次の情報は?!
チューファ一家大邸宅、大広間――
昼下がりの陽が斜めに差し込み、窓辺のレースを透かして金の埃が舞っていた。
その柔らかな光の中で、ユキヒョウは椅子に深く腰を掛け、静かに湯気を立てる紅茶のカップを置いた。
「……僕から話がある。」
低く通る声に、空気がぴんと張り詰める。
チューファ一家の面々、そしてクリフとザック。
「スラムと言えば、無法地帯……治外法権みたいなところがあるよね」
ユキヒョウは穏やかに言いながら、机の上の地図に手を伸ばした。
それは、王都の地図。
その南端にある、灰色で塗り潰された地域――それがスラム街だった。
「もしここを“綺麗な街”に変えたらどうなるかな?」
その一言に、チュチュが思わず眉を上げた。
言葉の意味を理解するまで、わずかに間があく。
「……綺麗な街、ですか?」
「そう。道を整備して、清潔な水を引いて、治安を安定させる。子供たちが腹を空かせずに眠れる。
――それが実現したら、どうなると思う?」
その問いに、チュチュはゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、ためらうことなく答える。
「……必ず、貴族たちが介入してきます。それに、王家も行政も黙ってはいないでしょう。」
ユキヒョウは静かに頷いた。
「だよね。」
キースが腕を組んで続ける。
「そればかりか……街がきれいになったころを見計らって、憲兵や軍を使って住人たちを“追い出す”でしょう。『危険地帯の浄化』だなんて、いくらでも名目を作れる。」
部屋の空気が重くなる。
チューファ一家のマルタが下唇を噛み、カイルが拳を握り締めた。
「……行き場のなくなった人たちは、どこに行くんだろうね?」
ユキヒョウの声は、少しだけ沈んでいた。
その目には、街角で震えていた子供たちや、泣きながらパンを分け合う家族の姿がよぎっていた。
沈黙の中で、クリフが低く唸るように言う。
「……復興するにしても、考えてやらなきゃいけねえってことか。」
「そう。」
ユキヒョウの目がゆっくりと上がる。
光を受けたその瞳は、冷たくも確かな決意に満ちていた。
「この地は危険だと――“外に見せる”ことが必要だと思う。」
「……“見せる”?」
ザックが首を傾げる。
「うん。外から見れば、この地は依然として荒れたスラム。だが中身は、整備された“もうひとつの街”。
“表向きの危険地帯”として維持するんだ。貴族や行政が興味を失うまでね。」
「なるほど……外からは腐った街、だが中は生きてる街ってわけか。」
ザックが感心したように言うと、ユキヒョウは軽く笑った。
「そういうこと。」
彼は再び地図を広げ、指で円を描くように示した。
「スラムの中心地は……この辺りでいいんだよね?」
チュチュが即座に答える。
「はい、その認識で間違っていません。中心には闘技場と賭場、それに倉庫群があります。」
ユキヒョウはうなずき、短く指示を出す。
「この円の外側――つまり“表層”に、あえて瓦礫や古い建物を残す。火災跡も修繕せず放置しておく。
内部の街区だけを静かに再建していく。そこを“新しいスラム”として運営するんだ。」
チュチュの目が丸くなった。
「……そんなことをすれば……外から見たら、ここはまだ地獄のままに見えます。」
「それでいい。」
ユキヒョウの声は冷静だった。
「“地獄”だと思われているうちは、誰も欲をかかない。利権の取り合いも、妙な横やりもない。」
「なるほどな……」
クリフが腕を組んで考え込みながら頷く。
「確かに今のうちに“手を出させない空気”を作るのは大事だ。」
ユキヒョウが頷く。
「だから――もう一度、一家の頭たちを集めようと思う。」
その言葉に、チュチュが即座に姿勢を正した。
「……いつになさいますか?」
「三日後だ。」
クリフがはっきりと告げる。
「ここに集まるように通達を出せ。議題は“スラムの秩序再編”。余計な揉め事を起こさせないための話し合いだ。」
「畏まりました!」
チュチュは勢いよく立ち上がり、胸に手を当てて深く頭を下げた。
彼の背中を見ながら、ザックが笑い混じりに言う。
「まるで軍議みてぇだな。」
「軍議だよ。」
ユキヒョウは立ち上がり、地図を巻きながら答えた。
「このスラムは、もうただの貧民街じゃない。僕たちが“王都の裏の秩序”を作る場所だ。」
その言葉に、誰も反論しなかった。
彼の背後に広がる陽光が、まるでその宣言を祝福するかのように眩しく差し込んでいた。
クリフ、ザック、チューファ一家の面々が去り、広い大広間に残ったユキヒョウは、誰もいない空間の静けさをゆっくりと味わった。
