奇妙な縁
王の執務室。
分厚い扉の向こうに漂う緊張は、王都に満ちるざわめきよりも、なお重かった。
皇太子は深く息を吐き、ゆっくりと問うた。
「……シャイン傭兵団。彼らにスラムの地を与えたとして……あまりにも大きな力を持つことになるのではないか?」
「なるでしょう。だからこそ、味方につけるのです」
即答であった。ブランゲル侯爵は続ける。
「ブランゲル侯爵家はすでに、シャイン傭兵団の後ろ盾であると宣言いたしております」
「な……なんとッ?! ま、真か……?」
宰相が驚愕の声をあげる。
「はい。家紋付きの書簡も渡しております」
王はじっとブランゲル侯爵を見つめた。
その眼差しは王としての重圧を背負う者のものではなく、一人の男として真実を求める鋭さを帯びていた。
「ブランゲル侯爵……予にはな、其方がシャイン傭兵団と共に歩む覚悟があるように見える。…よいか、これより先の話は他言無用とせよ」
室内が静まり返る。
「正直に答えよ。もしアンヘル王国がシャイン傭兵団と敵対する事態となった場合――其方はどちらにつく?」
ブランゲル侯爵は、迷う素振りすら見せず言った。
「シャイン傭兵団です」
室内の空気が凍りついた。
「……ほう。何故かな?」
王の声は静かだった。
「彼らを敵に回した未来に、アンヘル王国が存続している姿が――私には見えません」
「……一傭兵団だぞ……?」
皇太子が絞り出すように言う。
「皇太子殿下」
ブランゲル侯爵は静かに、だが強く言い切った。
「先ほども申し上げた通り、彼らは“異質”であり“規格外”なのです。“たかだか傭兵団”という考えは、今すぐお捨てください」
「エーリッヒ……口を慎め」
王が低く諫める。
「ブランゲル侯爵家は、貴方を支援する派閥の長なのよ」
と王妃も続けた。
「そ、そんなつもりではなく……ただ、驚いただけで……」
狼狽する皇太子を横目に、ブランゲル侯爵はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「陛下、王妃殿下、皇太子殿下――荒唐無稽と思われても致し方ありません。しかし、“彼らを知らぬ”まま判断されれば、国として取り返しのつかぬこととなりましょう」
侯爵はそこで口を閉ざした。
室内には、シャイン傭兵団という名の重圧が静かに沈殿し、誰もが言葉を失っていた。
王都の混乱を終息させた影の存在、スラムを支配下に置き、王家の危機を覆した異質な集団――彼らの正体を、国の中枢にいる者さえ知らない。
そして、ブランゲル侯爵だけが知っているのだ。
“あの傭兵団は、もはや国家級の存在である”という事実を。
王はゆっくりと口を開いた。
「……敵に回せぬのなら、味方につけるしかあるまい。然も、ブランゲル侯爵家までも敵に回す愚は――予とて犯せぬ」
その言葉に宰相は深く頷いた。
王が、国の命運を左右する大きな決断を下した瞬間であった。
「決まりだな。宰相――用意を」
「ハッ、かしこまりました」
宰相は立ち上がり、机上に書類を広げ、素早く準備に取り掛かる。
普段なら書記官や侍従、執事たちが走り回る場面だが、この場には誰一人として置かれていなかった。
国家の中枢を揺るがす密談――それゆえに、王は信頼できる者以外すべてを排除していた。
重く響くペンの音が、寂寞とした室内に紡がれていく。
「陛下、恐れながら……私にも署名させていただけませんか」
静かに声をあげたのはケレンズ伯爵であった。
王都の混乱の渦中にあって奔走し、シャイン傭兵団との接触も経験している。王は伯爵を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「よかろう。そなたは深く関わっておる。署名する資格はある」
すると、ブライヒレーダー将軍が低く、しかし決然とした声で続いた。
「陛下、私も……。彼らに救われた身として、この特区制定は是非とも賛同したい」
王妃もまた、静かに申し出た。
「私も、陛下と共に記すべきだと思います。あの者たちの力は――国の命運を握るものです」
宰相も頷く。
「もちろん、私も署名いたしましょう。内乱の火種を消し去った彼らに敬意を」
次々と署名の声が上がっていく。
ブランゲル侯爵、ホルダー男爵――そして近衛師団長レームス・ド・フックス男爵までも名乗りを上げた。
「……やれやれ……ならば私も署名せねば立場が無いな」
肩を竦めながらも、皇太子はペンを持ち署名した。
九名すべての名が並び、王の印璽が押されたとき、その書類はすでに“国家密約”となっていた。
