待ってくれない?!
第二王子マキシミリアンの葬儀は、王都アンヘルの歴史に残るほどの厳粛な空気の中で執り行われた。
重苦しい鐘の音が王都中に響き渡り、街路には朝から黒衣の市民が静かに並び、王家の喪列が通るたび、誰もが深く頭を垂れた。
王城の大聖堂には、密やかな嗚咽こそあれ声高な泣き叫びはひとつもない。
王族の威厳を損なうことを民が恐れているのか、それとも皆が王族に寄り添うように痛みを胸にしまっているのか。
いずれにせよ、葬儀は始まりから終わりまで、ただ息を殺すような静寂に包まれていた。
王妃ゾフィーは蒼白い顔を紅いヴェールで隠し、皇太子エーリッヒは父王の横で凛然と立っていた。
その姿は、まだ若い彼に背負わせるにはあまりにも重い現実を物語っていたが、彼は表情ひとつ揺らがせなかった。
王、オットー・ラリッシュ・フォン・アンヘルは、息子を失った父ではなく、「国王」としてそこにいた。
どれだけ心が裂ける痛みに襲われようとも、国の柱たる者は民の前で倒れることを許されない。
彼の目は涙で潤んではいたが、決してこぼれることはなかった。
そして葬儀は、静かに、滞りなく終わった。
だが、痛みを抱いて歩みを止めることは、王族にも重臣にも許されなかった。
葬儀が終わるや否や、王城では次の政務が雪崩のように始まった。
今回の反乱未遂によって領地没収が決まったスニアス領。
それが王家の直轄地となった以上、代理領主の選定が急務であった。
「領主代理に任じるべきは誰か」
「治安維持のための兵をどこから回すか」
「旧スニアス家派閥の残党をどう扱うか」
宰相リッベントロップ侯爵を中心に、武官、文官、宮廷法務官が日夜議論を交わしていた。
さらに、先日の事件を受けて王城の一部部署は完全に再編され、膨大な人事の見直しも進む。
王家特別監察官長官──その兼任を命じられたのは、他ならぬブライヒレーダー将軍であった。
王都軍の中枢を担う軍務と、王家直属の監察権限。
どちらも莫大な責務だが、今はその両方を任せられる人物が他にいない。
将軍の肩にかかる重責は、かつてないほど大きかった。
「ブライヒレーダー将軍、こちらは第二監察局からの報告書です!」
「将軍! 新たに監察官候補者の名簿が──」
「将軍、旧スニアス家家臣の取り調べ進捗が──」
次から次へと運び込まれる書類。
将軍の執務室からは、昨日と変わらず紙とインクの匂いが立ち込め、時おり重いため息と怒号がこだまする。
「何故、俺は……何故、こうも書類ばかりに囲まれねばならんのだ……ッ!」
葬儀の直後で気力が削れている者も多い中、ブライヒレーダーだけは容赦されなかった。
王家特別監察官の補充。その穴を埋める必要があるのだ。
王都には、皇太子の要請で各地から若き俊才が呼び寄せられていた。
監察官候補として厳しい適性検査を受け、心身ともに王家に忠誠を誓う者のみが残される。
「将軍、候補者三十二名のうち十二名、身辺調査で不適格者と判明しました」
「減りすぎだッ!!」
頭を抱える将軍。
しかし、不適格者を残せば第二、第三の反逆を招く。
「次の候補者を上げろ! まだ予備リストがあったはずだ!」
「既に確認中です!」
王家直属の監察官たちは、軍にも劣らぬ精鋭でなければならない。
その育成と確保に、ブライヒレーダーは心身のすべてを注がねばならなかった。
一方で、王城内の重臣たちも息つく間もない。
スニアス領を直轄地として再整備するには、熟練の武官と文官が必要となる。
治安維持のための駐留兵には王都第二、第三騎士団の有能な副官が派遣され、徴税、司法、行政に携わる文官たちは、宰相が責任をもって選定する。
「旧スニアス領の治安は既に崩れつつあります。早急な統治が必要にございます」
「領民の不安を払拭するため、王家の威光を示すべきかと」
「領主館の再利用については……」
綿密な議論と膨大な調整が続く。
反逆者の影響を受けた地域は、人心の乱れが必ず起こる。
それを抑えるには、一刻の隙もあってはならない。