壁際にかけられた燭台の火がかすかに揺れ、外から差し込む昼の光が白い石床を鈍く照らしている。
遠くでは鍋を洗う音や、子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。
ユキヒョウは手元の地図を見つめながら、ふっと口元を緩める。
「……さて、次は誰がどんな情報を持ってくるのかな」
独り言のようなその声は、広間の石壁に反響して消えた。
王都の北門――。
灰色の雲が垂れ込め、日差しが重く街を覆っていた。
北門の前には荷車の列、旅商人、傭兵、兵士たちの往来でざわめいている。
だが、遠目にそれを見ていた二人の男――ベガとエグモントの表情は、どこか張り詰めていた。
「……変だな。門番の数が増えてる」
エグモントが呟いた。
ベガは無言で頷き、薄茶の外套の襟を上げながら視線を細める。
彼の灰青色の瞳が鋭く光り、遠くの門楼上に立つ兵士たちの動きをじっと観察していた。
その時――重い鉄の軋む音が街全体に響く。
ギギィィィ……ッ。
王都北門の出口側の鉄扉が、ゆっくりと、だが確実に閉じていく。
「……何かあったようだな」
「だが、入り口の方は閉める気がねえみたいだぜ——何か動きがあるぞ」
ベガは静かに口を閉じた。
彼の視線の先では、数十名の兵士たちが次々と指示を受けて動いている。
その中心に立つ、一人の男。
深紅の外套、腰に佩いた長剣、落ち着いた動作――その周囲の空気が違う。
兵たちが一瞬の間も置かず指令に従っていることからも、明らかに彼が隊長格、あるいは指揮官だと分かる。
「……見えるか? 今、指示を出してる奴だ」
「……あいつが指揮官か」
「尾けるぞ」
二人は建物の影を縫うように、静かに動き出した。
北門から伸びる石畳の通りを抜け、やがて二人は倉庫地帯へと足を踏み入れる。
その中で、王国軍の部隊がいくつもの木箱を次々と運び出しているのが見えた。
「……軍が物資を押収、いや――接収してるのか?」
エグモントが小声で漏らす。
ベガは頷き、すぐに判断を下した。
「エグモント。お前は物資の行く先を追え。どこへ運ばれるか確認したらすぐ戻れ」
「おう。お前は?」
「俺はあの指揮官を追う」
互いに短く頷き合い、二人は別方向へと散った。
ベガは倉庫群の屋根影に身を潜めながら、指揮官の動きを追う。
しかし、数分後――背筋に視線を感じたのだ。
背後から、一定の距離を保ちながらついてくる誰かの気配。
その歩幅、呼吸、間合い。素人ではない。
(……ちっ。面倒くせぇな)
ベガは足を止め、わずかに頭を垂れたふりをして周囲を観察する。
影が二つ。壁の向こう、視線を逸らすように動く影がある。
尾行者が一人ではない可能性もあった。
(指揮官を追うか…男を追うか……それとも一旦退くか……)
彼の脳裏で素早く天秤が傾いた。
(……先ずは撒く。街の中に入って姿を消す)
その瞬間、ベガは足を翻し、人混みの多い方角――市場へと向かった。
狭い路地を抜け、野菜の匂いと肉の煙が漂う中に紛れ込む。
わざと人とぶつかり、軽く謝りながら歩調を乱す。
尾行者が距離を詰めようとすればするほど、通行人の波がその間に壁を作る。
彼は横目でそれを確認しながら、慎重に移動した。
やがて、古びた木看板を掲げた古着屋の前で立ち止まる。
「ちょいと見せてもらおうか」
中に入ると、ほこりっぽい匂いと共に老人の声がした。
「おや、旅の方かい? 軍人さんみたいな恰好だねえ」
「ちょっとした仕事帰りでね。……これとこれをくれ」
ベガは茶色のチュニックとくたびれたズボンを選んだ。金貨を一枚投げる。
老人が釣りを出そうとしたときには、もうベガの姿は裏口へ消えていた。
裏手の路地。
ベガは素早く外套を脱ぎ、購入した服に着替える。
外套を裏返し、内側に詰め物をして腹が突き出た体型に見せ、丸めた布を二つ口に含んで頬を膨らませる。
鏡代わりに窓の反射で顔を確認し、髪を手ぐしで強引にオールバックに撫でつけた。
その変装は数分もかからなかったが、通りすがりに見た者なら誰も彼を同一人物だとは思うまい。
路地の影を抜け、人混みの中に再び姿を現す。
歩き方を変える。
膝をやや曲げ、重心を左右に振りながら、腰を落として歩く。
まるで腰痛を抱えた中年男のような緩慢さ。通りをゆっくりと進んだ。
(……さて、俺を尾けてたやつは――っと)
彼の目線は、決して後ろを振り返らない。
だが、通りのショーウィンドウに映る影、窓ガラスに揺れる輪郭、背後の足音の微妙なリズム。
それらを一つひとつ、計算するように拾い上げていく。
歩くたびに変わる影の角度を利用し、尾行者の位置を確定していった。
ベガの頭の中で、尾行者を特定するための五つの条件が鮮明に浮かぶ。
