追い詰められたのは?!
西側倉庫——ノッシ一家の縄張り。
その周囲は、チュチュ一家を筆頭に、複数の一家によって十重二重に封鎖されている。
だが、それでも“穴”はあった。
封鎖は完璧ではない。
通りの片隅、壊れた樽の影で、ひとりの男が小さく咳をした。
年のころは四十前後、痩せた体に擦り切れた上着。
誰が見てもただのスラムの住人——だが、その実態は違う。
帝国の諜報組織が「草」と呼ぶ人間の一人だった。
“草はその土地に根を張る”
それが彼らの使命である。
彼らは特別な訓練を受けてはいない。
剣も拳も持たない。ただ生きる。
人々の間に混ざり、年月をかけてその土地の「空気」になる。
そして、誰にも怪しまれぬまま、時が来たら“風に流す”のだ——情報という名の種を。
男は十年以上、このスラムで暮らしていた。
酒場で働き、喧嘩を避け、時に病人を助け、時に盗人と取引しながら。
誰も彼を疑わなかった。
だが、今夜、その目は鋭く光を帯びていた。
「……西の倉庫で、騒ぎがあったらしいな」
「チューファんとこの連中も慌ててた。何か“救出された”とか」
スラムの住人たちが噂する。
その言葉に、男は静かに立ち上がる。
夜の通りをすり抜けながら、角を三つ曲がる。
そこには小さな果物屋の裏口があった。
扉を二度叩く。中から男の声。
「何だ、夜更けに」
「リンゴが三つ、腐ってた」
沈黙。次の瞬間、錠が外れる。
中には別の「草」がいた。
スラムの男の言葉は短い。
「パウルへ伝えろ」
「了解」
伝達の糸はすぐに繋がる。
職人へ、役人へ、軍へと渡り歩き——やがて、一人の男の耳へ届く。
パウル・ベニヒゼン。
第二王子マキシミリアンの側近。
「……失敗したか」
低く呟き、深紅の外套を手に取る。
王城の敷地内、北の林を抜けた先にあるクレゴワン・コテージ。
第二王子の私邸であり、外部の目が届かぬ場所。
夜半、その邸宅にひとりの軍人が入っていった。
扉が静かに閉まり、数分と経たぬうちに再び開く。
軍人は早足で外へ出る。
そして——五分後。
扉が開き、深紅の外套を羽織った男が現れる。
長剣を腰に下げ、手には黒手袋。
落ち着いた歩調。まるで影の中を歩くような静けさ。
その姿を、遠くから見ていたのがベガだった。
ベガは夜風の中に身を沈めていた。
灰色の外套に、薄い布のマスク。
林に紛れ、コテージを監視している。
彼の目は夜に慣れ、わずかな動きすら見逃さない。
「……軍人が出入りしてる?」
独り言のように呟く。
この時間、王城に出入りできる軍人など限られている。
しかも、第二王子の私邸だ。
男が入ってから、出てくるまで——三分。
会話か、それとも報告か。
だが、直後に別の男が現れた。
深紅の外套。腰の剣。あの落ち着いた歩み。
物資を押収していた、あの現場の指揮官——
(まさか……!)
風が吹く。
パウルの外套が翻り、剣の柄が光を返す。
その姿は、かつて北の倉庫を指揮していた男と寸分違わなかった。
ベガの背筋に冷たいものが走る。
(……そうか。お前が“パウル・ベニヒゼンか……)
情報が線となって繋がる。
(…どこへ行く……?)
声にはならない囁き。
ベガは後を尾ける。足音は砂の上に吸い込まれるように消えた。
獲物を追う獣のように、彼はただ、赤い外套の背を見つめていた。
だが、次の瞬間、その“パウルらしき男”が立ち止まり、辺りを見回した。
鋭い、獣のような目。
(ッ、バレたか?)
ベガの指が自然に剣の柄を探る。
しかし、男はそのまま方向を変え、ゆっくりと歩き出した。
城壁を抜ける道へ——北西の街道だ。
通りの角、古い井戸の前。
その影から、別の人影が現れる。
軍人——いや、報告を届けた“草の伝令”か。
二人は言葉を交わさず、手短に何かを受け渡す。
その仕草を見て、ベガは確信した。
(やはり、あの騒ぎを知って動いてる……!)
