虫食い状態?!
王の執務室は、突如として襲撃の余波に包まれていた。
倒れた近衛兵の呻き声、床に散った鮮血、騒然と走り回る侍従と近衛たち。
だが、その混乱の中心で、ただ二人だけが沈着な視線を保っていた。
クリフとケイト――王妃の目の届くところに控えていたシャイン傭兵団の二人である。
王のすぐそばに立つケイトは、倒れた近衛を一瞥した。
「……帝国の手の者、でしょうね。この城の中だけじゃない、市井にも紛れ込んでるはずよ」
クリフは剣を鞘に収め、冷えた視線で室内を見回した。
「だろうな。これから動くにしても気取られないことだ……普段通りに振る舞うべきだが――いや、もう遅いかもしれん。ケレンズ伯爵が動いた時点で、奴らも何かしら察しているだろう」
彼の言葉に、ケレンズ伯爵は苦い表情で頷いた。
宰相ヨアヒムは顔色を青ざめさせ、王の無事を確かめながら、倒れた襲撃者を見下ろした。
「まさか……これほど身近に帝国の者が潜んでおったとは……。王のすぐ傍にまで……」
「嘆いている暇はありませんわ、宰相閣下」
毅然とした声が室内を貫いた。
王妃である。白金の髪を揺らし、彼女は毅然と立ち上がると
「レームス、エーリッヒを――第一王子をこちらへお連れなさい。信頼できる護衛だけを連れて」
「ハッ!」
レームスはすぐさま退出し、数人の近衛兵がそれに従った。
王妃は振り返り、ケレンズ伯爵と宰相、そしてクリフに視線を向ける。
「クリフ――私たちはこの後どう動くべきか。案を出しなさい」
クリフは短く頷き、冷静に言葉を紡ぐ。
「ブライヒレーダー伯の家族は、人質に取られている前提で動くべきです。おそらく脅迫の形で利用されている。」
宰相は眉をひそめ、「人質に……その可能性は非常に高くなったな」と低く呟いた。
「そして我らが核心に迫ったからこそ、この男が動いた――」
彼は取り押さえられ、うずくまる近衛兵の男を睨みつけた。
男の頬を冷や汗が伝う。
腕を失い、血の気の失せた顔には、恐怖とも憎悪ともつかぬ色が浮かんでいた。
ケレンズ伯爵が一歩進み出た。
「……宰相閣下、王家特別監察官が使えない現状、ここは、外部の力を借りるべきでしょう。私は――シャイン傭兵団に依頼を出すことを具申いたします」
室内の空気が変わった。
宰相と王妃が互いに視線を交わし、王もまた、深く息を吸う。
「……シャイン傭兵団、か。」と宰相。
ケレンズ伯爵は即答した。
「はい。彼らは忠誠ではなく信義で動く者たち。買収も脅しも通じぬでしょう…正義ではなく信頼に応える集団ですから…今動かねばなりません。宰相閣下、私の名でシャイン傭兵団に至急の依頼を。――“王国存亡の危機”として」
宰相は深く息を吐き、王の許可を仰ぐように視線を向けた。
王は苦しげに顔を上げ、言葉を絞り出す。
「……認めよう。ケレンズ伯爵、君に一任する」
「御意」
王妃は倒れた襲撃者を見下ろし、静かに言った。
「……アンヘル王国は決して屈しません。どんな影が忍び寄ろうとも、光を掲げ続けるでしょう」
血の匂いがまだ残る執務室で、冷たい風がカーテンを揺らした。
切り飛ばされた腕の痕跡を侍従たちが慌ただしく片付けている中、ケレンズ伯爵は静かに立ち上がり、深く息を整えた。
「――シャイン傭兵団に依頼します。報酬は私ができることなら、望みのままに」
その声には一切の逡巡がなかった。
宰相と王妃が互いに目を合わせる。
王妃は軽く頷き、毅然とした声で言った。
「私も口添えいたします。」
宰相ヨアヒムも、少しの間考え込み、それから苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「ふむ……私も乗ろう。信義を重んじる者たちだと聞く。金や爵位で動かぬ分、信を預ける価値がある」
その言葉を聞くと、クリフが一歩前に出た。
彼の瞳には迷いがない。
「……受けよう。細かい条件を詰めている暇はない。ケレンズ伯、陛下、王妃様、宰相閣下――今夜はここから動かないでください」
その声は短く、しかし鋭く響いた。
クリフは振り返らずに言葉を続ける。
