折り畳んだ紙片”が置かれた。
それが、昼間までに集めた情報を記したメモだった。
ワーレンたちは表情を変えずにそれをポケットへ滑り込ませ、エールの薄い泡をすすりながら互いの出方を待った。
ひとまずの情報交換を終えた後、ワーレンたちは宿泊先を「スニャップの宿」へ切り替えた。
スニャップの宿は、壁に古い木材が使われた二階建ての建物で、他の宿泊客は三人ほどしかいない。
受付の主人も寡黙で、必要以上に客を詮索する様子がなく、潜伏先としては最適だった。
部屋に入ると、ワーレンはポケットからメモを取り出し、広い卓の上へ静かに広げていった。
ランプの光が紙面に影を落とす。
「……思った以上に根が深いな」
最初に声を漏らしたのはデチモだった。
卓上には、コルネリウス組とエッケハルト組の文字が、緊張感を帯びた筆跡で並んでいる。
──コルネリウス組メモ
●『ルダミック商会、食糧、酒、日用品雑貨等々ゼルヴァリア軍閥国と取引』
●『教会の神父、牧師、戦闘訓練を受けた者たち』
──エッケハルト組メモ
●『アンヘル王国とゼルヴァリア軍閥国の国境線、厳、特定の商会だけが通れるとの噂』
●『エスヴェリアの交易隊が頻繫にゼルヴァリアと行き来しているとの噂』
ワーレンは腕を組み、しばし沈黙した。
その沈黙を破ったのは、チリッロだ。
「……ルダミック商会が“ゼルヴァリア軍閥国”と取引してる。これだけなら、普通の商家でもやってる可能性はあるけど──」
「“特定の商会だけが国境を抜けられる”ってのは、完全におかしいよな」
ビョルンが続けた。
「そこを頻繁に通ってる“交易隊”がいる……エスヴェリア神聖教会の、な」
「それにこれだ、教会の神父と牧師が、戦闘訓練を受けた者たち……か」
ワーレンはその文字列を指で叩き、低く呟く。
「周辺の村や町の教会も見て回ったって話だが」
チリッロが眉をひそめる。
「ああ。だが……この規模はちょっと異常だな」
ワーレンは紙を持ち上げ、ランプの光に透かした。
「ただ祈りを捧げるだけのはずの連中が、まるで兵士みてえに組織立って動いてる」
「ゾッとしねえ話だが──」
チリッロの声は静かだった。
デチモも腕を組んで思案する。
「これ、スニアス領だけじゃ説明つかねえぜ。教会がここまで勝手に動けるわけがない」
ワーレンは、束ねたメモをトントンと机に揃えた。
「……これはもう、スニアス領の腐敗とか、ルダミック商会の不正とか、そういう“単独の事件”じゃねえ」
彼は少し間を置いてから、言葉を続けた。
「“国家単位の陰謀だな”」
重い沈黙が落ちる。
誰もが否定しなかった。
否定できる状況ではなかった。
外では風が宿の壁を鳴らし、小さな唸り声のように聞こえる。その音すら、四人の胸の中に潜む不安を増幅させた。
──ジカルイミに巣食う闇は、もはや局地的ではない。
──アンヘル王国そのものに食い込んでいる。
そしてその中心には、“教会”の影が揺れていた。
ワーレンは静かに言った。
「……一旦、離れた方がいいな」
ビョルンが少し身を乗り出す。
「ここでか?」
「ああ。この状況を見て、俺たちだけで動くのは危険すぎる。シマの判断を仰ぎたい」
その名を聞き、三人はすぐに納得したように頷いた。
シャイン傭兵団の団長、シマ。
規格外の戦闘能力と判断力、統率力を持つ男。
こんな巨大な陰謀を相手にするなら、彼の判断が必要だった。
「賛成だ」
デチモが言う。
「俺たちだけの手に負える規模じゃねえ」
「生き残ることが大事だ。エイラ嬢も理解してくれるだろう」
チリッロが、エイラの名を出して静かに言った。
シャイン商会の会頭。シマと同じく“規格外”。
彼女もまた、この事態を軽く見る女性ではない。
「異議なし」
ビョルンが短く言ったあと、ふと帳簿の包みを指差した。
「ところでワーレンよ。ざっとは見たが、まだ詳しくは見てねえ。見てみようぜ?」
「ああ……そうだな」
ワーレンは布袋から帳簿を取り出し、慎重にページを開いた。
そこには、樽の製造番号と流通先が細かく記されていた。
精査するうち、ビョルンが真っ先に気付いた。
「……薄めたエールは領内に、まともなエールは領外に流してやがる」
チリッロも目を細める。
「麦と小麦の買い取り価格が……安すぎねえか? 農民に搾取かよ」
「それに関わってるのが──ルダミック商会ってわけだ」
デチモが唸る。
ビョルンが帳簿を指で叩きながら言った。
「……これ、ルダミック商会の不正の証拠にならねえか?」
「いや……難しいな」
チリッロが即座に返す。
「商人なら“安く仕入れて高く売る”は普通だろ。卸先をどこにするかだって、商人の自由だ」
「……だよな」
ビョルンはため息をつく。
「それに、薄めたエールを領内にだけ流すってのも……“領主への献上品は高品質”って言い張られたら終いだ」
ワーレンがページを閉じながら言う。
「だから、これだけじゃ決定的な証拠にはならねえ」
沈黙が落ちる。
ワーレンは帳簿を包み直し、ゆっくりと言った。
「……とにかく、明日はここを離れてコンラート領に向かう」
デチモが頷く。
「じゃあ、明日の朝一で……」
「ああ、チリッロはコルネリウス組へ。デチモはエッケハルト組へ。“一旦退く”と伝えてくれ」
「了解だ」
「任せとけ」
その夜、四人はランプの明かりを落とすまで、ずっと耳を澄ませていた。
風の音、小石の転がる音、宿の床の軋む音。
その全てが、彼らが踏み込んだ“真の闇の深さ”を物語っていた。




