帝国の影
地下書庫。その一角を改装した地下部屋に執事が来る。
一歩前に出て、深く頭を下げた。
「――今すぐにお会いになさるとのことです。どうぞ、こちらへ」
案内されるまま、クリフ、ケイト、マンフレート、ユリウスの四人は応接間へと足を踏み入れた。
そこには、エルフリーデ・デ・ケレンズ伯爵が待っていた。
彼女は品のある紫のドレスを纏い、薄く結い上げた金髪が蝋燭の光を柔らかく反射していた。
その背後には二人の護衛、そして侍女と執事が控えている。
室内は香木のほのかな香りに満ち、窓辺の重厚なカーテンが風に揺れてわずかに光を透かしていた。
「……貴方たちが、シャイン傭兵団ね」
その声は、静かでありながら芯の強さを帯びていた。
クリフとケイトが姿勢を正す。
マンフレートとユリウスも控えめに頭を下げる。
だが次の瞬間、予想外の行動が起こった。
「――お礼を言うわ。エリジェの命を救ってくれて、本当にありがとう」
ケレンズ伯爵が深く頭を下げたのだ。
その光景に、室内の空気が凍りついた。
高貴なる伯爵が、一介の傭兵たちに頭を垂れる――それは、この王都の常識からすればあり得ないことだった。
だが、マンフレートとユリウスだけは静かに見守っていた。
彼らは知っている。
ブランゲル侯爵家とシャイン傭兵団の関係が――もはや家族に近い絆がそこにあることを。
やがて、ケレンズ伯爵が顔を上げた。
「静まりなさい」
その声は侍女たちに向けられたものだった。
ざわめきかけた空気を、たった一言で鎮める。
そして、ゆっくりとクリフを見つめて言った。
「――伯爵として頭を下げたのではありません。一人の母親として……エリジェの母として、お礼を申し上げたまでです」
その瞳には、冷静さの奥に確かな温かさと誇りがあった。
クリフは少し肩の力を抜き、頷く。
「……シマに、団長には必ず伝える。あー……敬語が苦手でな、この話し方でいいかな?」
ケレンズ伯爵は一瞬きょとんとし、やがて小さく笑った。
「ふふっ、いいのよ。その方が貴方たちらしいわ。――婿殿の手紙にも、あなたたちのことがよく書かれていたの。早く会ってみたかったのよ」
「婿殿」という言葉に、ケイトが軽く首を傾げる。
「ブランゲル様のことですね?」
「ええ。イーサンは昔から真面目で、時々頑固なところもあるけれど……貴方たちのような人たちと交流を持てたのは正解だったと思うわ」
ケレンズ伯爵の言葉は柔らかくも、どこか誇らしげだった。
クリフが微かに笑みを返す。
「そう言ってもらえると光栄だな。俺たちもブランゲルには助けられてる」
「それはお互い様でしょう。イーサンもエリジェもエリカも、どんなにあなた方を信頼しているか、手紙を読めばすぐにわかります。……特にエリカはは無鉄砲なところがありますからね」
伯爵の言葉に、ケイトが小さく微笑んだ。
「ええ、とても。けれど、それが彼女の強さでもあります」
ケレンズ伯爵は満足げに頷き、執事に合図を送る。
温かな茶が再び注がれ、室内には落ち着いた香りが漂う。
「さて――本題に入りましょうか」
伯爵の声が穏やかに戻る。
「貴方たちがここに来たのは、ただの挨拶ではないでしょう?」
クリフが背もたれに軽く体を預けた。
先ほどまでの柔らかな笑みは消え、鋭い眼光が戻っていた。
「ええ。今の王都の動きについて、俺たちも確認しておきたいことがある」
低く落ち着いた声が、部屋の空気を引き締める。
ケレンズ伯爵――エルフリーデは、そっとティーカップを受け皿に戻した。
白磁が小さく触れ合い、微かな音が響く。
彼女の表情は穏やかだが、瞳の奥には濃い陰が宿っていた。
王妃、宰相、そして動き始めた諸侯たち。
いま王都を覆うのは、見えない火薬の匂い――。
誰もが息を潜めているが、火種はすでに撒かれている。
それを伯爵も、痛いほど理解していた。