「ケイトはここに残れ。俺はブライヒレーダー伯の家族を探し出し、救出する」
ケイトがすぐさま頷く。
「了解。こっちは任せて!」
王妃が息を呑み、宰相は目を細めて言った。
「……軍部が中立を保ってくれれば、どうにかなるだろう」
その言葉にケレンズ伯爵が応じる。
「宰相閣下、カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵、オーギュスト・ド・スタール男爵、パウル・ベニヒゼン――この三名は?」
宰相は首を横に振った。
「後回しだな。いま彼らの動向を探れば、敵を刺激する。網を狭めてから一気に捕らえる……その時までは、泳がせた方がよかろう」
「承知しました」
ケレンズ伯爵は一礼し、再び王妃の方へと視線を戻す。
「王妃様、ひとつお伺いしてもよろしいですか」
「なにかしら?」
「――マキシミリアン・フォン・アンヘル王子殿下とお会いしたのは、いつ以来でしょうか?」
王妃はわずかに表情を曇らせた。
その問いは、彼女の胸の奥に沈んでいた痛みをそっと撫でるものだった。
「……もう、二年も会っていないわ」
声は静かでありながら、その奥にかすかな寂しさと決意が滲んでいた。
王もまた、ゆっくりと目を伏せて言った。
「私もだよ…」
重く沈黙が落ちる。
誰もが、アンヘル王家の中に走る微妙な亀裂を感じ取っていた。
その時――扉の外から、近衛師団長レームス・ド・フックス男爵の力強い声が響いた。
「陛下! 皇太子殿下をお連れいたしました!」
室内に緊張が走る。
王は静かに顔を上げ、低く、しかし確かな声で命じた。
「……入れ」
重厚な扉がゆっくりと開く。
そこから現れたのは、整った軍服に身を包み、まだ若いが凛々しい顔立ちの青年――
第一王子、エーリッヒ・フォン・アンヘルであった。
「父上、お呼びと……――これは?!」
彼の視線が床に落ちた血の跡、取り押さえられた近衛兵、そして室内の緊張に釘付けになる。
「母上まで……一体、何が……」
ケレンズ伯爵は軽く頭を下げ、静かに答えた。
「殿下、説明は後ほど。今はどうか、お静かに」
エーリッヒの眉が寄る。
その横で王妃は、ゆっくりと歩み寄り、彼の手を取った。
「エーリッヒ……よく来てくれました。今夜、あなたの目で真実を見て、そして――決めなさい。何を、誰を、信じるべきかを」
母の言葉に、王子は息を呑む。
その背後では、宰相とケレンズ伯爵がひそやかに視線を交わしていた。
――嵐は、もう始まっている。
そしてその嵐の中心に、若き王子が足を踏み入れた瞬間であった。
――次の戦いが、もう始まっている。
スラムの中心地に建つ、チューファ一家の大邸宅。
今夜、食堂はまるで祭りの夜のようだった。
避難民たちが笑い、子供たちが走り回り、温かな食事が並ぶ。
皿の上では豆のスープが湯気を立て、焼いたパンの香りが広がる。
笑い声の中で、ザックが豪快に笑いながらジョッキを掲げた。
「おいオイ! 飲め飲め! 明日は明日の風が吹くってやつだ!」
隣でフレッドが肉片を口に放り込みながら、子どもたちに大袈裟な身振りで剣の構えを教えている。
オスカーの両親――オイゲンとカタリーナも笑顔でそれを見守り、リズの家族、ベンたちも穏やかに酒を酌み交わしていた。
どこか懐かしい、平穏な夜だった。
戦も、陰謀も、ここには届かない――そんな錯覚すら覚えるほどに。
だが、その静けさを破るように、食堂の扉がゆっくりと開いた。
振り返ると、入口に立っていたのはクリフだった。
彼は柔らかな笑みを浮かべていたが、その瞳にはいつもの快活さとは違う、静かな光が宿っていた。
「おう、やってるな。シャイン傭兵団として依頼を受けた。――大広間に集まってくれ。」
その一言に、食堂の喧騒がわずかに揺らいだ。
笑い声が、少しずつ、細くなっていく。
真っ先に反応したのはザックだった。
ジョッキを軽く置き、わざと陽気な声で言った。
「おうおう! また面白ぇ話でもあるんだろ? よし、行くか!」
その軽口には、場の空気を重くしすぎぬようにという配慮が滲んでいる。