パウルは書簡を懐に収め、歩き出す。
足取りはまっすぐだが、何度も振り返るような素振りを見せた。
まるで、自分が“追われている”ことを知っているかのように。
ベガの中で警鐘が鳴る。
クリフたちが救出を終えたその直後——帝国の草が動き、王族の側近が夜明け前の街を行く。
——まだ夜は終わらない。
路地の壁に積まれた石や桶、油壺の影が二人を取り巻く。
ベガの胸に、冷たい血のような予感が走った。
「…尾行していたつもりが誘い込まれたか…!」
思わず声が漏れる。
だがその声は、風に掻き消される前に、赤い外套の男の耳に届いた。
パウルはゆっくりと振り返り、薄く笑った。
「ふん。シャイン傭兵団だろう…?」
薄暗い街灯にその横顔が浮かぶ。長く鋭い鼻、冷たい瞳。
「貴様らのせいで計画は失敗した。逃げるつもりだったが気が変わった。せめて一人でも殺さんと、私の気がすまんのでな――死ね、下郎!」
言い放つが早いか、パウルは剣を抜いた。
抜く音さえも、ベガには鋭く聴こえた。
咄嗟に体を低くし、後ろに飛ぶ。
パウルの長剣の切っ先が虚空を抉る。
二閃、三閃ッ!
ベガは刃を避け、剣で擦り合わせるように弾く。火花が飛ぶ。
刃と刃の接触音が耳に突き刺さる。
周囲の影が瞬間的に動く——路地裏の窓から、誰かの息遣いが聞こえた気がした。
「くっ」ベガは前に踏み込み、脇腹を斬りつけられぬよう体を捻じる。
パウルの腕力は強く、押しの強さがある。
だがベガは諜報屋だ。正面からの勝負は避け、隙を作る。
足下の砂を蹴り、油壺の蓋を弾く。小さな爆ぜ音。
油の匂いが鼻を刺し、パウルは一瞬目を細める。
その隙に、ベガは低く踏み込み、剣をパウルの顔面目掛けて振る——上体だけで躱すパウル…牽制…!
ブーツに備え付けられいるナイフで相手の太腿に突き立てた。
肉を穿つ鈍い音。パウルが呻いて一歩後退する。
真っ赤な血が外套の縁を濡らす。
だが彼は倒れない。むしろ、その顔に残忍な笑みが浮かんだ。
「愚かだな」パウルが呟く。
二歩三歩で距離を詰める。長剣が再び振り下ろされる。
凡庸な兵ならば一撃で終わるはずのところを、剣を打ち付ける。
刃が彼の外套を裂き、剣が折れ、腹を浅く割る。
痛みが走るが…動ける…!
「ここで死ぬ気はねえ」ベガは短く笑い、身体を転がすように後退。
パウルの長剣は重く、振り終わりを狙って、ベガは石礫を投げつける。
腕でガードするパウル。
ベガは一瞬で決断する。
短剣を抜き、再び突進。パウルの懐へ入るように、首筋を狙って斜めに切り込む。
刃先が衣を裂いて肌を浅く掠め、血しぶきが小さな星を描いた。
パウルの顔色が変わる。
「ふん、下郎のくせに中々やるじゃないかッ!」
パウルの口元に嗜虐の笑みが浮かぶ。
次の瞬間、鋼の閃光がベガの視界を裂いた。
本能だった。
ベガは右手のナイフを横に滑らせ、咄嗟にガードを取る。火花が散り、耳の奥に鈍い金属音が刺さる。
衝撃が腕から肩へ抜け、肺がひゅっと押し潰されるような感覚。
だがベガはその勢いを利用し、自ら後方へ飛び退いた。
ドンッ——背中が地面を滑る。石畳の摩擦が外套を削り、砂埃が舞う。
「ぐっ……!」
息が詰まる。ナイフを持つ腕が痺れ、肩が外れそうなほど痛む。
だがそれでも生きている。いや、“生き延びた”というべきか。
ナイフでガードしていなかったら?