書簡は十一枚作成され、それぞれが一枚を保有する。
残り二枚――これがシャイン傭兵団へと渡されるのだ。
「……これは密約である。他の諸侯には、知らせるな」
王の言葉に、全員が静かに頷いた。
スラムは“特区”として扱われ、シャイン傭兵団が所有し治める土地となる――前代未聞の決定である。
一段落つき、重苦しい空気が僅かに和らいだ瞬間、ブランゲル侯爵が口を開いた。
「陛下……一点、お伺いしてもよろしいでしょうか。暗殺未遂事件があったと――耳にしましたが……あれは真で?」
王が答えずとも、宰相が重い声で告げた。
「事実だ。しかも――この部屋で起きた」
空気が一気に張り詰める。
レームス近衛師団長は苦味を噛みしめるように顔を歪めた。
「恥ずかしながら……実行犯は我が近衛師団の者だった」
室内の重臣たちが一斉に息を呑む。
近衛とは、王を護る最後の砦。
その内部に“敵”が潜んでいたという事実は、国の根幹を揺るがす。
ケレンズ伯爵が静かに続けた。
「クリフとケイト――あの二人がいなければ、陛下は……」
伯爵の言葉に、王妃の手が小さく震えた。
宰相が続ける。
「厳しい尋問を行っているが……未だ口を割らぬ。家系図、出自を徹底して洗ったところ……アンヘル王国の者ではないと判明した」
「近衛に入団したのは七年前……前国王陛下が崩御された年です」とケレンズ伯爵。
その瞬間、ブランゲル侯爵の表情がわずかに険しくなった。
「……手引きしたのは、王家特別監察官長官カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵。そして、外務政務官オーギュスト・ド・スタール男爵……ですね」
場にいた全員が息を呑んだ。
それは“推測”ではなく、“確信”の響きを持つ言葉だったからだ。
宰相は目を閉じ、静かに頷いた。
「――その通りだ」
七年前に潜り込んだ近衛の刺客。王家の中枢に潜む影。
そして、その影を暴き、王の命を救ったのは――シャイン傭兵団。
今や、この場にいる誰もが理解していた。
シャイン傭兵団は、もはや国家を救い、国家を動かす存在である。
敵に回せば破滅し、味方につければ未来を拓く。
密室の中、国の未来を決める静かな鼓動だけが響いていた。
ケレンズ伯爵邸宅——
応接間は、昼間とは思えぬほどの熱気に満ちていた。
重厚な扉が開き、ブランゲル侯爵を先頭にホルダー男爵、ブライヒレーダー将軍が姿を現す。
久々に揃った三人の顔には、戦友特有の柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ブランゲル、相変わらず威圧感があるな。王都の空気が震えてるぞ」
ブライヒレーダー将軍が豪快に笑いながら言うと、ブランゲル侯爵は肩をすくめた。
「お前ほどじゃない、ブライヒレーダー。お前が歩けば地面がひび割れる」
「ほう?ならばホルダーはどうだ。お前は相変わらず影が薄いままか? 戦場じゃ誰よりも暴れるくせに」
ホルダー男爵は冗談めかす将軍に苦笑した。
「影が薄いなら毒も盛られませんよ。……いや、盛られたか」
その一言で三人は、さっそく豪快に笑いあった。
戦場という極限を共にした男同士の軽口には、どこか温かい響きがある。
席につき、茶が用意されると、ホルダー男爵が静かに語り始めた。
「……俺も、シャイン傭兵団に命を救われました。」
ブランゲル、ブライヒレーダーの顔つきが変わる。
戦場で命を救い合った間柄だけに、ホルダーの言葉は重い。
「政務を任せていた男に、毒を盛られて。日に日に身体が弱り、ついには寝たきり……医者はどれも首を傾げるばかりだった。死を待つばかりの時でした」
ホルダーは小さく息を吐いた。
「……あの男が現れた。シマです」
部屋の空気がわずかに揺らぐ。
「彼に救われた。俺はあの男と直接話したことはないのですが……倅が友誼を結んでいましてな。どうやら倅が呼び寄せたらしい」
「ホルダー、お前の倅……あの寡黙な坊主だろう?」
ブライヒレーダーが目を丸くする。
「俺の前では寡黙ですが、シャイン傭兵団の前では別人のように話しますな。まったく、若いもんはわからん」
次にブライヒレーダーが口を開く。
「俺は家族を救ってもらった。」
「俺は妻エリジェを」
そう言ったのはブランゲル侯爵だ。
ケレンズ伯爵は静かに頷く。
「私も……娘を救っていただいたわね」
「何とも奇妙な縁だ」
ブライヒレーダーが腕を組む。
「戦場を共にした俺たちが、今度はシャイン傭兵団に一家そろって助けられてるとはな」