「チューファ一家とファイブ、クイレイ、君たちも来てくれ」
ユキヒョウが穏やかに告げた。
その口調は静かだが、どこか命令にも似た響きを持つ。
「お前らは騒いでていいからな!」
フレッドが笑いながら振り向き、子供たちの頭を軽く叩いた。
「食堂で寝るんじゃねえぞ! 部屋にちゃんと戻れよ!」
「わはははは!」と笑いながら、手をひらひらと振るフレッド。
「よっこらせッ」と腰を上げるベガも、目は既に鋭く光っていた。
――一瞬で、空気が変わった。
食堂を出て廊下を進むザックたちの足音が、やけに重く響く。
彼らが向かうのは大邸宅の大広間。
普段は一家の会議や取引に使われる場所だ。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、そこには緊張が満ちている。
チューファ一家の――チュチュ、キース、マルタ、カイル。
他の面々は今夜、賭場の運営に出ており、この場にいるのは彼らたちだけだった。
今夜は地下闘技場の開催はしていない。
クリフが中央に立ち、腰の剣を軽く鳴らした。
その音が、静まり返った大広間に小さく響く。
彼の顔にはもう笑みはない。
隣に立つザック、フレッド、ユキヒョウ、ベガ――
その誰もが、先ほどの陽気な姿を脱ぎ捨て、鋼のような眼光を放っていた。
「……依頼の内容は――機密だ。けど一言で言えば、“国が動いた”。」
クリフの言葉に、室内の空気がぴたりと止まる。
避難民やスラムの人々にとって、“国”という言葉は遠い。
だが、シャイン傭兵団がその言葉を口にした瞬間、誰もがただ事ではないことを悟った。
さっきまで笑いと食事で温まっていた屋敷の空気が
ひと夜にして、戦場の前夜のように張り詰めていった。
「ブライヒレーダー伯の家族が人質に取られている可能性がある。帝国の手筋、あるいはそこの手先で間違いないかもしれんが、確証はまだない。だからまず二つをやる。ひとつ、伯爵家の家族の所在の確定。ふたつ、ここ数日、伯爵邸で何か異変がなかったか、出入りや配送の異常がなかったかの洗い出しだ。」
「情報屋、組織を動かそう。チュチュ、君たちの“組織”って、合計どれくらいの数になるんだい?」
とユキヒョウが問い、チュチュは胸を張って答えた。
「ハッ! 二十五の家でございます。」
フレッドが腕を組み、顔を曇らせる。
「大々的に動くとヤバくねえか? 敵に感づかれたら人質の身が危ねえだろ」
「それは賭けだ」とクリフ。言葉は冷たい。
だがその重さには計算がある。
「人質が殺されれば伯も黙っていねえだろう。生かしておけば交渉のカードになる。」
ベガが低く付け加える。
「人質は生きてこそ価値がある。“生かす”理由が向こうにあるうちは、逆手に取る余地もある。情報を精確に、刻んで集めろ。でなきゃ間違いなく命が走る」
ザックが首をかしげる。
「で、ブライヒレーダーって奴は何なんだ?」
「アンヘル王国の将軍だ。軍部を掌握している、要の人物だ」とクリフが応える。
ザックの顔に合点がいった表情が出る。
「ああ、そういうことか! そりゃ話がでけえわ!」
クリフは顎に手を当て、指示を細かく降ろす。
「チュチュ、ファイブ、クイレイ、すぐ通達を出せ。怪しい噂でも何でもいい、拾ってこい。ブライヒレーダー邸周辺の警備変化、護衛の差し替え、夜間の来訪者――全部だ。良い情報には即金で百金貨だ。だが偽情報は厳罰。」
チュチュの目が輝き、すぐに大声で応じる。
「ハッ! 了解しました! 今から走らせます!」
最後にクリフは低く付け加えた。
「注意だ。大々的な軍事行動は今は禁物だ。城や軍を刺激するな。人質がいる前提で動け。裏取り三重。情報には命が懸かっている。報酬は俺が保証するが、偽報は許さん」
大広間に一瞬の静寂が訪れた。誰もが覚悟を決め、各々の任務へと向かう。
外ではスラムの夜が深まり、路地の影で小さな動きが起きる。
だがここに集った者たちは知っている――今夜から始まるのは、単なる争いではない。
人の命と国家の命運を賭けた、本当の綱引きだということを。