ケイトが、真剣な面持ちで口を開く。
「単刀直入に申しあげます……どこまでが“想定内”で、どこまでが“想定外”だったんでしょうか?」
彼女の言葉に、エルフリーデは目を細めた。
まるで暗闇の中に浮かぶ地図を思い描くように、静かに息を整える。
「……そうね。整理してお話ししましょう」
室内が静まり返る。
侍女も護衛も動きを止め、ただ伯爵の言葉を待つ。
「まず、想定“内”のことから話すわ。日和見の貴族たちが第二王子側につくこと。法衣貴族たちが動くこと。第二騎士団、第三騎士団が同調すること――すべて予想の範囲内でした」
その声は落ち着いていたが、ひとつひとつの言葉には重みがあった。
「ついたところで、有利な状況は変わらない。どれほど人員を抱えようとも、組織の根が浅い以上、戦略的価値は限定的……そう考えていました。だからこそ、こちらは焦らなかった」
ケイトが頷く。
「つまり、第二王子派が人を集めても――脅威とは見なしていなかった、と」
「ええ」
エルフリーデは小さく頷き、そして言葉を続けた。
「……けれど、想定外があったの」
その瞬間、彼女の指先がわずかに揺れた。
ティーカップを支える仕草に、隠しきれぬ緊張が走る。
「まず――アンヘル王国の将軍、ゲルゾーン・デ・ブライヒレーダー伯爵。彼が第二王子を“推す”と明言したこと。これが誤算の一つ目です」
マンフレートが息を呑む。
「ブライヒレーダー伯爵様が……?」
「そう。表向きは中立を保っていたはずのアンヘル王国軍部が、ここにきて露骨な態度を示した。彼が一枚噛んだというだけで、情勢は一気に傾いたわ。戦場の経験、戦略眼、そして人脈。彼は、ただの貴族将軍ではない。イーサンと並ぶアンヘル王国の“戦”の象徴よ」
クリフが腕を組み、低く唸る。
「……なるほど。ブランゲルも一目置く相手か。そいつが動けば、戦局が二転三転するのも納得だ」
「次に――外務政務官、オーギュスト・ド・スタール男爵。彼の寝返り。これが第二の誤算」
ケイトの眉がわずかに動く。
「彼は表面上は穏やかで、信仰深く、几帳面な官僚に見える。けれど実際は、己の利と名誉のためなら国をも売る男だったわ。」
「……それは痛いな」
クリフが低く呟く。
エルフリーデは頷いた。
「ええ、痛手です。そして、この二つの想定外が重なった結果――第一王子派は、今や圧倒的に不利な状況にあります」
彼女の声に滲む苦味。
その一語一語が、現実の重さを突きつけていた。
「軍部が第二王子派についたこと。これが決定的だったわ。王の軍が、もはや“王”を守るためのものではなくなっている。彼らは、次の王を選ぶための力へと姿を変えたの」
ケイトが息を詰めた。
「軍部がついたことで……強行策に移した、ということですね?」
「ええ、その通りよ」
エルフリーデの声が、冷たく沈んだ。
「北の倉庫地帯から物資を“押収”した――。第二王子派の強硬策の始まりよ。名目は“戦時物資の確保”。
けれど実際は、反対派貴族の流通網を断ち、民衆の不満を煽るためのもの。狡猾で、残酷で、そして速い」
マンフレートが苦い顔をする。
「……民を犠牲にして、敵を弱らせると」
「そう。軍部の動員が始まれば、物資の流れは完全に第二王子派の掌の中。この王都の市場すら、すでにその影響を受けているわ」
ケイトがカップを見つめながら、静かに言った。
「物価の上昇……」
「不満を募らせた民は、やがてどちらかの旗を選ばざるを得なくなる。それこそが、第二王子の狙いよ」
エルフリーデは長く息を吐き、紅茶に口をつけた。
その瞳は遠くを見るように、わずかに細められていた。
「……静かに見えて、もう戦は始まっているのよ。剣より先に、金と情報が火をつけたの」
「……あの~、ブランゲル侯爵様とブライヒレーダー伯爵様は戦友であり、仲がよろしかったと聞いていますが……?」