自ら後ろに飛ばなかったら?
答えは簡単だ。胸からわき腹に走る浅い線が、その全てを語っている。
薄い布を焦がし、皮膚を裂いた一閃。
血が温かく流れ出し、外気に触れてぴたりと冷える。
ベガはそれを感じながら、息を整える間もなく身を起こした。
(…ヤベぇな…こいつは俺より上だ!)
直感が叫ぶ。あの剣筋は、訓練された兵のそれじゃない。
殺しの経験を積み重ね、無駄を削ぎ落とした刃の動き。
(…にしても太腿にナイフを突き立ててやったってのに…何故ここまで動ける?)
目の前の男は、確かに右脚を負傷しているはずだ。だが動きは鈍らない。
むしろ痛みを推進力に変えるような執念。ベガはぞくりと背筋を冷やした。
(…そんなことより今の状況をどう切り抜けるかだな…!)
呼吸を整え、視界の隅々を走査する。路地は狭く、左右の壁は高い。
逃げ道は一つしかない——だがそこは、パウルが進路を塞ぐように立っていた。
赤い外套が風にたなびき、剣の切っ先がわずかに揺れる。
ベガは無意識にポケットを探る。
(ナイフ一本、ポケットに鉄くぎ、小石、それに短いロープ……)
ありあわせの道具。それでも、使いようによっては命を繋ぐ武器になる。
(即席の分銅鎖みたいなもんでどうにか……)
彼の指先がロープと鉄くぎと小石を結びながら、頭の中では逃走経路を模索していた。
目で相手を牽制しながら、ベガは呼吸を合わせる。
パウルが一歩、ゆっくりと近づく。
「逃げるか? それとも諦めて死ぬか?」
声は静かだが、底に狂気の熱を帯びている。
ベガは返事をせず、砂利をつま先で蹴り上げる。
目くらましにもならない程度の動き——だがそれで十分だ。
ほんの半瞬、パウルの視線が揺れた。
その隙に、ベガは即席の分銅鎖を投げ放つ。ガシャン!と壁を叩く。
空気が震える音。パウルは軽く身体を傾け、難なく避ける。
(クソッ、やっぱり速ぇ!)
狙いは外れた。だが、それも計算のうちだ。
ロープを引き戻しながら、ベガは距離を取る。
(逃げ回るしかねぇ……懐に入るのは危険すぎる)
汗が頬を伝う。痛みで視界が霞む。だが集中を切らさない。
一歩間違えれば死。
その時——
「よう、ベガ。絶体絶命か?」
軽く笑うような声が、奥から聞こえた。
ベガの瞳が見開かれる。
声の主は、路地の影から現れた男——ギュンターだった。
片手で剣をくるりと回し、口の端に不敵な笑みを浮かべている。
「……おいおい、ギュンターか。なんでここに……!」
「見に来ただけだよ。お前がどれだけ追い詰められてるか、な」
パウルがわずかに眉をひそめる。
その隙を、ギュンターは逃さない。剣を構え、足を一歩滑らせた。砂塵が舞う。
「続きは三人でやるか?」
ベガは息を荒げながら、わずかに笑った。
「助け舟ってわけか?」
「まあな。お前らは金回りはいいし、太っ腹だからな!」
空気が一変した。
三人の間に張り詰めた沈黙。夜の街が息を潜め、風さえ止まった。
ベガは短く息を吐いた。
(…こいつが来たなら、まだやれる…!)
ギュンターがにやりと笑う。
「さて、帝国の犬野郎。——二対一で、どうだ?」
空が次第に明るくなる。三つの影が交錯する。
戦いの第二幕が始まった。
三人の影が交錯するたび、金属の打ち鳴らす音が空気を震わせる。
「……はあっ、くそ……!」
ベガが息を切らしながらナイフを振るう。
ギュンターの剣がその隙を補うように滑り込み、パウルの剣を弾く。
一閃、二閃、三閃——まるで舞のような攻防が続く。
パウルの剣筋は理詰めでありながら、どこか狂気を孕んでいた。
踏み込みは一歩ごとに鋭く、間合いを詰めるたびに殺気が増す。
二人がかりでようやく釣り合う。だが
(……いや、違う。釣り合ってるように見せかけられてる!)
