誰が?!
チューファ一家の大邸宅。
大広間の中央には長い楕円形のテーブル。
その端に腰かけ、紙束とインク壺を前にしているのは――ユキヒョウ。
彼の指先が動くたびに、紙の上に鋭い筆致が刻まれていく。
ペン先が走る音、そして時折、扉がノックされる音だけが響く。
次々と情報屋たちが現れ、報告を置いては去っていく。
みな表情は硬い。彼らはチュチュ一家の者ではない。金で雇われた外部の目だ。
だが、ユキヒョウの前では誰一人として冗談を口にしない。
理由は簡単――彼の「判断」が、報酬を決めるからだ。
「……報酬は、五銀貨だね。」
報告者が深々と頭を下げ、安堵の息を吐いて去っていく。
そして次の者が入ってくる。
ぽつ、ぽつ、と。
時はゆっくりと、しかし確実に進んでいった。
ユキヒョウはすべての報告を無表情のまま聞き取る。
だが耳の奥では、情報が一つひとつ組み合わされ、脳裏の地図の上で形を変えていく。
――物流。
――商路。
――供給の流れ。
インクで記された文字はこうだ。
「東からしか入ってこない」
つまり、物資の供給がスニアス侯爵家一派からのみになっているということだ。
北西方面――つまりブランゲル侯爵家の勢力圏――からの流通は完全に止まっている。
彼は眉をわずかに動かした。
「……封鎖、か」
低い声が室内に落ちる。
「北西の街道、関所、税関……どこかで止められているのかな。いや、“止められている”というより、“通していない”か」
細く息を吐く。ペン先が再び紙の上を滑った。
『北・西方面への輸出停止』
――つまり、ブランゲル侯爵家への物資が止められている。
王都の流通は、事実上スニアス侯爵家が握ったも同然。
ユキヒョウは椅子の背に身を預け、指で机を軽く叩いた。
トン、トン、トン。
規則的な音が静寂を刻む。
王都は広大な畑を持たない。
自給はできない。
作物を育てる土地も少なく、王都の存在はあくまで“交易の中継地点”にすぎない。
「つまり、王都は“食わされる側”……」
彼は独り言のように呟く。
それでも彼の瞳は冷ややかだった。
「問題は、“誰が”これを主導しているかだ」
次の報告が届く。
街の商人、露店の主人、女中、荷車引き、宿屋の主人、果ては娼婦まで――情報屋たちは市井の声を拾い集めてくる。
「物価が上がっている」
「品物が手に入らなくなった」
ユキヒョウは口角をわずかに上げた。
「当然だね」
物資が減れば、物価は上がる。
誰でもわかる理屈だ。
だが、彼にとって重要なのは「この流れが自然発生的なものかどうか」だった。
彼は静かに紙の端を折り、別の束にまとめる。
“市場の変化”“物流”“政治的影響”“庶民の声”。
それぞれの項目が見事に整理されていく。
やがて部屋の扉が開き、情報屋が現れた。
痩せた青年、顔は煤で汚れ、服も薄汚れている。
だがその目だけは真剣で、恐れを押し殺していた。
「報告します……! 北の倉庫地帯で、積荷の一部が“押収”されました。理由は“検査”。ですが、実際には……」
青年が言葉を詰まらせる。
ユキヒョウが軽く顎をしゃくる。
「実際には?」
「……“封鎖”に近いです。検査を口実に、物を動かさせていません。許可が下りるまでに三日、五日……それ以上。通れるのはスニアス侯爵家の印章を持つ商家だけです」
――なるほど。
ユキヒョウの脳裏に、地図が描かれていく。
王都の北の倉庫群、そこから西への街道。
今まではブランゲル侯爵家の管理下にある交易路。
そこに「検査」という名目の鎖がかかっている。
「完璧だな」
低くつぶやいた。
「スニアス侯爵家は、交易路を“閉じる”のではなく、“絞る”。 完全な封鎖ではない。“選択的流通”だ」
ユキヒョウの声には、わずかな賞賛すら混じっていた。
「……長期的な策なのか?」
ユキヒョウは短く首を振った。
「いや、まだそこまでの確証はない。これは“試し”だ。相手がどこまで耐えられるか、どこまで動くか――ブランゲル侯爵家の“出方待ち”だろう」
「…だけど一時的であっても、“効く”…!」
ユキヒョウの目が細く光った。
「物流を握れば、兵糧を握る。兵糧を握れば、民心を握る。民心を握れば……王都の息の根も止まる。これを仕掛けたのがスニアス本人か、あるいはその腹心か――それはまだ分からないけど」
静かに椅子を立ち、窓辺に歩み寄る。
外では月が白く輝き、王都の灯が点々と瞬いている。
夜の街の向こう、東方の空の下には――スニアス侯爵領がある。
ユキヒョウはその方角をじっと見つめた。