控えめながらも真剣な眼差しで問うユリウスの声が、重く張り詰めた空気をわずかに震わせた。
ケレンズ伯爵――エルフリーデは、膝の上で組んでいた両手をゆっくりと持ち上げ、指先を軽く合わせる。
「その通りよ」
声は穏やかだが、わずかに哀しみを帯びていた。
「この邸宅にも何度か遊びにいらしたことがあるわ。イーサンとエリジェの結婚のときも、まるで我がことのように喜んでくださった。公明正大で、潔癖なほど誇り高い人物であり……兵からの信頼も厚く、あの方のもとで戦いたいという者は多かったのよ」
エルフリーデの言葉には懐かしさがにじむ。
だが、その声の余韻が消えるころには、部屋には再び重苦しい沈黙が戻ってきた。
「……中立を保っていた男が、急に第二王子派につく……?」
クリフが眉を寄せ、深く椅子の背もたれに沈み込みながら低くつぶやく。
その声音には、単なる疑問ではなく、直感的な警戒が滲んでいた。
マンフレートが隣で静かに頷き、言葉を継ぐ。
「国王陛下を……アンヘル王国までも裏切るということになりますね…」
冷静な分析だったが、その瞳の奥には焦燥の色が隠せない。
「……それがわからないブライヒレーダー伯じゃないでしょう?」
ケイトが腕を組み、長い睫毛の奥から鋭い視線を放つ。
「戦略にも通じた人だと聞いてるわ。国内の混乱が国外に隙を作るなんて、誰よりも理解しているはず」
その言葉にエルフリーデも頷き、少し唇を噛む。
クリフが机の縁に指をトントンと打ちつけながら低く呟いた。
「……内戦になれば国力は落ちる。国外から干渉されるのは目に見えてる。それがわからねえ連中じゃねえはずだ」
その声音には、戦場を知る者の現実感があった。
エルフリーデは深く息を吸い、視線を鋭くした。
「……今から言うことは機密事項よ。ここにいる者以外には決して漏らさないで」
そう言って護衛の方に目をやり、静かに頷かせる。
部屋の扉が音もなく閉じられた。外の廊下の気配すら、今は遠い。
「確証はないのだけれど……帝国の者が、この王都に潜り込んでいると思っているわ。あるいは……彼らの手先になっている者がね」
その一言で、室内の空気がさらに冷えた。
ケイトが一瞬息を呑み、クリフが背もたれから身を起こす。
ユリウスとマンフレートは視線を交わし、表情を硬くした。
「名前を挙げるわ。外務政務官、オーギュスト・ド・スタール男爵。そして……王家特別監察官長官、カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵」
エルフリーデの声は低く、しかし刃のように鋭かった。
「私の中では――黒だと確信しているわ」
その瞬間、蝋燭の炎がひときわ強く揺れた。
まるでその名を告げること自体が、王都の静寂に亀裂を入れたかのように。
ケイトが唇を結び、静かに呟く。
「……帝国の影、ですか……」
クリフは腕を組み、目を細めながら低く言う。
「……厄介だな」
エルフリーデは深く頷き、苦々しく言葉を重ねた。
「ええ。彼らの狙いはおそらく――“王国の分断”よ。そして、その渦の中心に第二王子を据えようとしている」
静まり返る部屋、沈黙を破ったのはケイトだった。
金糸のような髪を揺らし、深く思案の表情を浮かべながら、彼女は静かに口を開く。
「……第二王子の側近に、パウル・ベニヒゼン。彼も帝国の人じゃない?」
その名が出た瞬間、場の空気がわずかにざわめいた。
マンフレートは眉をひそめ、ユリウスは顔を上げる。
クリフは腕を組み、ゆっくりと視線をエルフリーデへ向けた。
「ケレンズ伯爵は……その男に会ったことがあるのか?」
低く落ち着いた声。戦場で幾度も生死を分けてきた男の、敵を探るような響きだった。
エルフリーデは一度小さく息を吐き、首を振った。