ベガは肌で感じていた。パウルはまだ“余裕”を残している。
「くっ……はぁ……!」
ギュンターの額から汗が滴る。
剣を振るうたび、筋肉が悲鳴を上げる。
(な、何でこいつは……これほど、はぁッ……動き回れる……?)
ギュンターが荒い息の合間に呟く。
パウルは右脚に傷を負っているはずだった。
それでも、重心はぶれず、まるで痛みを無視しているようだった。
「集中力を切らすな!」
ベガが叱咤する。
その瞬間だった。
パウルの目が細くなる。
「——遅い」
風を切る音が走る。
ギュンターの身体が宙を舞った。
咄嗟に剣で防いだが、その直後、腹部に重い衝撃。
「ぐはッ!!」
息が抜け、空気を掴もうとする手が宙を切る。
背中から石壁に叩きつけられた。鈍い音。空気が止まる。
壁に弾かれたギュンターの身体が崩れ落ちる。
意識が揺らぎ、視界が滲む。
(……重い……何だこの一撃……!)
腹に熱い痛み。呼吸ができない。
耳の奥で自分の鼓動が爆音のように鳴っている。
パウルは迷いなく距離を詰め、剣を持ち替える。
その目は氷のように冷たい。
「二匹目は容易い」
剣の切っ先がギュンターの喉元に伸びる。
だが、そこで火花が散った。
キィン!という高音と共に、ベガの即席の分銅鎖が剣を弾いたのだ。
「させるかよッ!」
ベガが叫び、血まみれの腕で体当たりする。
パウルがわずかに体勢を崩す。
ギュンターを庇うように立つベガ。その眼光は獣そのものだった。
「……なあに、遊んでんだよ」
静かな声が後方から響いた。
振り向けば、そこにフレッドが立っていた。
いつの間にか、煙草を指で弾き、口元には薄い笑み。
「そいつがパウルなんちゃらか?」
ベガは荒い呼吸を整えながら頷く。
「そうだ……後は任せた……殺すなよ……」
その言葉に、安堵と限界が混じっていた。
力尽きるように壁にもたれ、座り込む。
「あいよ」
フレッドは短く答えた。気楽な声だった。
だが、その瞬間、空気が変わる。
視界の中から、フレッドの姿が“消えた”。
次の瞬間——
パウルの両腕が、肩口から「ぼとり」と落ちた。
何が起きたのか、誰も理解できなかった。
剣を振るう暇すらなかった。
パウルは両腕を失ったというのに、呻き声も上げない。
その代わり——笑った。
「なるほど……なるほど! 噂にたがわぬ……いや、それ以上だ!」
目を見開き、嗤う。
その笑みには狂気と快楽が入り混じっていた。
「くはははは……っ!」
彼は自らの両腕を見下ろし、血が噴き出す中、静かに足を動かす。
落ちた腕を器用に足で転がし、拾い上げると、まるで人形のように“垂直に立たせた”。
そして、自らの喉元に剣先を導くように、ゆっくりと倒れ込んだ。
ズシュッ。
鈍く湿った音が響く。
パウル・ベニヒゼンの身体が、夜明けの光が照らす中に崩れ落ちた。
笑みを浮かべたまま、血の海の中で動かなくなる。
フレッドは無言でその光景を見下ろしていた。
煙草の火が、かすかに揺れる。
「……気に入らねぇ終わり方だな」
ギュンターが壁際で咳き込みながら呟く。
「おい……お前、人間か……?」
フレッドは肩をすくめて答えた。
「ただの傭兵さ」
ベガが薄く笑う。
「……ただの、な……は、はは……」
風が吹き抜け、血の匂いと共に静寂が戻る。
三人の影だけが、朝陽の中で長く伸びていた。