「……戦は、剣だけでやるもんじゃない。腹の探り合いが激化してきたかな?」
そうつぶやき、背後の机に戻る。
インクを少し補充し、紙に新たな一行を書き加えた。
『王都流通:スニアス侯爵家への依存度上昇 対策検討』
ペン先が止まる。
机上の地図には、線と線が幾重にも交差している。
彼の思考はその線をたどりながら、いくつもの未来を描き出していた。
部屋にはユキヒョウただ一人。
「……続報を待とう」
彼は静かに呟いた。
その声は冷たくも穏やかで、まるで次の嵐を予期しているかのようだった。
情報の断片はまだ揃っていない。
だが、その“断片”の形から、既に彼の中では全体像が見え始めている。
この静寂の裏で、王都の血管のような物流は、確実に“片方の手”に握られつつあった。
ユキヒョウは目を閉じ、再びペンを握る。
紙の上に、最後の一文が記された。
『――流れを止める者が、次の覇者となる。』
インクが乾く音が、夜の終わりを告げていた。昼下がり。
チュチュ一家の大邸宅の崩れかけた扉門が、ギィと音を立てて開いた。
一台の馬車が戻ってくる。
荷台の中には木箱が幾つも積まれている。
保存食、布地、薬草、油、調理器具。
邸内の者たちが次々と駆け寄り、歓声を上げる。
「クリフさん!」「ザック兄ちゃん!」「すごい、また荷物だ!」
子供たちが小さな手で荷台を指さしながらはしゃぎ、保護した住人たちは思わず頭を下げて礼を言う。
クリフは苦笑しながら手を上げた。
「いいっていいって、困ってるときはお互い様だ」
その口調はいつもの落ち着いたものだが、彼の目には確かな安堵が浮かんでいる。
昨日までの陰鬱さが、少しずつ晴れつつあるのを感じ取っていた。
屋敷の玄関ホールを抜けると、廊下の奥から温かい香りが漂ってくる。
煮込みの香り、焼きたてのパンの香ばしさ――昼食の支度が整っているようだ。
台所の方からは鍋をかき回す音と、子供たちの笑い声。
昨日まで怯えた目をしていた者たちが、今は笑っている。
その光景に、クリフは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
ユキヒョウが、奥の大広間から姿を現す。
彼の手には一束の紙。情報屋たちが運んできた報告書だ。
ユキヒョウはそれを軽く掲げると、クリフの前に置いた。
「見て。今までの情報をまとめといたよ」
クリフは椅子を引き寄せ、書類を手に取る。
目を走らせながら、低く唸るように言った。
「……まだ判断が難しいな。ブランゲルたちが“餌”を撒いてるだけか……焦ってるのか…?」
ザックが壁にもたれかかり、腕を組む。
「貴族どもの情報がねえな。情報屋はどこまで突っ込めてる?」
「今は続報待ちだね」
ユキヒョウは静かに言い、手元の地図に視線を落とした。
クリフは報告書を閉じ、息をついた。
「……まあ、今は腹を満たしてから考えよう」
「そうだな!」
ザックが笑い、勢いよく背を押した。
「焦ってもしょうがねえ。飯だ、飯!」
三人は連れ立って食堂へ向かう。
食堂の扉を開けると、まるで祭りのような賑わいだった。
長いテーブルには湯気を立てる料理が並び、椅子の間を子供たちが駆け回る。
保護した住人たち――つい昨日まで泥と絶望にまみれていた人々――が、今は笑っている。
清潔な衣服に着替え、靴もある。
風呂に入ったせいか、顔色も随分と良くなっていた。
「お帰りなさい!」
「おかえりなさい、クリフさん!ザックさん!」
声が一斉に上がる。
その中に、オスカーの両親――オイゲンとカタリーナの姿もあった。
二人は穏やかに微笑み、深々と頭を下げた。
クリフは軽く手を上げて応える。
礼を言う者は絶えなかった。
「ありがとうございます!」「食べ物を、こんなにたくさん……」
その度に、ザックは照れ臭そうに頭をかきながら「いいっていいって」と笑う。
しかし次の瞬間、子供たちが群がった。
「ザック兄ちゃん、肩車して!」「おんぶー!」
「ちょ、ちょっと待て、お前ら何人いるんだよ!?」
わちゃわちゃと押し寄せる子供の群れに、ザックは完全に包囲される。
笑い声が食堂いっぱいに広がり、見ていた大人たちも思わず吹き出した。
その傍らで、ユキヒョウが静かに立っていた。
誰よりも冷静な彼の顔にも、わずかに口角が上がっている。
チューファ一家も席に着いていた。
彼らの目には、誇りのような光が宿っていた。
「ユキヒョウさん、クリフさん、ザックさん……」
チューファが立ち上がり、深く頭を下げた。