そして、王族もまた静かに歩き続けていた。
王は葬儀の日も政務を休まず、宰相と共に机に向かい続けた。
王妃は普段以上に皇太子に寄り添い、彼が情に流されて判断を誤らぬよう支えた。
皇太子エーリッヒは、父よりもさらに冷静な表情で外交文書に目を通し、中断していた国境交渉の再開に備えている。
悲しみは胸の奥底に沈めた。
泣くのは夜だけ。
朝になれば、また王家の顔をして歩かねばならない。
こうしてアンヘル王国は、第二王子の死と貴族の処刑、厳罰という大激震の中で、一つの秩序を壊し、そして新たな秩序を築き始めていた。
誰一人として休む者はいない。
国の柱を支える全員が、痛みを抱えたまま、それでも前へ進んでいた。
王都全体を包む喪の空気は、スラムの奥深くにあるチューファ一家の大邸宅にも重く沈んでいた。
広々とした屋敷の廊下には人影まばらで、いつもなら騒がしいはずの男たちの笑い声も今日は聞こえない。
だが、その沈黙を真っ先に破ったのはザックであった。
「チッ……どこの酒場も娼館もやってねぇ……!」
恨めしそうに空を仰ぐザックの声は、屋敷全体に響いた。
続いてフレッドがぼそりと吐き捨てる。
「俺たちの楽しみを奪いやがって……」
愚痴をこぼす二人に、居間の柱にもたれていたベガが肩をすくめる。
「仕方ねえだろ。三日間は喪に服すって決められてんだ。文句言ってもどうにもならねぇよ」
そこへ、調理場から明るくも容赦のない声が飛ぶ。
『暇なら御飯の準備を手伝って!』
ケイトの声に、ザックもフレッドも観念したように肩を落とし
「へいへい……」
とぼやきながら調理場へと消えていった。
その背中を見送りつつ、マルタが焚き火の前で言う。
「第二王子には悪いですが……俺たちも久々に身体が休めて、ちょうどよかったですよ」
「ま、ここんとこ忙しかったからなあ……」
カイルが頷く。地下闘技場の運営、賭場の管理、取引の調整。
どれもスラムの底辺にいた彼らには、想像すらしなかった日々である。
壁際のソファに腰掛けていたユキヒョウが、涼しい顔で問いかけた。
「地下闘技場、賭場の運営には慣れてきたかい?」
「いやあ、それが中々……」
キースが頭をかく。
「まさか俺たちが人を使う立場になるとは思いもしませんでしたから……今までペコペコ頭を下げていた側でしたのに」
隣で茶をすするチュチュが苦笑しつつ頷いた。
「ほんと、世の中わからねえもんです……」
「まあ、慣れるしかねえな」
ベガが言い放つと、そこへクリフが鋭い視線を向けた。
「お前らチューファ一家の手下にちゃんと言い聞かせとけよ。自分が偉くなったなんて勘違いするなって」
「はっ! 必ず言い聞かせます!」
チュチュが背筋を伸ばして答える。
かつては名前すら知られぬ下っ端であった彼の姿からは、かすかな“責任”というものさえ滲んでいる。
カイルがぼそりと呟いた。
「……スラムの中でも最底辺だった俺たちが、今やトップにいるなんて……今でも夢を見てるんじゃないかと時々思いますよ」
チュチュが苦笑いで相づちを打つ。
「……ザックさんにボコられたのも無駄じゃありませんでしたね」
彼らは忘れられない。
あの日――クリフたちがスラムに足を踏み入れ、寝泊まりする場所を探していたあの時。
ザックは迷わず単身、チューファ一家の巣へ殴り込んだ。
粗末な扉を蹴り破り、十数人を相手に暴風のように暴れ回った。
あの光景を思い出した瞬間、今ここにいる者たちは皆、思わず背筋を伸ばした。
あの“男”に逆らうなど、誰にもできない。
だが同時に――あの日を境に、チューファ一家は変わった。
スラム最底辺の彼らが、今や王都の“裏の秩序”を担う側に回っている。
その現実が、まだどこか夢のようで信じられないのだろう。
調理場の方からケイトの叱咤と、ザックとフレッドの喚き声が聞こえてくる。
喪の静けさとは裏腹に、チューファ一家の屋敷には、今日も人の息づかいと、彼ららしい活気が満ちていた。
