エスヴェリア神聖王国の影?!
ジカルイミの街。
三日目夜――ワーレン組拠点「ボッタの宿」
ランプの炎が細く揺れ、天井に伸びる陰影がゆらりと歪んだ。
宿の廊下は既に静まり返り、酔いどれ客たちのざわめきも遠くで尾を引きながら消えつつある。
そんな中、ワーレンは扉を閉めると同時に深く息をついた。
「……三日間で、だいたい輪郭は見えたな」
革袋から折りたたんだ二枚の簡易メモを取り出し、卓の中央に広げる。
コルネリウスとエッケハルト、それぞれの筆跡。
団員三名――チリッロ、デチモ、ビョルンも身を乗り出し、ランプの光を遮らぬように腰を下ろした。
メモには、乱雑な文字でこう並んでいた。
『領主不在:スニアス侯爵、王都滞在中』
『長男モンテロが代行』
『宿・食材・生活物資すべて高め』
『だが暴利ではない。数%~一割程度の上乗せ』
『ルダミック商会 影響大』
『流通ほぼ独占、街の商家は従属状態』
『エスヴェリア神聖教会の影 確証なし』
『ルダミックに付いている護衛の一人に腕利き――中堅相当』
読み終わった瞬間、室内に曖昧で重い沈黙が落ちた。
ワーレンが腕を組む。
「……何年もこの状態か。三日歩いただけで、住民の口から同じ証言がぽろぽろ出てきた。よほど根が深えな」
チリッロが唸る。
「値段の高さに愚痴る奴は多かったけど、怒ってるわけじゃない。どっちかっていうと……“諦めてる”って顔で」
デチモが続ける。
「でもよ、めちゃくちゃ高いわけじゃねえ。住人の言い方だと“ちょっと高え”って愚痴りながら普通に買ってるし、酒場の連中もエール薄いのが当たり前みてえな顔だった。あれ絶対出荷段階で薄めてるぞ、ルダミックが」
「ああ、店が薄めてるわけじゃなかった」
ワーレンは酒場「呑兵衛」での光景を思い返す。
「市場の相場も見たが……微妙に高いんだよな。だが暴利ではない。だから文句が噴き出さない。気づいた時には慣れさせられてる」
「調整してるってことか?領主が?」
ビョルンが眉をひそめる。
ワーレンはうなずく。
「スニアスか、ルダミック商会か、あるいは両方だ。少なくともこの街の経済の“喉”を握ってるのはルダミックだと思って間違いない」
そして、視線をメモの一行に落とす。
『ルダミック護衛:中堅級』
「……これが一番やな感じだな」
チリッロとデチモは同時に顔をしかめた。
「中堅級って……シャイン傭兵団の“中堅”だろ?“俺たちより強い可能性”って一行書いてあったぞ」
ワーレンは静かに息をつく。
シャイン傭兵団の“強さの基準”は、はるか上にある。
その“中堅クラス”がルダミックに張り付いている――これは単なる護衛雇用の域を出ている。
「どうする?深入りすんのは危ねえぞ」
「でもよ――」
デチモがゆっくり立ち上がり、ワーレンを真っ直ぐに見た。
「お前ら忘れてねえよな。ルダミック商会は――エイラ嬢の仇だぜ。お前らエイラ嬢とその腕利きの護衛と戦うことになたらどっちを選ぶ?」
チリッロとビョルンは即答した。
「護衛の方だ。迷う理由なんざねえ」
その声は揃っていた。
デチモは一拍置いて、鼻で笑いながら答えた。
「まあ、今突っ込んでくのは愚策だがな。ワーレン、隊長として判断してくれ」
視線がワーレンに集まる。
ワーレンは短く息を吸い、心を落ち着けた。
「深追いはしねえ。だが、“穀物”そのものを見に行く」
「穀倉地帯か……」
「スニアス領、コンラート領、ヴィリエ領、ボーヴォワール領――四家を潤すルナイ川の流域。アンヘル王国の六〜七割の小麦と大麦がそこで作られている。王都の胃袋を握ってるのはこの四家だが、流通を握ってるのはルダミック商会。だとすりゃ――この二つは一体になってる」
「……調べる価値はある、ってことだな」
「村、町、農家、酒造――生産の現場を見る。物価の高さがどこで発生してるのか、誰が利益を吸い上げてるのか…まあ、スニアス侯爵家とルダミック商会だろうが、現地を見てみねえとわからねえ部分がある」
ワーレンは立ち上がり、窓辺に歩いた。
「――明日から穀倉地帯だ。移動は三組とも別行動だ」
振り返ると、三人とも力強くうなずいた。
「了解!」
「任せな!」
「エイラ嬢の仇……逃がさねえぞ」
ワーレンは小さく笑うと、再びメモに目を落とす。
ルダミック商会。
エスヴェリア神聖教会。
