会合
夕刻前のブライヒレーダー伯爵邸。
中庭に、突然ざわめきが走った。
「し、将軍が……! 直にお戻りになると!」
門兵が駆け込み、息を切らして報告すると、それは瞬く間に執事へ、そして邸中の使用人へと伝わった。
次の瞬間、老執事がハイデマリー親子の待つ応接室へと小走りに現れる。
「奥様、クラリス様、フラウ様……旦那様が、もうじきお帰りになられます!」
その声を聞いた途端、三人は弾かれたように立ち上がり、礼儀も形も忘れて庭へと駆け出した。
服のの裾を押さえることすら忘れ、ただ“あの人に会いたい”という思いだけで足を動かしていた。
庭に出ると、すでに兵士たちが門へ向き直り、姿勢を正している。
風が、三人の髪とスカートを揺らした。
空は、夕陽が傾きかけた橙色。
光の色が、三人の焦がれる心をそのまま映しているかのようだった。
そして――。
遠くから蹄の音が響きはじめる。
最初は小さく、次第に大きく、力強く。
やがて門の向こう、その中から一頭の馬が姿を現した。
その騎乗の男こそ、――ゲルゾーン・デ・ブライヒレーダー将軍。
馬の影を従え、まっすぐ邸へ向かってくる。
馬上の男の瞳には、武将の鋭さではなく、熱く揺れる家族への思いがはっきりと宿っていた。
「ハイデマリーッ!! クラリスッ!! フラウッ!!」
邸門を抜けた瞬間、ブライヒレーダーは叫んだ。
そして馬が完全に止まるより早く、飛び降りる。
着地した足がまだ砂を巻き上げているうちに、彼は全力で三人へと駆け寄った。
「貴方ッ――!」
「お父様ッ!」
「お父様ぁッ!」
三人の声が重なり、次の瞬間、四人は固く抱き合った。
その抱擁は、まるで何年も離れ離れだった家族が奇跡の再会を果たしたかのようだった。
ハイデマリーは、攫われている間ずっと母として毅然と振る舞い続けていた。
娘たちを励まし、恐怖を隠し、弱さを見せぬよう努めていた。
だが――夫の腕に抱きしめられた瞬間、その緊張の糸がぷつりと切れた。
「う、ううっ……っ、貴方……!」
くずれ落ちるように彼にすがりつき、涙が止まらない。
クラリスもフラウも同じだった。
ブライヒレーダーの顔を見た瞬間、幼い頃のように父へ縋りついて泣いた。
「す、済まぬ……! 本当に……済まぬ……!」
ブライヒレーダーは娘たちを片腕ずつ抱えながら、何度も何度も謝り続けた。
「もっと警戒していれば」
「もっと気を配っていれば」
「もっと早く帰れていれば」
本当ならその思いを言葉にしたかったが、喉が締めつけられ、声にならなかった。
出てくるのはただ――「済まぬ」という言葉ばかり。
「お父様……髭が痛いわ……っ」
涙声でクラリスが言った。
ブライヒレーダーはその言葉に目を丸くし、次の瞬間、笑った。
決して豪快ではなく、胸の奥からあふれ出すような泣き笑いだ。
「ワハハ……す、済まぬ……」
「軍人たるもの、身嗜みにも気を配るものだって貴方がおっしゃってたのに……そんな無精ひげを生やして……」
ハイデマリーも涙をぬぐいながら、頬を寄せて呟いた。
その声は震えていて――けれど温かかった。
「私たちも知ってますわ。貴方がずっと眠れない夜を過ごしていたことぐらい」
「お父様、目の下の隈がひどいわ」
「酷い顔になってるわ」
「……そうか……! すまぬ、すまぬな……!」
「お父様、先程から謝ってばかりですわ!」
フラウが泣きながら笑う。
「……す、すま……」
「ほら、また!」
「ほんとにもう、お父様ったら!」
今度は三人が同時に笑いながら突っ込む。
ブライヒレーダーは照れくさそうに頭をかき、そしてまた笑った。
その目尻には涙が光っている。
夕陽の光が四人を包む。
邸内の兵も、執事も、メイドもその光景を見て胸をなで下ろした。
家族が再び揃った。
その事実だけで、邸中すべてが救われた気がした。
四つの笑い声が、庭の空気を震わせて響きわたり、そして夕陽の色に溶け込んでいった――。
ブライヒレーダー伯爵邸の庭を後にしたクリフとケイトは、夕陽の残光が街道を赤く染める中、静かに馬車を走らせた。
二人とも誘われた夕食会を固辞した理由を口にするまでもない。
――あの家族には、今夜は家族だけで過ごしてほしい。
