スニアス領
クリフたち一行が王都に入る頃——スニアス領東端の要衝「ジカルイミ」の街門を、十人の旅人風の一団が静かに通過していた。
ワーレン隊である。
粗末ではないが地味な装い。
背には傭兵らしい武器を負っているが、目立つ紋章類は一切付けず、あくまで“流れ者”に見えるよう徹底していた。
「入街料、一人銀貨二枚だ。武器持ちは割増だよ」
城門兵が淡々と告げる。
ワーレンは財布を開きながら、眉をほんの僅かに寄せた。
(銀貨二……?王都でも一人、銀貨一と銅貨五程度だぞ)
だが表情には出さない。
団員たちも同様だった。互いに目配せし、言われた通りに金を払う。
旅人を装う以上、この程度の不自然さをいちいち問うわけにはいかない。
無骨な木門を越えた瞬間、じっとりとした熱気と、商人が張り上げる喧噪が彼らを包んだ。
ジカルイミ――スニアス侯爵領最大の“街”。
ルダミック商会の本店と、スニアス侯爵の邸宅がある街として知られる。
だが繁栄しているはずの街はどこか空気が重く、往来の人々の顔つきにも陰が差していた。
(景気が良い街の活気ではない。……さて、何が腐っている?)
ワーレンは胸の内で小さく呟いた。
街に入ると、十人はすぐに三隊に散開した。
・ワーレンを含む四人
・副隊長コルネリウスと三名
・最年長者エッケハルト率いる三名
それぞれが別の宿へ向かう。
ワーレン組は「ボッタの宿」。
コルネリウス組は「モニカイの宿」。
エッケハルト組は「スニャップの宿」。
すべて事前にワーレンが調べていた宿である。
「解散だ。夕方、例の場所で」
小さく囁き、三組はごく自然な流れで散っていった。
昼時。
ワーレンたちは宿に荷物を置くや否や、その足で街の食堂へ入った。
入り口に吊されている看板には《ズカーン亭》とある。
入り口の女将が愛想良く出迎えたが、その目の奥はどこか疲れて見えた。
四人は空いていた卓に腰を下ろす。
「すんません、今日の昼定食を四つ」
ワーレンが声をかけると、女将は軽く会釈して奥へ引っ込んだ。
やがて木皿に盛られた料理が並ぶ。
肉の煮込み、黒パン、薄いスープ。どれも旅人向けの簡素なものだ。
ワーレンは無言で口へ運んだ。
……味は、悪くはない。だが良くもない。
外れの食堂で出る旅人向け料理の典型。
ただ、量の割に値段だけが妙に高かった。
「……高くねぇか?」
団員が、小声で呟く。
ワーレンは応じない。ただ淡々と食べ続けた。
別の団員が囁く。
「入街料も高かったよな?宿代も……それにこの飯代……」
「声を落とせ」
ワーレンが低く切り捨てる。
だが彼自身も、内心ではまったく同じ疑念を抱いていた。
――物価の上昇。
――生活の疲れが顔に出た住民。
――ルダミック商会の本店がある街。
(ひとつの線で繋がっていれば楽なんだがな……)
ワーレンはパンを噛み千切りながら、周囲の客を観察した。
農民風の男が金を払う際、渋い顔で舌打ちしている。
商人らしき男たちは、ひそひそ声で何かを話しているが、話題は金のことばかり。
街の空気は「富んでいる」というより、「絞られている」という雰囲気だった。
(よし……今日の初動で“方向性”は掴んだな)
食べ終えたワーレンは、軽く指を鳴らして立ち上がった。
「ごちそうさん」
四人を引き連れ、食堂を出る。
団員の一人がそっとワーレンに近づいて囁く。
「隊長……これ、もうちょい深掘りしたほうが?」
ワーレンは首を横に振った。
「ダメだ。まだ街に入ったばかりだ。目立つ行動は控える」
短く、それでいて確信に満ちた声。
団員たちは頷く。
「了解だ。」
ワーレンは歩き出しながら、街路の空気を肺に吸い込んだ。
湿った風。ざわめき。遠くで響く馬車の音。
街そのものが何かを訴えかけているような、そんな違和感があった。
ジカルイミの夕暮れは、日中よりもさらに湿った空気を帯びていた。
スニアス領最大の街ではあるが、賑わいはどこか無理に取り繕った華やかさで、街全体が疲れた笑顔を貼り付けているようだった。
ワーレン隊は、昼から集めた断片的な情報を再整理しながら「吞兵衛」と大書された看板の前に立った。