スニアス侯爵家。
穀倉地帯――王国の食糧の心臓部。
この街の“微妙な値段の高さ”は、その巨大な仕組みの、ごく表層なのかもしれない。
「焦らず、でも確実にな」
ワーレンはランプの芯を少し縮め、部屋を暗くした。
――明日、穀倉地帯への調査が始まる。
四つの名門貴族――スニアス、コンラート、ヴィリエ、ボーヴォワール――その領地を縦断する巨大な穀倉地帯は、つい先日に収穫を終えたばかりだった。
黄金色の麦穂は刈り取られ、広大な畑には切り株の匂いが残る。
村から村へ、町から町へと続く道の両脇には、稲架がずらりと並んでいた。
農民たちが束ねた大麦と小麦は、青空の下でじわりと乾いていく。
この地方に古くから伝わる手法――二〜三週間掛けてじっくり乾燥させるため、麦への負担が少なく、味も香りも際立つ。どの村でも、干された麦束が揺れる風景こそ季節の風物詩であった。
ワーレン組が視察のために村を巡るたび、農家たちは笑顔で迎え、今年の出来の良さを自慢した。
ワーレンの部下である三人、チリッロ、デチモ、ビョルンも、その明るい空気に肩の力を抜いていた。
「なんだよワーレン、さっきから渋いツラしてよ」
一番楽天的なチリッロが麦束を見上げながら言う。
「別におかしいところなんてなかったぜ? 収穫量も申し分ねえし、湿気も少ねえ。農民の顔色も良かったしよ」
「だよな。どこもかしこも豊作、豊作!」
デチモが笑いながら首に汗をぬぐう。
「税もそこまで無茶に取られてる様子はなかったし、治安も悪くねえ」
しかし、ワーレンは深く眉を寄せたまま歩みを止めた。
「……いや。違う」
静かに、しかし確信を持った声だった。
「どう違うんだよ?」
ビョルンが振り返り、ワーレンの横顔を伺う。
ワーレンは畑を見ているようで、実際にはもっと別のものを見ていた。
村や町を巡り続ける中で胸に積もった違和の正体に、ようやく言葉が追いついていた。
「……教会だ」
「教会?」
「そうだ。村にも町にも……どこに行っても“ほとんど必ず”教会が建っていた」
三人は一瞬だけ顔を見合わせた。
「いや、そりゃ……別に普通なんじゃねえのか?」とチリッロ。
「帝国ほどじゃねえけど、この国だって教会はあんだろ?」とデチモ。
だがワーレンはすぐに首を横に振った。
それは、“現場”を長く歩いた者の断固とした否定だった。
「俺が王家監察官をやってた頃――スニアス領はこんなに教会だらけじゃなかった。少なくとも、俺は報告を受けてねぇ」
ビョルンが少し顎を引く。
「でもよ、ワーレンでも知らねえことはあんだろ? 全部が全部、監察官どうしで共有されるわけじゃねえんだしよ」
「もちろん、秘密指定された事項は共有されねぇ」
ワーレンはため息混じりに言葉を継ぐ。
「だが、“表向きの情報”――村の建設、施設の増設、宗教関連の進出。こういうのは必ず監察官に回されるんだよ。俺が知らねえのはおかしい」
ワーレンの声に、三人は自然と背筋を伸ばす。
「……ってことは、“故意に”知らせなかったって可能性があんのか?」
チリッロの声は低くなった。
「ああ」
ワーレンは短く答える。
麦束に風が吹き抜け、稲架がさらさらと音を立てた。
その穏やかな風景と、ワーレンの言葉が重ね合わさるほど、違和が際立った。
「でも誰がそんなことを?」
デチモが言う。
「さあな……だが監察官に情報を止めるってのは普通じゃねぇ。“王家特別監察官長官”が動かねぇ限り、そんな事は起きん」
カーロッタ・デ・マッケンゼン――王家特別監察官長官。
彼がすでに帝国の手先として暗躍していることも、情報操作を仕掛けていた可能性も。
だがこの時点で、誰も知らない。
ワーレンが空を見上げた。
八月の入道雲がゆっくりと流れていく。
「……教会の急増。スニアス侯爵家とルダミック商会の癒着。経済の偏り。食材や酒の質の低下……」
ワーレンはひとつひとつ指折りながら呟き、その瞳に鋭い光が宿った。
「“見えない誰か”が、この領地全体を水面下で動かしてやがる。これだけ大規模に、長い期間……」
三人の顔から笑みが消えていた。
場違いなほど明るかった村々の風景が、今では薄い膜のように張り付いた“偽物の平穏”に思えてならない。
「ワーレン……」
ビョルンが慎重に言葉を選ぶ。
「ヤベぇ臭いしかしねえな」