失われかけていた日常を取り戻す、かけがえのない夜になると分かっていたからだ。
「……よかったわね、ほんとに」
「おう。今夜はきっと、朝まで話し込むだろうな」
ケイトがほっと吐息を漏らし、クリフは大きく伸びをする。
ふたりは自然と笑みを交わした。
帰路の途中、二人は街の商店をいくつも巡った。
甘い焼き菓子、瓶詰めの蜂蜜、ドライフルーツに大量の酒。
ケイトは両腕いっぱいに抱えて「宴会でもする気か?」とクリフに呆れられながらも、結局クリフも追加で樽入りのエールを買い足した。
ふたりは笑い合いながら、にぎやかな夜を予感しつつチューファ家の大邸宅へと足を踏み入れる。
邸内は夕食の準備に追われ、料理の匂いと足音が飛び交っていた。
鍋の音、包丁の音、子どもたちのはしゃぎ声。まるで祭り前の屋台裏のようだった。
「ただいまー!お酒いっぱい買ってきたわよ!」
ケイトが玄関から声を響かせると、あちこちから歓声が上がる。
「おおっ、まじですかケイトさん!」
「ケイト姉だ!」
「酒!酒だああ!」
ユキヒョウがひょいと顔を出し、眉を上げた。
「ワインはあるのかい?」
「もちろん。エールも果実酒も山ほどよ。子どもたちには甘いお菓子もね!」
「やったぁー!!」
子どもたちがケイトに群がり、クリフが背中から荷物を奪われないよう慌てて制止した。
「落ち着け、晩飯食ってからだぞ!」
「えええー!」
「はいはい、文句言わないの!」
ケイトが笑いながら頭を撫でる。
夕食時、玄関のほうでドタバタと足音がした。
「ただいまーーッ!」
「戻ったぜーーッ!」
ザックとフレッドが両手を広げて帰ってくる。
二人の満面の笑みに、邸内の空気が一気に明るく弾けた。
二人が加わったことで、食卓はさらに騒がしくなる。
もはや夕食というより完全に宴会と化していた。
テーブルには肉のロースト、山盛りのパン、香草の効いたシチュー、色とりどりのサラダ、そして並べ切れないほどの酒瓶。
笑い声と香りが混ざり合い、室内は熱気に満ちていた。
「なぁ、なんだか毎食宴になってないか?」
リズの父ベンが苦笑しながら言う。
「俺たち貧乏人には嬉しいんだが……」と言うテオ。
「細けぇことはいいんだよ、オヤジ!」
ザックが肩を組む。
「飲め食え騒げ!ワハハハハ!」
隣ではフレッドがテオを肘でつつく。
「ようよう、テオだったよな?今度よぉ、一緒に娼館行かねえか?」
「……い、いや、その……行きたいけど金が……」
「ははっ!心配すんな俺が出してやるって!」
「えっ……じゃ、じゃあ俺も……」
ベンがぼそりと言う。
「アンタ何言ってるんだいっ!」と妻ヘラが背中をスパーン!
「ぐはっ!」
「いい歳して!恥ずかしいと思わないのかい!」
食堂は爆笑に包まれる。
ケイトはリズの姉リタと果実酒を片手に、女性同士の話で盛り上がっていた。
リタが「ケイトさんほんと飲めるわね」と感心すると、ケイトは肩をすくめて笑う。
「団じゃ毎晩のように宴なんだから、これくらい普通よ」
その向かいでは、オスカーの両親オイゲンとカタリーナがユキヒョウと談笑していた。
「ワインお好きなんですか?ユキヒョウさん」
「ええ、とても」
静かに楽しんでいるはずの彼らの周囲で、ベガ、チュチュ、キース、避難民たちが大騒ぎしているせいで、会話はたびたび笑い混じりに中断される。
だが、それすら心地よかった。
部屋の隅ではクリフが子どもたちに囲まれ、買ってきたお菓子をひとつずつ配っていた。
「ほら、喧嘩すんな、一人一個ずつだぞ」
「わぁ、これ甘い匂いする!」
子どもたちは目を輝かせ、クリフの手から受け取るたびに跳ねるように喜ぶ。
クリフは彼らを見つめ、ふと小さく笑みを漏らした。
――こういう時間が続けばいい。優しい表情だった。
酒がまわり、料理が減り、笑い声が絶え間なく響く。
大邸宅は、今夜だけは貧富も身分も忘れ、ただ“生きている喜び”が溢れる空間になっていた。
外では夜風が木々を揺らし、遠くの空で星が瞬き始めていた。
この夜の賑やかさは、きっと誰もが覚えているだろう。
それは、戦乱の世界でほんの一瞬だけ訪れた、
――暖かく、騒がしく、そして幸せな「日常」だった。