挙動、視線、歩き方、体幹、焦り。
この五つのうち、三つ以上が該当すれば間違いない。
まず「挙動」。人混みの中で不自然に止まるか、曲がるか。
「視線」。誰かを探すように、視線が泳ぐかどうか。
「歩き方」。靴音のリズム、膝の角度。尾行者は常に前の動きに合わせようとするから微妙に速い。
「体幹」。それが一番顕著だ。長年の訓練で、無意識でも中心がぶれない。
「焦り」。人混みに紛れたとき、置いていかれまいと小走りになる瞬間――それが合図。
(……いた)
人混みの流れの向こう側、往来の雑踏の中に――ベガはその影を確かに見た。
尾行者。さきほどまでの慎重さはすっかり消え、どこか焦燥の色が滲んでいる。
歩幅は荒く、肩が不自然に揺れ、靴音のリズムも乱れていた。
息がわずかに荒い。――見失った動揺。
しかし、すぐに気を取り直して足早にその場から立ち去っていく。
(……いい判断じゃないか)
ベガは、雑踏の陰から静かにその背を追う。
捕まえようと思えば、今すぐにでもできる。
だが、彼はそれをしなかった。
“追う者の行き先”――それこそが情報だ。
誰の命を受けていたか、どこに報告しようとしているのか。
それを掴まずに終えるのは、ただの自己満足に過ぎない。
尾行者は、街の中心部を抜ける石畳の通りを進んでいく。
周囲の店々は昼の賑わいで活気づき、香辛料と焼き菓子の匂いが混じる。
しかし、男の視線は一度も横を向かない。
ただ何かを確かめるように――焦りを押し殺すように前だけを見ている。
(……悪くないな。まだ甘いが……数年たてば、一流の情報屋か諜報員にはなれそうだ)
ベガの目に、一瞬だけ僅かな興味が宿った。
この世界で“人を追う”という行為を完璧にこなせる者は多くない。
だが“人に追われたあと、どう動くか”を誤らない者はさらに少ない。
この男には、まだその“余地”があった。
石畳が次第に滑らかになり、路地裏の影が消えていく。
広く整備された通りに出る。
立ち並ぶ建物の壁は白く、窓枠は装飾金具で飾られていた。
空気が変わる――。
雑多な喧噪が遠ざかり、代わりに馬蹄の音と貴族たちの従者の声が響く。
(……おいおい、まさか)
ベガは一歩足を止め、眉をわずかにひそめた。
街の北西部――貴族街。
そして、尾行者の進むその先。
立派な鉄柵の門の向こうに広がる大邸宅の姿。
(……この方向は……法務大臣、エルフリーデ・デ・ケレンズ伯爵邸じゃねえか!)
瞬間、ベガの思考が一気に回転した。
筋道を立てて考える間もなく、あらゆる可能性が脳裏を駆け巡る。
――ブランゲル侯爵家の手の者か?
――それとも、ケレンズ家と繋がる新たな線か?
――いや、まさか……味方の可能性も?
どれもあり得る。
(……迷ってる暇はねえッ!)
ベガは心中で吐き捨てるように呟き、一歩前に出た。
ゆっくりと、だが確実に――尾行者との距離を詰めていく。
姿を完全に晒すことを選んだのだ。
通りに出て、自然な歩調で男の背に声をかけた。
「おい、少し話をさせてもらえないか」
男の肩がぴくりと震えた。
振り向く。
年の頃は二十代半ば、整った顔立ちだが、どこにでもいそうな風貌。
特筆すべき特徴がないことが、逆に印象を薄くしている。
地味――しかし、無個性を“作り上げている”ような匂いがした。
平凡という名の仮面。
「……何か御用でしょうか?」
警戒の色がその瞳に宿る。
声は低く抑えられているが、喉が微かに鳴っていた。
緊張している。
そのくせ、逃げる素振りはない。――つまり、勇気はある。
ベガは一歩、また一歩と間合いを詰めながら、無言のまま観察した。
距離五歩。
風の音が消えるほどの緊張。
ベガはゆっくりと服の中に手を入れた。
尾行者の手が腰に伸びる――短剣を抜く寸前の動き。
その瞬間、ベガは服の内側から“外簑”を取り出した。
次に、口の中の丸めた布を二つ、地面に吐き捨てた。
それだけで、顔の輪郭が一気に締まり、元の鋭い造形が現れる。
手櫛で髪を撫で上げ、元の姿へと戻る。
尾行者の瞳が見開かれた。
驚愕、そして――理解。
「……あっ……!」
数秒の沈黙のあと、青年がようやく声を発した。
「ベガさん……! シャイン傭兵団の、ベガさん……!」
声には驚きと同時に、どこか安堵の響きがあった。
ベガは目を細め、息を一つ吐く。
「……てことは、お前……味方か…?ここで話すのは得策じゃねえ。場所を変えよう。……いいな?」
青年は頷き、安堵と緊張の入り混じった表情を浮かべた。
背後で風が鳴り、陽光が雲間から差し込む。
ベガはその光の中、静かに歩みを進めた。
次に暴かれるのは、貴族たちの裏の線か、それとも――別の敵の影か。