この街で最も大きな酒場だと事前に調べがついている。
旅人、商人、兵士、領民が入り混じる、人の流れが最も濃い場所。
情報を拾うなら、ここ以上の場所はない。
扉を押し開けると、むっとした熱気と油煙、酒の匂いが一斉に押し寄せてきた。
「空いてる席だ、行くぞ」
ワーレンは状況を一目で把握し、視線で部下に合図した。
その奥、壁際にはすでに別働のコルネリウス組とエッケハルト組がそれぞれ別の卓で飲んでいるのが見える。
同じ卓に座らないのは当然だ。
潜入の常道であり、彼らが“団員同士”であると悟られぬためでもある。
互いに目だけで挨拶し、ワーレン組は中央寄りの四人がけの卓へ腰を下ろした。
「すんませーん、こっちエール四つと……肉の盛り合わせ、スープも追加で」
団員が給仕の少女に声をかける。
少女は慣れた手つきで注文を書き、慌ただしく奥へと消えていく。
それを待つ間、ワーレンはポケットから昼間のメモを取り出した。
コルネリウス、エッケハルトも同様に、メモを手にしている。
給仕が忙しさにかまけて別卓に料理を運ぶ隙に、三組はそれぞれ自然な動作で、無表情のままメモをすり替えていく。
ほんの数秒。
店内の誰一人、彼らの動きに気づく者はいない。
ほどなくエールが運ばれてきた。
琥珀色の液体……のはずが、妙に色が淡い。
団員の一人が怪訝な顔でジョッキを傾けた。
「……隊長、これ、めっちゃ薄くないっスか? エールってこんな水みてぇだったか?」
別の団員も肉を口に運び、眉をしかめた。
「この肉……塩も胡椒も足んねぇ。というか……味がないっていうか……?」
ワーレンは周囲の反応を見た。
周りの酔客たちは特に気にした様子もなく、むしろ「いつも通り」と言わんばかりにジョッキを煽っている。
(……店の手抜きではない。客が慣れている。つまり“日常”だ)
ワーレンはエールのジョッキを少し傾け、光に透かす。
薄い。
本来のエールより色が二段階は淡い。
だが給仕が注ぐ姿を見る限り、樽から直接注いでいるだけだ。
店側が水で薄めている動きは確認できない。
(……樽の段階で薄められている? 出荷元で加工されているということか)
ワーレンの脳裏で、一気に線が繋がっていく。
――スニアス侯爵家一派は穀物流通の要。
――ルナイ川流域が通り穀倉地帯を持つ四家、スニアス、コンラート、ヴィリエ、ボーヴォワール。
――この四家の穀物が王国全体の六~七割を賄っているとまで言われている。
――その穀物を買い付け、酒造やパン工房に卸す商会がルダミック。
――軍事力ではブランゲル侯爵家一派に劣るが、食料を握っている。
――そして今、その四家は劣勢ながらも“まだ均衡を保っている”。
エールが薄いのなら、麦の質か、製造段階で水増しがされている。
料理の味付けが薄いのは、香辛料が高騰したか、流通量が減っているということだ。
ワーレンは無言で紙にメモを書いた。
・酒の質低下
・肉料理の味付け不足
・昼に続き、物価は高いまま(価値=中身は落ちている)
・住民は慣れている → 長期的に行われている可能性
「……ワーレン、考え事か?」
団員がエールを飲みながら囁く。
ワーレンは短く答えた。
「まあな、まだ断定はしないが、ただ――この領は“締め付けられている”可能性が高い」
エールを口に含む。
本来なら喉を焼くようなコクがあるはずなのに、水のように喉を通る。
穀物の質は兵の体力を左右する。
酒の質は街の経済と職人の誇りに直結する。
料理の味付けが薄くなるのは、香辛料の入手が困難になったか、価格が跳ね上がった証拠。
それらすべてが“同じ方向”を指している。
――スニアス領の根幹である穀物流通に、何かが起きている。
「…隣の卓のコルネリウスたち……なんか、同じ顔してるぜ」
団員の一人がぼそっと言った。
コルネリウス組の面々も、明らかに“薄すぎるエール”に首を傾げていた。
エッケハルト組は逆に、肉の硬さについてひそひそと話している。
ワーレンは静かに頷いた。
