末路?!
王家特別監察官長官——カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵の邸宅は、王都崩落の予兆とともに不気味な静寂に包まれていた。
普段なら従者たちの規律ある足音が響くはずの廊下にも、人の気配はほとんどなかった。
カーロッタは、執務室の金庫から金品を掻き集めていた。
宝飾類、巻物、金貨袋、帝国からひそかに受け取っていた褒賞の証書、そして裏帳簿の束まで。
床には慌ただしく引き倒された椅子が転がり、装飾品のいくつかは落下して割れていた。
「クソッ!クソッ……ッ!」
伯爵としての気品など一欠片も残っていない。
額に滲む汗を拭う余裕すらなく、ただ必死に持ち出すべき財を選別する。
そんな中、彼の怒声が屋敷に響きわたる。
「……あの恩知らず共め!この私がどれほど帝国のために働いてきたと思っている……ッ!利用するだけ利用して、あとは知らぬ顔か!?」
彼が嘆いた「恩知らず共」とは、彼が自ら育て上げた王家特別監察官たち——もっと正確には、「帝国が彼に預けた諜報員たち」のことだった。
王国の内側から徐々に腐らせるために送り込まれた帝国の犬たち。
その長官としてカーロッタは振る舞い、彼らに命令を下し、王国の情報を吸い上げて帝国へ送ってきた。
しかし、その「子飼い」たちは王都に危機が迫ると誰一人として彼に連絡さえよこさず、我先にと脱出して行ったのだ。
残ったのはカーロッタただ一人。
「…私が帝国のためにどれだけ肩入れしてやったと思ってるんだ!金も、人も、情報も……!」
歯ぎしりをしながら、カーロッタは宝石箱を鞄に放り込んだ瞬間だった。
――コツ、コツ、コツ。
規律ある重いブーツの音が、廊下の奥から響いてくる。
耳に慣れた、しかしどこか不穏なそれに、カーロッタは顔を上げた。
反射的にナイフへと手が伸びたが、震えてうまく掴めない。
そして、執務室の扉がゆっくりと開く。
「おやおや……これはまたずいぶんと慌てておられますな、長官。」
冷ややかな声が室内に満ちる。
姿を見せたのは、王家特別監察官班長たち——本来ならばカーロッタの直属の部下であり、王国に忠誠を誓う精鋭たちだった。
黒い外套に身を包み、整列する彼らの顔には嘲笑も侮蔑もない。
ただ静かに、そして冷徹に佇んでいた。
彼らは真面目に、ひたむきに職務を遂行してきた。
上層部からの無茶な異動命令にも逆らわなかった。
時に非情な任務さえ、国を守るためなら、と飲み込んできた。
その忠誠心を利用してきたのが、ほかならぬカーロッタ自身である。
帝国に情報を売り、スニアス侯爵家一派にさえ便宜を図り、彼らが命を懸けて集めた諜報を私利私欲のために流してきた。
そして彼らは、その事実にようやく辿り着いたのだ。
——裏切られていた、と。
その中心に立つのは、一際鋭い眼光を持つ男。
班長の一人、ジャン・クレベルである。
「長官。我々はあなたを信じていた。我が身を削ってでも、任務を遂行してきた。だが、あなたは……」
クレベルが吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「帝国に王国の心臓を差し出していた。」
カーロッタは顔を引きつらせた。
言い訳が喉まで出かかっても、彼らの視線がそれを押し戻した。
「まさか……まさか、お前たち……」
「はい。すべて知りました。」
クレベルが淡々と続ける。
「リーガム街の件も、監察の混乱も、今、王国内で起きていることも……あなたが背後で糸を引いていた。自分の利益のために。」
カーロッタは思わず後ずさった。
彼の視線が無意識に窓へ向かった瞬間、クレベルは鋭く言った。
「逃げ場はありませんよ。」
班長たちの表情は憤怒で歪んでいるわけではない。むしろ静かだ。
だからこそ恐ろしい。
己の心を押し殺して命令を遂行してきた者たちが、裏切りを悟った時——その決意は揺るがない。
「あなたがどれほど何を叫ぼうと関係ない。我々は“王国の盾”として動く。」
クレベルの目にはかつてのシャイン傭兵団との出会いが一瞬、よぎった。
リーガム街で共闘するはずだった…帰還命令で断ち切られた、あの時の無念が、今も胸に刺さっている。
——あの時、長官が動いていなければ。
そんな思いすら胸をかすめる。
「カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵。」
クレベルが告げる。
「あなたを国家反逆罪の容疑で拘束する。」
部屋の温度が急激に下がったかのような錯覚が包み込む。
カーロッタの瞳が揺れ、金品の詰まった袋が手から滑り落ちた。
カラン……カラン……
床に散らばる宝飾の音が、死刑宣告の鐘のように響きわたった。
カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵邸の壮麗な正門が、砕けんばかりの勢いで押し開かれた。
ブライヒレーダー将軍が率いる近衛部隊が、怒涛のごとく庭へなだれ込む。
鬨の声もない。沈黙した威圧が邸宅全体を覆い尽くし、兵たちの足音が石畳を震わせた。
ブライヒレーダーの鋭い眼光は、まるで標的を正確に貫く矢のように邸内へと向けられている。
その背には、自らの家族を人質に取られ、国への忠誠と父としての情の板挟みにされた苦悩が、炎のように渦巻いていた。
「カーロッタ伯爵を捕らえろ。逃がすな。」
将軍の低い命令が発せられた瞬間だった。
——ガチャリ。
邸の大扉が内側から押し開かれる。
そして姿を見せたのは、縄で両手を後ろに縛られ、腰縄までかけられ、まるで罪人そのものの格好で引きずられてくるカーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵であった。
その腕を固く掴んでいるのは、王家特別監察官班長ジャン・クレベル。
そして彼の後ろには、同じく監察官班長たちが静然と控えていた。
怒りの表情ではない。
彼らはただ、己の職務を果たすための冷徹な決意だけをその瞳に宿していた。
カーロッタは足をもつれさせながら庭に引きずり出される。
もはや伯爵らしい気品はどこにもない。
乱れた髪、焦げ茶の髭は汗で濡れ、衣服には引き倒された際についた埃がこびりついている。
クレベルはブライヒレーダーの前に進み出て、簡潔に報告した。
「ブライヒレーダー将軍。カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵を、国家反逆の容疑にて拘束いたしました。」
あたりの空気がピンと張り詰めた。
重い宣告が庭の石畳に沈み込んでいくようだった。
ブライヒレーダーはゆっくりと頷いた。
「……うむ。ご苦労だった。」
その声に感情の波はなかった。
しかし実際には、胸の内の激しい怒りと憤りが噴き上がっていた。
だが、それを表に出すほど、彼は軽い男ではない。
すぐに将軍は続けて問いかけた。
「邸内の者はどうした? 他にも誰かいたはずだ。」
クレベルは即答する。
「容疑者は一人だけです。他には誰の姿も確認できませんでした。」
その瞬間、ザックが隣で眉をひそめ、盛大に鼻で笑った。
「は? 執事もいねぇ、使用人もいねぇ、門番すらいねぇってのに……こいつだけ残ってたのか?バカの極みじゃねえか。これで“何たら長官”なんてやってたって? 笑わせんなよ。」
周囲の兵士たちから、くぐもった失笑が漏れた。
「確かに……危機意識ってもんが無さすぎるな……」
「よくまあ、ここまで能天気でいられたもんだ。」
国家反逆を働いていた身なら、真っ先に夜陰に紛れて逃げ出すはずだ。
逃げるべき時に逃げられないという愚かしさが、逆に彼の無様さを際立たせていた。
しかし——そんな周囲の失笑すら、ブライヒレーダーは聞いていない。
彼はただ一人、カーロッタを睨み続けていた。
その視線は氷の刃のように鋭く、しかし内には灼熱の怒りを宿していた。
カーロッタが顔を逸らすたび、ブライヒレーダーの怒気がさらに濃くなる。
(この男が……俺の家族を……。妻と娘を人質に取り、俺を脅し、国を裏切らせた。この国に生涯を捧げる覚悟を、踏みにじった……。)
その胸の内を噴き上げる激情が焦熱となって、喉元までこみ上げてくる。
拳を握り締めれば、血がにじむほどだった。
しかし——その怒りを、彼は己の誇りによって押しとどめた。
将軍である前に、彼は王国の忠臣であり兵である。
怒りに任せて罪人を殴り殺すことはできる。
だがそれをした瞬間、自らが守るべき「正義」が汚れる。
だからこそ、彼は言った。
「カーロッタ……」
声は震えていた。
しかし震えの奥には、堅固な意志があった。
「今すぐにでも斬り捨ててやりたいところだ。」
その一言に、周囲の空気が凍りついた。
監察官たちでさえ、わずかに息を飲むほどの殺気がにじむ。
だが、ブライヒレーダーは続けた。
「だが——貴様には殴る価値すらない。」
その冷酷な宣告に、カーロッタの顔が引きつる。
ブライヒレーダーは顎をわずかに上げ、兵たちに命じる。
「連れていけ。」
声は静かだった。
その瞬間、兵たちが一斉に動いた。
カーロッタが何か叫んだが、兵士たちによって即座に口を塞がれ、引きずられていった。
ジャン・クレベル率いる監察官班長たちは、その背を見送るだけだった。
彼らの胸にもまた、複雑なものが渦巻いていた。
だが今は、ただ国家のために務めを果たしたという想いだけが残る。