スラムの裏社会とは思えないほど手入れの行き届いた庭を抜け、二人の影が屋敷へと近づいていた。
ネリ・シュミッツ。そしてユリウス・ランデル。
軽やかな足取りで門へ進む。
屋敷の門番は、二人の顔を見た途端に直立不動となった。
「ネリ様、ユリウス様……! ど、どうぞお通りください!」
慌てて扉を開く門番を横目に、ネリは淡く微笑んだ。
「ご丁寧にどうも。クリフさんたちはいるかな?」
「は、はいっ! 皆さまお揃いのはずで……!」
ユリウスが「お疲れ様です」と一言だけ残し、二人は屋敷の奥へと進んでいく。
廊下の奥から、ガヤガヤとした話し声と笑い声が聞こえてきた。
チューファ一家らしい、荒々しいが人間味のある息遣いがそこにあった。
ネリが扉を軽く叩き、
「失礼します。ブランゲル侯爵家のネリ・シュミッツ、ユリウス・ランデル参りました」
と言うと、すぐにクリフの声が返る。
「おう! 入れ入れ!」
扉を開けると、居間ではシャイン傭兵団の数名とチューファ一家の面々がくつろいでいた。
ベガが椅子に足を投げ出し、キースとチュチュは床に座って小さな盤ゲームをしている。
ユキヒョウは相変わらず物静かに茶を飲み、クリフは煙草をふかしていた。
ネリが一歩進み、場の中心に立つクリフへと向き直る。
「クリフさん。明日、午前九時頃に王城へ来てくださいとの通達です。今ここにいらっしゃるシャイン傭兵団の皆さまも――そして、クリフさんたちの代わりにスラムをを統治する二名も同行するようにとのことです。今、こちらにいらっしゃいますか?」
クリフは煙をくゆらせながら、面倒くさそうに顎で奥を示した。
「ああ、こいつらだ」
指さされたキースとチュチュは、
「……へ?」
「……は?」
と、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
ユキヒョウが軽く笑いながら補足した。
「チューファ一家のチュチュとキースだよ。」
ネリは丁寧に会釈し、落ち着いた声で名乗った。
「先日もお会いしましたね。ご紹介が遅れて申し訳ございません。ブランゲル侯爵家にてブランゲル様の側近を務めております、ネリ・シュミッツです。こちらはユリウス・ランデル。以後お見知りおきを」
チュチュとキースは口をぱくぱくさせたまま固まった。
王城? 自分たちが?
理解が追いつかず、思考が完全に停止している。
「……お、俺たちが……?」
「……王城に……行く……?」
キースが呟いた声は、震えていた。
チュチュも両手を床につき、天井を見上げた。
「……なんだこれ……? 夢か……?」
二人の世界が、静かに壊れ、そして作り替えられていくようだった。
ごみ溜めのようなスラムでのたうちまわっていた彼らが、国王の居城に招かれる。
それは、彼らにとって現実味のない“奇跡”でしかなかった。
ネリはそんな二人の狼狽を気にも留めず、淡々と続けた。
「ブランゲル様と私も同行します。明日の午前八時前に、ケレンズ伯爵邸にお越しいただければ助かります」
クリフが短く頷く。
「わかった。その時刻までには伺う……。おい、ちょうどいい。昼飯食っていけよ」
ネリは微笑みを浮かべ、
「それでは、ご相伴にあずかります。ユリウス、いいですね?」
「もちろんです。帰れば書類の山に押しつぶされます……ここで少しくらい一息入れさせて、いただきましょう!」
内心では二人ともガッツポーズをしていた。
戻れば、終わりのない事務仕事に駆り出される。
サボれる口実――いや、正当な“社交”ができたのだ。
クリフが立ち上がり、皆を食堂へ促す。
「よし、飯の時間だ。」
そこへ、ベガが、チュチュとキースを容赦なく小突いた。
「おい! 何ぼさっとしてんだよ。飯食いに行くぞ!」
「え、あ、は、はい……!」
依然として呆然としたままの二人。
しかし、立ち上がるその足取りには、どこか震えと――まだその実感を掴めずにいた。
だが確かに、世界は動き始めていた。
彼らが知らぬ間に――もう後戻りできないほど、大きく。