「……よし。予定通り、二刻後に退店して宿でまとめる。明日には、範囲を広げるぞ」
「了解」
団員たちは料理を平らげながら、それぞれの観察をメモに落とす。
飲んでいるふりをして情報を拾う。
笑っているふりをして状況を読む。
“騒がしい客の一人”を装いながら、街の歪みを探る。
夜のジカルイミは、静かだった。
表向きの賑わいとは裏腹に、どこか街の呼吸が浅い。
ワーレンはそんな街の空気を感じながら「ボッタの宿」へ戻ってきた。
木製の階段を軋ませ、二階奥の借り部屋へ入る。
扉を閉めると、外の騒音がほとんど遮断され、狭い室内にはワーレン組四名だけの空間が広がった。
粗末な机にランプを置き、火を灯す。
橙色の灯りが揺れる中、ワーレンは静かに外套を脱ぎ、腰のポーチから三つ折りにした紙片を取り出した。
「……さて、まずはコルネリウスたちの情報だな」
ポケットから取り出したふたつのメモを机に置き、広げて皆に見えるようにした。
そこには走り書きの文字が並んでいる。
『領主不在』
『息子3人、娘1人、側室4人』
『ルダミック商会の影響、大』
『宿、食材、高い』
『ルダミック商会だけが潤っているとの噂』
ワーレン組の団員三人が、身を乗り出すようにして覗き込んだ。
「……領主不在か?」
「側室4人はまあ……あるとしてだ、息子三人に娘一人……後継争いかね?」
「食い物や宿代が高いのは、何となく街中でも感じたけどよ……“ルダミックだけが潤ってる”ってのは気になるな」
団員たちは思い思いに感想を漏らすが、ワーレンは無駄な言葉を挟まず、一つ一つ情報を整理しながらメモを指でなぞっていった。
「まず――領主不在。これは事実だとすれば、この街を誰が実際に動かしているかが重要になる」
ワーレンは淡々と続ける。
「息子三人に娘一人、側室四人……家中は複雑だ。権力争いの火種にもなる。だが今はそれ以上に、“誰が実権を握っているか”の確認が先だな」
「やっぱルダミック商会か?」
団員の一人が小声で言う。
ワーレンは首を振る。
「まだ決めつけるには早い。だが――ルダミック商会の影響が“大”という報告はコルネリウスもエッケハルトも一致している」
室内の空気がわずかに重くなる。
団員は腕を組んで唸った。
「でもよ、ワーレン……高いっちゃ高いんだけど、めちゃくちゃな値段ってわけじゃねぇんだよな」
「そうそう。ちょっと『高くね?』って思うくらいで、盗る気満々って感じでもないつーか……」
「……そこだ」
ワーレンは静かに言った。
「“畑を枯らさぬよう、穂だけを少しずつ刈り取る”……そんなやり方をしている匂いがする。荒くない。だが確実に領民は削られている」
「……ってことは、スニアス侯爵が調整してる……?」
「それとも、ルダミック商会か……?」
団員の呟きに、ワーレンは短く息を吐いた。
「どちらにせよ、焦っても意味はない。俺たちの仕事は急所を暴くことじゃない、“確かな情報を積み上げる”ことだ」
団員たちが一斉に頷く。
ワーレンは明日の予定を確認するように、ランプの灯りを見つめた。
「明日は――市場と露店市を回る。ルダミックの商材、卸し値、売り値、流通の癖……全部見る」
真剣な顔のまま、続けて告げる。
「この街の“血流”を知りたい。穀物の流れ、金の流れ、人の流れ……そこを押さえれば必ず何か掴める」
「了解!」
三人が同時に返事した。
「いいか、ここは俺たちの領土じゃない。焦って深入りすれば、向こうが仕掛けてくる。ゆっくり、自然に、まるで観光客のようにな」
団員たちは各自の荷物から小さな筆記具を取り出し、それぞれ今日の気づきをさらに詳しく書き足し始めた。
静かな筆の音だけが部屋に響く。
ワーレンは窓の外に目をやる。
暗い街並みの向こう、ルダミック商会本店の屋根がぼんやりと映る。
心の中で短く息をつき、明かりの落ちる街を見つめ続けた。
(確かな“証”を拾うだけだ。シマに、団に、報告すべきものを)
ランプの炎が揺れる。
これから始まる潜入の“二日目”が、最初の山になることは、ワーレンにもわかっていた。