カーロッタの姿が完全に視界から消えると、ブライヒレーダーは天を仰ぎ、一度だけ深く息を吐いた。
その吐息は、長い苦しみの終わりを象徴するかのように白く冷たく、そして静かだった。
王城敷地内——重苦しい空気が漂う早朝の空の下、一団が静かにクレゴワン・コテージへと向かっていた。
最前列には近衛師団長レームス・ド・フックス男爵。
その後ろに国王オットー・ラリッシュ・フォン・アンヘルと王妃ゾフィー・ドロテア・フォン・アンヘル。皇太子エーリッヒ・フォン・アンヘルは二人の少し後ろを歩き、さらに宰相ヨアヒム・デル・リッベントロップ侯爵、ケレンズ伯爵、そして彼らを護衛する近衛師団が続いていた。
周囲を広く包囲するように、アンヘル王国軍第一騎馬隊が警戒態勢を敷き、ケイトはその中央で黙々と周囲の気配を探っている。
クレゴワン・コテージの外周では、第二騎馬隊が馬上で固く睨みを利かせ、何者たりとも近付けようとはしない。
静寂の中にただ、緊張で強張った馬の鼻息だけが聞こえた。
クレゴワン・コテージ。
だが今日は、異質な空気がそこを包んでいる。
誰もが認めたくない真実が内部で待っている——そんな不吉な匂いを、誰しもが感じ取っていた。
「…まだ中は、手が付けられておりません。」
レームスが静かに報告する。
宰相ヨアヒムは目を伏せ、一度深く呼吸を整えると、レームスと共に無言で扉へと歩み寄った。
クリフとフレッドからの報告は受けていた。第二王子が亡くなっていること。
しかし、それがいかほどの惨状かまでは聞いていない。
軋む音とともに扉が開く。
——嗅ぎ慣れぬほど濃い血臭が、二人の顔を直撃した。
ヨアヒムは眉ひとつ動かさなかったが、レームスの表情はわずかに強張った。
それでも二人は一歩、また一歩と内部へ入る。
足元には乾きつつある血の跡が複雑な模様を描き、床板の光沢を奪っていた。
壁には飛び散った血が月光を染み込ませたかのように黒く光り、部屋の中央——
そこに、第二王子マキシミリアンが座っていた。
否、“座らされた”のか、“その体勢のまま倒れた”のか。
姿勢は穏やかでありながら、不自然な静止を見せている。
手には血に濡れた短剣。
白かったはずの王族の衣は、赤黒い色に染められ、首元から伸びる一文字の裂創は、否応なく自らの手で頸動脈を断ったことを示していた。
その周囲には、数名の側近たちが同じく横たわっていた。
皆、己の首を切り、自決したと思しき姿。
無言で横たわる彼らは、まるで主君に殉じたかのようにも見えた。
ヨアヒムは言葉を発するより先に一度瞼を閉じた。
重すぎる現実を受け止めるには、一瞬の間が必要だった。
「……陛下に、このままお見せすべきか……」
その声は、普段の厳格な宰相のものではなく、ただの一人の年老いた臣下としての呻きに近い。
レームスは返答できなかった。
将軍でも騎士でもなく、一人の人間として、ここで判断を下せる者はいなかった。
二人は無言のまま外に出た。
冷たい朝の空気が肺に満ちる。
宰相は王の前に立つと、報告を飾らなかった。
「……あまりにも、痛ましい状況です。陛下……覚悟を……」
その言葉を聞いた国王は、一度だけ頷いた。
王妃は震える手を胸元に添え、エーリッヒは唇を噛みしめていた。
「行く。」
国王の声は、震えてはいなかった。
だがその裏にあるものは、誰にも想像できないほど深い。
クレゴワン・コテージの扉を王自らが押し開く。
少しだけ軋む音が、やけに大きく響いた。
一歩足を踏み入れると、血の匂いがむせ返るほどに濃く漂った。
王妃は一瞬顔を歪めたが、それでも足を止めず進む。
皇太子も続いた。
そして別室へ。
そこには変わり果てた姿で座る、息子——マキシミリアン・フォン・アンヘルがいた。
国王は一度足を止めた。
二年ぶりの、息子との再会。
その形が、これだ。
王妃が息を呑んでよろめく。
国王はそんな妻を支えながら、一歩ずつ近付いた。
椅子の前で膝を折り、冷たくなった息子の体をそっと抱き寄せる。
衣に血が移るなど、まるで問題ではなかった。
腕の中にあるものが、確かに二年前まで笑っていた息子である事実が、何より重かった。
「……マキシミリアン……」
王妃の声は震えていた。
涙が頬を伝い、息子の赤黒く乾いた髪に落ちるたび、小さく弾けて消えた。
皇太子エーリッヒは数歩遅れて遺体の前に立った。
その目に映るのは、かつて剣を交え、時に意見をぶつけ合った弟の姿。
今は言葉も感情も返してこない。
「……マキシミリアン……」
そっと弟の体を抱きしめる。
震えが止まらない。
声にならない嗚咽が漏れた。
部屋の空気は重く沈み、誰も言葉を発する者はいなかった。
ただ王族の静かな泣き声だけが、かすかに響いていた。