ブランゲル侯爵がふと口元に笑みを浮かべ、義母に言った。
「義母上、それだけではないのですよ」
「何が?」とケレンズ伯爵。
「……エリカが、シャイン傭兵団に正式に入団すると言い出しておりまして」
「まあ!エリカが?!」
ケレンズ伯爵は椅子から立ち上がりそうになる。
「しかも、シマを惚れさせてやる、と意気込んでいる」
応接間に爆笑が響いた。
「お、お前のあのじゃじゃ馬娘が?! ワハハハハ!」
ブライヒレーダーは腹を抱えて笑う。
「おい、いいのかブランゲル?」
ようやく呼吸を整えながらブライヒレーダーが聞く。
「むしろ望むところだ。妙な貴族に嫁ぐより、シマのような男の傍にいた方がよほど良い。エリジェも、そうなることを願っている」
「まあ……」
ケレンズ伯爵は驚きながらも、孫娘の意思を尊重するような表情になった。
「しかしイーサン、貴方ずいぶんとシャイン傭兵団を買っているのね?」
ブランゲル侯爵は即答した。
「義母上。あいつらは戦闘力だけではありません。次から次へと“新しいもの”を生み出していくのです」
「新しいもの?」
「食べ物、酒、道具、服飾、薬……言い出せばきりがない。領地にも、我が家にも恩恵がどれほどあったか……」
「まあ!本当に?」
ケレンズ伯爵の目が輝いた。
ホルダー男爵も頷く。
「ブランゲル様の領はもちろん、我が領でも交易をしておりますぞ。領民たちが喜んでおりましな、“あれがあれば冬が越せる”“病人が助かった”など……ありがたい話が尽きません」
「おいおい、本当に何者なんだアイツらは」
ブライヒレーダーは呆れ半分、感心半分の声を出す。
そこからは、戦場での思い出、家族の話、領地の現況、さらにはシャイン傭兵団の“奇行”についてまで話題が広がった。
「そういえばブランゲル、ザックとは飲み友らしいな?」
ブライヒレーダーがワイングラスを揺らしながら言う。
「ああ、そうだ。あいつ、王都に来てるんだろ?──緊急貴族会議が終わったらな、久々に飲み明かすつもりだ」
「俺も参加するぞ」
ブライヒレーダーは鼻で笑い、続けた。
「ザックにな、『俺のことはブライヒレーダーと呼べ』と言ったらよ、あいつ躊躇なくそのまま言いやがるんだ。ワハハハハ!」
「本当に驚いたのよ」
ケレンズ伯爵夫人が目元を押さえて笑う。
「陛下に対して『おう』と返事したのよ、あの子。あれには陛下も笑いを堪えていたわ」
「そりゃまた……」
ホルダー男爵が苦笑しながらも感心したように呟く。
「いや、なんとも豪胆な若者ですな」
ブランゲルはグラスを置き、ふと視線をブライヒレーダーへ向けた。
「そういえばお前、フレッドには会ったか?」
「いや、知らんな」
ブライヒレーダーは即答する。
「私も会っていないわ」
ケレンズ伯爵夫人も首を振る。
「俺も知りません」
ホルダー男爵も同意した。
するとブランゲルは愉快そうに肩をすくめる。
「フレッドもザックと同じような奴だ。実は俺の飲み友でな」
「なんだと?」
ブライヒレーダーが目を丸くし、大袈裟に椅子から半ば立ちかけた。
「それはつまり──『気兼ねなく腹の内をさらけ出したくなる奴』ってことだな?」
「そういうことだ」
ブランゲルは豪快に笑った。
「やつらは身分も肩書きも年齢も気にしない。腹を割って話せる連中だ。飲みの席では特に、な」
ホルダー男爵は腕を組み、感慨深げにうなずく。
「なるほど……シャイン傭兵団があれほど多くの者から好かれる理由、なんとなく分かる気がしますな」
ケレンズ伯爵夫人も柔らかく笑む。
「ええ。彼らには不思議な魅力があるわ。気づけば皆、心を開いてしまうの」
「確かに」
ブランゲルは頷きながら言う。
「シマはああ見えて、人の心を掴むのが上手い。ザックやフレッドも同じだ。あの傭兵団には、どこか底抜けの明るさがある」
ブライヒレーダーは鼻を鳴らし、酒を一口。
「よし、決めた! 緊急貴族会議が終わったら、その夜は飲み明かすぞ。ザックとフレッドも呼んでだ!」
「じゃあ、私も少し顔を出してみようかしらね?」
ケレンズ伯爵夫人が茶目っ気のある瞳で言う。
「お義母上は……ほどほどにな」
ブランゲルが苦笑しつつも楽しげに言うと、部屋は再び笑い声で満ちた。
暖炉の火が勢いを増し、赤々と燃える。
杯は何度も満たされ、戦友たちの笑いと語らいは、夜更けまで途切れることがなかった。
シャイン傭兵団──
ただの傭兵集団ではない。
人を惹きつけ、絆を結び、いつの間にか貴族の心すら変えてしまう。




