いつもの日常?!
ケレンズ伯爵邸宅。
重厚な石造りの廊下を渡るたび、窓の外に揺れる宵闇が静かに伸びていく。
王都に張りつめる緊張は、遠く馬のいななきすらかき消してしまいそうだった。
ケレンズ伯爵邸の一室――
ブランゲル侯爵、ブライヒレーダー将軍、ホルダー男爵。
そこへケレンズ伯爵も加わり、明日の「緊急貴族会議」を前にした協議が始まった。
最初は酒も会話も軽かった。
しかしブランゲル侯爵のひとことが、その空気を変える。
「……陛下の雰囲気が変わったな?」
卓の上に置いた杯を、ブライヒレーダー将軍がゆっくり揺らす。
「うむ。あの方は今まで“朕”も“予”も使わぬお方だった。だがマキシミリアン様が亡くなられた後からは、はっきりと言葉を切り替えておられた。王たる者としての“覚悟”か……それとも、失われたものへの弔いか。」
王の語気――
わずかに冷たく、決意を帯び、鋼のように揺るがない声。
それを思い出すだけで、部屋の空気は音もなく沈んだ。
ケレンズ伯爵が静かに言葉を継ぐ。
「マキシミリアン様がお亡くなりになりました。……それだけで政治の均衡は大きく揺らぐものです。」
「……そうですな。」
ブランゲル侯爵は深く息を吐いた。
彼らは戦場で多くの命の最後を見てきた。
人が覚悟を固めた目をしているか――それだけで、どれだけの死が近づいているか分かるほどには。
「明日の緊急貴族会議、荒れるな。」
「間違いなくな。」
二人の視線が静かに重なる。
その沈黙を破ったのは、ホルダー男爵の硬い声だった。
「……カーロッタ・デ・マッケンゼン伯と、オーギュスト・ド・スタール男爵は、死刑は免れぬでしょうな。」
部屋の空気が、さらに一段冷たくなる。
「当然だ。」
ブライヒレーダー将軍が即答する。
「だが問題は、奴らだけでは済まぬことよ。」
「連座か。」
ブランゲル侯爵が低く呟いた。
ケレンズ伯爵は深く頷く。
「ええ……王国法において“国家反逆罪”での連座は一親等まで。それが原則です。けれど……今回は“王子の死”が絡んでいます。処断の厳しさは桁違いになるでしょう。」
「二親等まで……あるな?」
ブライヒレーダー将軍が問う。
「……大きく、あります。」
ケレンズ伯爵は迷いなく言った。
「二親等とは?」
ブランゲル侯爵。
「本人の兄弟姉妹、祖父母、孫。異父・異母の兄弟姉妹も含まれます。」
ケレンズ伯爵が淡々と言われるその言葉は、重い石のように胸に落ちた。
広間の空気が、さらに沈んでいく。
「……スニアス侯、コンラート伯も無事では済むまい。」
ブライヒレーダー将軍が鋭い目で言った。
「奴らはマキシミリアン様に肩入れしていた。それだけではない。裏でカーロッタやオーギュストと繋がっていた証拠もいくつか挙がっていると聞いています。」
ホルダー男爵も口を挟む。
ケレンズ伯爵が眉を寄せ、静かに続けた。
「降爵……いえ、失爵も視野に入っております。領地を持つ者ゆえ、領地縮小や領地替えも避けられないでしょう。」
その瞬間、ブランゲル侯爵は確信した。
――明日の会議は、“粛清の場”になる。
王は優しい王であった。
しかし、その慈悲が国を乱し、争いを生んだのもまた事実。
今の王の目には、迷いが一片もない。
守るべきものと、切り捨てるべきものを決めた人間の目だ。
沈黙が長く続いたあと、ブライヒレーダー将軍が重く言う。
「陛下は……覚悟を決めておられる。あの目は、戦場で無数の矢が降りかかる中、自ら先陣を切って突っ込む者の目だ。」
その言葉に、誰も反論しなかった。
全員が同じものを見ていたからだ。
ケレンズ伯爵が杯を持ち直し、わずかに震えた声で言う。
「……私は、ずっと甘い方だと思っていました。優しすぎるお方だと。ですが今の陛下は……“王”そのものでした。まるで別人のように……いえ、本来の姿に戻られたのかもしれません。」