「ないわね。……マキシミリアン・フォン・アンヘル王子殿下とも、もう何年もお会いしていないの。側近たちの名と出身貴族家の記録くらいは覚えているけれど、顔までは分からないわ」
その声音には、かつて宮廷に出入りしていた頃の記憶と、長年王都の動きを静観してきた者の慎重さがにじむ。
「俺たちが調べた限りじゃ……」
クリフが椅子に深く腰を下ろし、掌を組みながら言葉を続けた。
「パウル・ベニヒゼンはアンヘル王国の出身じゃねえみたいだ。どうも王家特別監察官長官――カーロッタ・デ・マッケンゼン伯爵の推薦で、いきなり第二王子の側近に抜擢されたらしい」
ケイトがすぐに補足するように言葉を重ねる。
「七年前の話だって報告があります」
その言葉に、エルフリーデの指がピクリと止まった。
「……七年前?」
彼女は息を呑み、ゆっくりと顔を上げる。
「……前国王陛下が崩御なされた年……!」
室内に静寂が落ちた。
その一言が、全員の胸に重く響いた。
七年前――王国全土が喪に服し、政変の嵐が吹き荒れた混乱の年。
多くの派閥が姿を現し、宮廷の中でも闇が蠢いていた時代。
「……混乱に紛れて……!」
エルフリーデの声には怒りと悔恨が混じっていた。
「やられたわね……彼らはあの時から、ずっと機を伺っていたのね……!」
ケイトは拳を握りしめ、視線を落とす。
「七年前に潜り込んでいたとすれば、今や王都の中枢に根を張っている可能性も……」
「外務政務官のオーギュスト・ド・スタール男爵も、その線で動いていたのかもしれねぇな」
クリフが低く唸るように言った。
「エリカから聞いた話じゃ、“信頼できる人物”だったんだろ?ブランゲル侯爵家とも良好な関係を築いてた……だが、寝返ったってんなら話は別だ。奴は帝国、そして第二王子派に情報を流していた可能性が高い」
エルフリーデの瞳が鋭く光る。
「……ブランゲル侯爵家の動向が筒抜けになっている……そう考えるのが自然ね」
マンフレートが険しい表情を浮かべ、声を落とす。
「……王妃様もご存知ないのでは? この件、王家の中でも共有はされていないはずです」
その瞬間、エルフリーデは椅子を勢いよく立ち上がった。
重厚なドレスの裾がふわりと揺れ、鈍い金の刺繍が光を反射する。
「今から王妃様に会いに行きます。――用意をしなさい!」
凛とした声が部屋に響いた。
執事と侍女たちが即座に動き出し、衣装と馬車の準備に走る。
護衛の兵が扉の外で号令をかけ、廊下を駆け抜ける足音が連続する。
クリフはその様子を見ながら立ち上がり、深く息を吐いた。
「行動が早ぇな、伯爵」
「悠長に構えている暇はないわ」
エルフリーデは冷たく言い放つ。
ケイトも立ち上がり、マントの留め具を整える。
「王妃様への報告……同行させていただけますか?」
「もちろんよ。あなた方がこの話を持ち込んだのですもの。証人として立ち会ってもらうわ」
エルフリーデの声には、揺るぎない決意がこもっていた。
彼女はただの伯爵ではない。
王都の政に深く関わり、王家と血縁にも近い立場にある人物。
その彼女が自ら動くということは、もはや事態が一線を越えたことを意味していた。
「……帝国の影がここまで伸びているのなら、今ここで立ち上がらなければ、この国は食い潰されるわ」
クリフとケイトは静かに頷き、彼女の後を追う。
扉の外には、すでに馬車の支度が整っていた。
黒塗りの車体にケレンズ家の紋章が輝き、御者台には屈強な兵が座っている。
空にはまだ灰色の雲が垂れこめていた。だがその下で、王都の空気は確実に変わりつつある。
権力、陰謀、忠誠、裏切り――。
それらすべてが入り混じる、嵐の前の静けさ。
エルフリーデは振り返り、短く言った。
「行くわよ、クリフ、ケイト。王妃様の前で――真実を明らかにするの」
馬車の扉が閉まり、重い音が響いた。
蹄の音が石畳を叩き、ケレンズ邸を後にする。
その音はまるで、迫りくる嵐の鼓動のようだった。