「俺たちは、あんたたちに拾われた命だ。恥じないよう働く。今度こそ、人のためになる組織を作ってみせます!」
クリフは軽く笑い
「その言葉、信じるぞ。背負ってくれ。――これからの街をな」
昼食の鐘が鳴る。
人々が一斉に席につき、食前の祈りを捧げる。
「いただきます!」
その声が響いた瞬間、湯気の中に笑顔が弾けた。
ザックの隣では、子供がスプーンを握って張り切っている。
「ザック兄ちゃん!お肉大きい!」
「おう、俺の取り分だな!」
「だめー!」
「冗談だ冗談!」
笑いながら取り合う二人。
その光景に、クリフも肩をすくめる。
「まるで大家族だな……」
「悪くないね」
ユキヒョウの声は、珍しく柔らかかった。
昨日まで地獄だった場所に、確かな笑いが戻っていた。
救われた住人たちにとって、彼ら――シャイン傭兵団は救世主だ。
チューファ一家にとってもまた同じ。
組織の底辺から引き上げられ、今や街を支える立場になった。
それはほんの一日で変わった奇跡のような現実だった。
だが、彼らにとってそれは“戦いの終わり”ではなく、“新しい日常の始まり”だった。
昼食の喧騒の中、ユキヒョウはふと目を細める。
まだ外の世界では、不穏な動きが続いている。
けれど――この一瞬だけは、確かに「平和」がここにあった。
昼食を終えた後――
満ち足りた空気がまだ屋敷の中に残るころ、クリフたちとチューファ一家は大広間へと移動した。
長机を囲んで座るのは、ユキヒョウ、クリフ、ザックの三人と、チューファ一家の面々。
机の上には帳簿と書きかけの報告書、そして積まれた数枚の銀貨が無造作に置かれている。
チュチュが鼻息を荒くしながら言った。
「いやぁ……クリフさん、これ見て下さいよ!」
彼は帳簿を広げ、指でなぞる。
そこには信じられないような数字の列。
「闘技場の上がり(売上げ)だけで、こんなにです。こんな金、初めて見ましたぜ!」
彼の声には興奮が混じっている。
かつてスラムで日銭を稼ぐのがやっとだった彼らにとって、この数字はまさに「別世界」の話だった。
「こりゃ、賭場の分も合わせたら……下手な商会どころじゃねぇぞ」
クリフが感心したように呟く。
キースが補足するように口を開く。
「闘技場の警備は、他の一家から腕の立つ奴らを雇っています。もちろん賃金もきちんと払って。いざこざを起こさないように、誰が誰の縄張りかは明確にしております。」
「闘士たちはどうなんだい?」
ユキヒョウの問いに、チュチュが少し身を乗り出した。
「いろんな奴がいます。犯罪者上がり、腕に覚えのある連中、力自慢の酔っぱらい、傭兵崩れ……中には“俺の強さを見て一家に入れてくれ”なんて言う奴まで。あと、驚くことに元騎士までいました」
「元騎士?」
クリフが眉をひそめる。
「はい。王都で仕官してたって話ですが、上に嫌われて放り出されたらしいんです。槍の腕は確かだとは思うんですけど、プライドが邪魔して……結局、初戦で腕を折られていました」
チュチュが肩をすくめる。
それを聞いたザックが口笛を吹いた。
「そりゃ見ものだな。だがよ……俺が言うのもなんだけどよ、毎回死人が出てたら、そのうち闘士が足りなくなんじゃねぇか?」
チュチュとキースが顔を見合わせる。
少しの沈黙の後、キースが口を開いた。
「……それは、確かに問題だと思ってます。客は血を見たがりますが、死体ばかりになると話は別です。闘士がいなくなっちまえば、闘技場は続けられなくなります。」
クリフが頷く。
「興行として回すなら、命のやり取りを“見せかける”程度に抑えるべきだな。」
「はい」
キースは帳簿の隅に書き込みながら続けた。
「次からは改善するつもりです。気絶、もしくは明らかに戦闘不能になった時点で試合を終わらせる。審判役を置いて、勝敗をはっきりさせる方式に変えていこうかと思っています。」
「審判か……いいんじゃないかな」
ユキヒョウが小さく頷いた。
「死人が減れば、参加希望者も増えるだろう」
「よし」
クリフが立ち上がり、両手を机に置いた。
「闘技場も賭場も、今のところ順調だ。だが、欲をかくな。金が回り始めると、必ず汚れが寄ってくる。今は“信用”を積むときだ」
キースが真剣に頷いた。
「はい!俺たちはもう、あのスラムの頃には戻りたくありません。」
――これから先、この闘技場と賭場はただの“娯楽”ではなく、街そのものを左右する力になる、と。
だからこそ、今ここで決めた。
無秩序ではなく、理を通す。
血の匂いよりも、“生き残る術”を選ぶ、と。
それが、チューファ一家の新たな始まりでもあった。