ブランゲル侯爵がゆっくりと頷く。
「国のために……“切るべきもの”を切る覚悟を持たれたのだ。」
誰も言葉を返さなかった。
その沈黙は、王都の空気と同じ、重く冷たい。
ホルダー男爵が静かに問いかけた。
「……明日は、厳しい沙汰が下りますな。」
「間違いない。」
ブランゲル侯爵は断言した。
「マキシミリアン様がお亡くなりになった――その一点で、もう誰も逃げられない。そして、陛下は“逃がさぬ”と決めた目をしていた。」
ブライヒレーダー将軍も頷く。
「我らの役目はただ一つ。陛下が下す決断を支え、この国が揺らがぬよう支えることだ。」
その言葉は、部屋全体に静かに響き、やがて完全な沈黙が訪れた。
窓の外では、夜風が揺れただけだった。
遠く、鐘の音が聞こえる。
――王都の夜は息を潜め、明日の処断を待っている。
翌朝。チューファ一家の大邸宅は、黎明のうちにすでに活気に満ちていた。
食堂では焼きたてのパンの香ばしい匂い、スープと卵料理の湯気、そこに飛び交う大声と笑い声が混ざり、慌ただしいがどこか家庭的な温かさが漂う空間だった。
その賑わいを破るように、見張り番の兵士が入り口から駆け込んできた。
「クリフさん! お客様が……ブランゲル侯爵家のネリ・シュミッツ殿、それとユリウス・ランデル殿です!」
椅子に座り朝食を取っていたクリフは目を丸くした。
「ネリとユリウス? こんな朝っぱらからか?」
「とりあえず通してやれよ!」
ザックがパンを口にくわえたまま手を振る。
やがて食堂の扉が開き、ネリ・シュミッツとユリウス・ランデルが姿を現した。
ネリは相変わらずきっちりとした軍務服で、礼儀正しく軽躬する。
ユリウスは黒衣に身を包んだ、控えめだが鋭さを隠せない諜報員らしい雰囲気だ。
「よう! ネリ! いいところに来たな!」
ザックが手を振って叫ぶ。
「美味ぇワインがあるんだ、飲んでけよ!」
「朝からですか……まぁ、いただきましょう。」
ネリは苦笑しつつも、どこか懐かしげな表情を浮かべて席についた。
その横を通り過ぎようとするユリウスに、ベガが声をかける。
「ユリウス! 飯は食ったのか?」
「少しは……」
「少しって何だお前! 男ならガッツリ食わねぇと俺みたいに強くなれねぇぞ!」
フレッドが笑いながら腕を組む。
「い、いや、自分は――」
「ほら行け! ほら! これパン! 食え食え食えぇぇ!」
フレッドが容赦なくパンをユリウスの口に押し込む。
「んぐっ!? む、無理ですって……っ!!」
パンを押し込まれ、ユリウスの顔は涙目になっていた。
周囲はその様子を見て爆笑する。
「ほらユリウス、飲み物!」
誰かが差し出したエールを、ユリウスは喉に詰まったパンを流し込むように一気に飲んだ。
「ぷはっ……じ、自分のペースで食べますからッ!」
食堂の空気が一段と賑やかになる。
そんな中で、ネリはふっと柔らかい視線で一同を眺めた。
「相変わらず……賑やかで、楽しそうですね。久しぶりに拝見しました。」
「ここまで来たってことは、何か重要な用件か?」
クリフが問いかけると、
「はい。後ほど、きちんとご報告いたします。」
ネリは小さくうなずいた。
「クリフ、ネリさんに相談してみましょうよ。」
ケイトがさりげなく提案した。
「それは良い考えだね。」
ユキヒョウも静かに同意する。
「ネリ、飯を食った後で相談に乗ってくれるか?」
「喜んで。微力ではございますが、お力になれれば。」
穏やかに返すネリの横で、キースがケイトに近づき、少し緊張した声で尋ねる。
「ケイトの姐御、こちらの方は……?」
「だから姐御はやめてって言ってるでしょう!!」
ケイトの平手打ちが飛んだ。
――バッチィ~~~ン!!!