「だな」
ワーレンは口角をわずかに吊り上げた。
男くさい、険しい笑みだった。
乾いた麦束の間を風が走る。
その音は、ワーレン組の胸に、良くも悪くも“本格的な調査の始まり”を告げていた。
ワーレン、ビョルン、デチモ、チリッロ──近郊の村や町をひとつずつ回りながら、酒造元の所在を探っていた。
「酒造り」は貴族の特権であり、製法は門外不出とされている。
麦を煮て、発酵させる──程度までは誰でも知っている。
だが、肝心の工程や設備は厳しく秘密にされている。
だからこそ、彼らも薄々わかっていた。
大きな街近くに、そんな施設が“表向き”あるはずがない、と。
だが、ワーレンたちは任務を遂行するべく地道に歩いた。
最も重要なのは、「麦」と「水」。
エール造りに必要な条件を挙げればそこに行き着く。
ならば、麦畑がある地域の近くで、さらに豊富な水源がある場所──実際、彼らが知る酒造施設も、例外なく大河か湧水の近くに建っていた。
それを基準に、地図に印をつけながら捜索を進めていく。
川を渡り、小さな集落を覗き込み、何もないとわかればまた歩く。
その繰り返しが三時間ほど続いた、日が傾き始めた頃だった。
ビョルンがふと歩みを止め、眉根を寄せる。
「……おい、あれ見ろ」
街道から少し外れた林の向こう。
谷間に隠れるように、しかし近づけば意外なほど堂々と──小さな村が広がっていた。
村の入口には、スニアス領軍の兵士が二人立哨している。
それだけでも尋常ではないが、さらに驚くべきは村の中心部に建ち並ぶ建物群だ。
丸太と石で築かれ、天窓と太い煙突を備えた巨大な建造物。
さらにその隣には、麦の保管庫と思われる蔵が複数。
見慣れた者なら一目でわかる。
あれは──酒造施設だ。
「……隠す気がねえのか、こいつら」
ビョルンが低くつぶやく。
「それとも領軍が守ってるから安心しきってんのか……いや、それとも……馬鹿なのか……」
デチモは眉間を押さえながら呟いた。
「どっちでもいい。間違いなく“ここ”だな」
チリッロが結論を出す。
四人は街道を離れ、林の中へ身をひそめた。
木々の間から、巡回している兵士たちの動きがよく見える。
スニアス領軍の兵は総じて無骨で粗い。
歩き方は雑で足音が大きい。
泥だらけの靴、油断した表情、だらしなく揺れる槍先。
シャイン傭兵団の彼らからすれば、目に余るものだった。
「……決まった巡回ルートか。しかもあれ、完全に“歩き慣れてる動き”だ」
ワーレンが呟いた。
兵士たちは緊張感の欠片もない。
探すでもなく、見張るでもなく、ただ決められた道を歩いているだけだ。
「二時間ごとに交代……だとよ。さっきの二人、歩きながら普通に喋ってやがった」
デチモは木陰から覗き込む。
「なぁ……これでコイツら、本気で警備してるつもりなんだよな?」
彼の声にはあきれを通り越し、呆然すら漂っていた。
チリッロが小さく舌を打つ。
「油断させるつもりじゃねえのか?」
「油断? 誰を?」
ビョルンが眉を上げる。
「俺たちの正体がばれてるとは考えにくい……だとすると、これは“普段からこのレベル”ってことか」
ワーレンの答えは最も現実的だった。
「つまり……スニアス領軍ってのは、こういう警備しかしないってわけだ」
デチモは言葉を失う。
巡回路は固定。交代時間も固定。見張りもほぼ形式的。
これでは訓練された盗賊団でさえ突破できる。
だが皮肉にも、状況は彼らにとって好都合だった。
「……見張りがザルなのは助かるが、一日で判断するのは危険だな」
ビョルンが慎重に言う。
「だな。たまたま今日は怠けてるだけって可能性もゼロじゃねえ」
ワーレンもうなずいた。
時間はすでに夕刻。
山の端に落ちる太陽が、酒造村の屋根を赤く染めている。
「……もう一日、様子を見てみるか?」
ビョルンが最後の確認をとる。
ワーレンはわずかに息を吐き、頷いた。
「そうだな。時刻も時刻だし……今日は引く。夜目に自信はあるが、余計なリスクは避けたい」
四人は木陰を伝い、村の正面から自然に姿が見えぬ位置まで静かに後退した。
スニアス領軍の兵たちは、彼らに気づく様子もない。
ただ、酒造村を守る──いや、“守っているつもり”で歩哨に立っているだけだ。
仲間たちは、闇が深まりつつある林道へと消えていった。