二日後、チューファ一家の大邸宅は、朝からどこか重苦しい空気に包まれていた。
庭先に立つ見張りの者でさえ肩に力が入り、落ち着かない。
今日は各一家の“親分”たちが集まる日。普段は血気盛んで荒事も厭わない彼らでさえ、この日の会合に関しては誰もが心臓の鼓動を意識せざるをえなかった。
大広間の扉が開くたびに、緊張した空気が流れ込む。
「……失礼します」
「……よろしくお願いします」
まるで王城へ入るかのように背筋を伸ばし、声を潜め、汗ばむ手を衣の裾で拭く親分たち。
その広間の中央に、シャイン傭兵団の面々が並んでいた。
一方でチューファ一家からはチュチュ、キース、マルタ、カイルの四人。
こちらは緊張で表情を強張らせ、しかし目だけは鋭く周囲を観察している。
そしてクイレイ商家の店主クイレイ。
眉間に皺を寄せ、深刻な空気を読み取っていた。
やがて、全員が揃ったことを確認し、場が静まり返る。
先に口を開いたのはユキヒョウだった。
椅子から立ち上がり、無表情のまま親分たちを見渡す。
「……今のところ、人身売買の報告は上がってきていないね」
どよ、と親分たちの顔が曇る。
細い息があちこちから漏れ、誰もが返事のタイミングを探しあぐねた。
ユキヒョウは淡々と続ける。
「でも、あくまで“今のところ”だよ。君たちは知っているはずだ。僕たちは一度吐いた言葉は必ず実行する。だから覚えておいてほしい」
——場の空気が、急速に冷えていく。
「約束を破れば、それはつまり『皆殺し』ということ」
その声は低く優しげですらあった。大声でも怒号でもない。
しかし聞く者の背筋を凍らせるには十分すぎるほどの重みを持っていた。
親分たちは誰ひとりとして目を逸らせない。
この男が――この“傭兵団”が――言葉通りのことを平然と実行する存在であることを、彼らは嫌というほど知っていたからだ。
ユキヒョウは椅子に腰を下ろした。
代わって、クリフがゆっくりと立つ。
彼が立った瞬間、場の空気が“重さ”を増した。
クリフはあまり表情を変えない。
だがその落ち着いた声は、不思議と空間全体に響き渡った。
「……内戦は、回避されたと言っていい」
親分たちの目が一斉にクリフに注がれる。
「結果的にだが、俺たちもお前たちもそのことに一役買った。そこで国王から問われた――“褒賞として何を望む?”とな」
ざわ……と場が揺れた。
国王。
その言葉が持つ意味を、スラムで生きる者たちは知っている。
生涯関わることのない存在。
おとぎ話のように遠く、触れることすら叶わない相手。
その国王から褒賞を問われた?
シャイン傭兵団が?
理解が追いつかず、空気だけが先に熱を帯びる。
クリフは続けた。
「俺は答えた――『スラムの土地が欲しい』とな」
場のざわめきが一気に大きくなる。
「静かにしなさい」
ケイトが軽く声を上げると、わずか一言で全体が静まった。
剣を抜いたわけでもない、怒鳴ったわけでもない。
それだけで全員が黙るのだから、親分たちの緊張は頂点に近い。
クリフは話を続ける。
「その際に条件も出した。スラムの内情に口は出さない。外からの専横や介入も許さない。もちろん、貴族連中に対してもだ」
『貴族』という言葉が出た瞬間、親分たちの顔に驚愕が走った。
――貴族に条件を突きつけた?
――いや、国王に対してさえ条件を?
――まるで対等な立場じゃないか?
理解を超えた光景に、誰もが呆然とクリフを見つめるしかなかった。
スラムの親分たちにとって、国王とは神のような存在だ。
雲の上どころか、天を仰いでもその姿すら見えない存在。
それに対して条件を突きつけた?
言葉を交わした?
褒賞を求められた?
「な、何なんだ……この人たちは……」
小声でつぶやく親分が一人、二人と現れる。
そのつぶやきが波紋となり、恐怖と同時に奇妙な信頼感が広がっていく。
――物怖じしない。
――圧倒的すぎる戦闘力。
――敵には冷酷無比、だが弱者には情に厚い。
出会って以来、何度もその姿を目にしてきた。
だが今日ほど、そのすべてを“強烈に”実感したことはなかった。
広間は静寂に包まれたまま、誰もがその事実を噛みしめていた。