「ぶべらっ!?」
キースの身体は椅子ごと吹っ飛び、床を転がった。
「……ケイト。もっと手加減してやらねぇと……」
クリフが呆れたように言う。
「ち、ちがうの! キースが大げさなのよ!え、演技だから!」
ケイトは頬を赤くし、必死に弁明する。
「いや……キースの奴、泡ふいてるぞ。」
ザックが指さす。
キースは目を白黒させながら、ピクピクと痙攣していた。
ユリウスは――少し前までパン攻めに遭っていたはずなのに――その騒がしさに呑まれ、半ば呆然としていた。
「……ネリ様。シャイン傭兵団とは、こう……毎朝こんな感じですか……?」
「ええ。あなたはまだ見慣れていないでしょうが……これが彼らの日常です。」
ネリは淡々と言うが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
大広間。
ネリは姿勢を正し、声を落として告げた。
「……これから申し上げることは、極秘事項です。」
広間の空気が一瞬で引き締まる。
シャイン傭兵団のメンバーたちは騒がしいが、いざとなれば統率のとれる面々だ。
ザックとフレッドでさえ、珍しく真剣な目を向けた。
「まず――スラム地区の土地についてですが……」
ネリは一呼吸置いてから続けた。
「特区として認定され、シャイン傭兵団に与えられることが決まりました。」
どよめきが起こる。
「……特区だと?」
クリフが低く呟く。
「はい。この件を知っているのは、陛下、王族の一部、そしてわずかな重臣のみ。外部へ漏洩すれば、それだけで重大な機密漏洩として扱われます。くれぐれも……決して言いふらさぬようお願いいたします。」
ネリは傭兵団の一人一人を見て、言葉の重みを伝えるようにゆっくりと目を走らせた。
「褒賞は、緊急貴族会議が終わり――第二王子殿下の葬儀が無事に終わった後、正式に下される公算が高いとのことです。」
クリフは黙ってうなずいた。
チューファ一家の面々も、安堵と興奮が入り混じった表情になる。
スラムの環境改善――そこに団としての新しい拠点。
夢物語だと思っていた未来が、今、現実になりつつあった。
「アンヘル王国も、僕たちを敵に回すほどバカではなかったようだね。」
ユキヒョウが穏やかな微笑みを浮かべる。
「……ブランゲル侯爵の口添えもあったのかな?」
「さあ、どうでしょうか。ご本人様に直接お確かめください。」
ネリはどこか含みのある言い方をした。
「ブランゲル来てんのか?」
ザックが身を乗り出す。
「なら飲みに連れて行ってやらねえとな!」
すかさずフレッドも拳を打ち合わせて賛同した。
ネリは苦笑して答える。
「……緊急貴族会議と葬儀が終わった後がよろしいでしょう。」
「ブランゲルは、お前らと違って、忙しい身なんだよ。」
クリフが現実を言う。
「え? 俺たちだって忙しいぞ?」
フレッドが胸を張る。
「開拓があるんだからな!」
「昨日は『スッポンポン』、その前は……えーっと、『空になるまで♡』。で、今日は『天国への道』に行かなきゃならねえ!」
ザックが指を折りながら数え上げた。
「それ全部、娼館だろ。」
ベガが呆れた声を出す。
「何が“行かなきゃならねえ”だよ。」
しかし、ザックとフレッドは全く聞いていなかった。
「こうしちゃいられねえ!なあクリフ、金くれ! 今すぐ行かねぇと!」
「テオとユリウスの分も頼むぜ!」
フレッドが、なぜかユリウスの首根っこを掴む。
「えっ、えっ? ちょ、待――」
ユリウスは状況が飲み込めていないらしい。
「お前も行くんだよ! 男ならそういう店を一つや二つ経験しておかねぇとな!」
「そうだそうだ、人生勉強だぞ!」
ザックとフレッドはユリウスの抗議も聞かず、そのまま引きずっていく。
「い、いや、あの……! ネリさん!? 助け――」
「ユリウス、行ってらっしゃい。」
ネリは肩をすくめた。
「……これも任務の一環と思えば、きっと何か得られるものがあるでしょう。」
「ええええええぇぇぇ……っ!!?」
ユリウスの悲鳴が廊下に遠ざかっていく。
アハハと笑い声が広間に響いた。
クリフも、その口元は、ほんのわずかに笑っていた。
ネリはその様子を見つめながら、静かに息をついた。
この明るさ――この“騒がしくも温かい家族のような空気”もまたシャイン傭兵団なのだと。




