王都地下闘技場
夜の帳が下り、貧民街の路地に灯る灯火はわずか。
そんな中、クリフたちの一行は大勢の子供たちとスラムの住人を引き連れて、ザックが確保した「チューファ一家」の屋敷へと向かっていた。
道中にはまだあちこちに瓦礫が転がり、腐臭の漂う裏通りもあった。
しかし、行進の先頭に立つクリフの背中が、不思議と人々に勇気を与えていた。
子供たちは手をつなぎ、疲れ切った大人たちもそれに続く。
誰もが「久しぶりに“導かれている”」という感覚を抱いていた。
「他に動けないやつはいないか?」
クリフが声を張ると、周囲からぽつぽつと声が返ってきた。
「あっちに……まだ二人、足の悪い子が……」
「こっちには年寄りが寝たきりで……」
ケイトが急いで駆け寄り、ユキヒョウが背負い袋から布を取り出して包む。
「任せて。すぐ連れていくわ」
ユキヒョウは無言で頷き、静かに背負って歩き出した。
その中に、片腕の男がひっそりと立っていた。
右肘から先がない。
衣服は薄汚れ、顔には深い皺が刻まれている。
だが、その目だけはどこか澄んでいた。
傍にいたオスカーの母親カタリーナが、その男の腕を支える。
「あなた……オイゲン、もう無理しないで」
「……あんたも来い」
フレッドが声をかけると、男は戸惑いがちに顔を上げた。
「俺も……行っていいのか?」
「あたりめぇだ。飯ぐらい、食わなきゃ立ってもいられねぇだろ」
クリフが、目を細めた。
「……オスカーの父親か」
やがて、一行は「チューファ一家」の屋敷にたどり着いた。
と言っても、立派な屋敷というにはほど遠い。
石造りの壁はひび割れ、窓は板で塞がれ、
屋根からはところどころ雨漏りの跡が垂れていた。
しかし今は、そんなことを気にしている暇などない。
ザックが玄関の戸を蹴り開けるようにして中へ入る。
「おい、チュチュ! こいつらが今日から世話になる!動けッ!」
奥から現れたのは、顔面の右半分が腫れ上がったチューファ。
さきほどザックに引きずられてきた男だ。
「ひ、ひいい……い、今、飯を……」
「おう、それでいい。飯を用意しろ。腹をすかせたやつが山ほどいる」とザック。
「薬、薬草類も頼むよ」
ユキヒョウの冷静な声が飛ぶ。
「く、薬……!? そ、そんなもん、そう簡単には——」
「探せばどっかにあるでしょ」
ケイトが腰に手を当てて睨みつけると、チュチュは情けない声で頷いた。
「は、はいぃ~!! 今すぐ!!」
その様子を見ていたクリフが一歩前に出る。
「お前らも、ぼさっとしてんじゃねえ。動け」
鋭い声が響く。
部屋の隅で様子を窺っていたチューファの手下たちが、びくりと身体を震わせた。
「……な、なあ……オレたち、怪我しててよ……」
誰もが包帯を巻き、顔や腕に傷を負っていた。
「動ける口があるなら動ける手もあるだろうが」
クリフの一喝に、手下たちは一斉に立ち上がる。
「へ、へいっ!」
屋敷の中は、すぐに慌ただしさで満ちた。
空っぽだった台所には、鍋や包丁の音が響き、チュチュが泣きそうな顔で走り回る。
「お、おい! そっちの鍋、焦げてるぞ! もっと火を弱めろ!」
「ひ、火が足りねぇ! 薪を持ってこい!」
「お湯だ、お湯を沸かせ! 怪我人がいる!」
その中を、ケイトが子供たちを並ばせて世話を焼き
ユキヒョウは負傷者の手当てに回り
ベガは屋敷の外で物資の確認をしていた。
フレッドは子供たちを笑わせ、ザックはチュチュの背中をどんと叩いて檄を飛ばす。
「チュチュ、顔色悪りぃぞ! もっと動け!」
やがて、チューファ一家の屋敷はまるで戦時の野営地のような熱気に包まれていた。
外では焚き火が焚かれ、子供たちが暖を取り、中では鍋がいくつも煮立ち、食事の香りが漂う。
チュチュは完全に項垂れていたが、その表情にはどこか不思議な清々しさもあった。
「……あんたら、何者だ……」
「ただの傭兵団さ」とクリフが短く答える。
その言葉に、チュチュは目を細め、しばらく沈黙したあと、ぽつりと呟いた。
「……変な奴らだな。スラムの人間を助ける傭兵なんて、聞いたことねぇよ」
クリフは火の揺らめきを見つめながら、静かに返す。
「そうだろうな。でも、これからは“助ける側”になってもいいんじゃねえか」
その言葉に、チュチュも小さく笑った。
外では、オイゲンが木片を拾い、片腕で不器用に子供のための椅子を削っていた。
カタリーナがその隣で見守り、子供たちの笑い声が、スラムの夜にやさしく響いていた。
スラムの奥深く、腐った木の階段を軋ませながら降りていくと、湿り気と鉄の匂いが鼻を刺した。
地面はぬかるみ、壁には藻のようなものがこびりついている。
チューファ一家の親分チュチュは、手下三人を引き連れて先導しながら、何度も振り返り、青ざめた顔で言った。
「お、お願いしますからね……中じゃ絶対に問題、起こさないでくださいよ……! ゾゾ一家の連中は冗談じゃ済まないんです、ほんとに……!」
「わぁってるって、そんなビビんなよ」
フレッドは肩をすくめ、余裕の笑みを浮かべる。
だがその目は闇の奥を鋭く観察していた。
「なあに、俺たちはちょっと遊んでくるだけだ。そうだろ、ユキヒョウ?」
「……遊び、ね」
ユキヒョウはフッと笑う。
薄暗い通路の中、彼の瞳だけが獣のように光った。
「まあ、確かに“狩り”って意味では間違っちゃいないね」
ザックが後ろからチュチュの肩をバシンと叩く。
「お前んとこの選手枠、使わせてもらうぜ。心配すんな、こっちの“仕事”は確実だ」
「は、はぁ……そ、それはありがたいんですが……勝てるんですか? ゾゾ一家の闘士は皆、血に飢えた化け物ばかりで……」
「化け物? だったら丁度いいじゃねえか」
ザックは不敵に笑うと、指を鳴らした。
「俺ら、そういうのと遊ぶのが大好きなんだよ」
「全額、俺たちに賭けろ。お前らの名前でな」
フレッドが口角を吊り上げ、鋭い犬歯をのぞかせた。
「勝てば、倍以上になって返ってくる」
「ま、負けたら……?」
「そんときゃ、お前らの金がなくなるだけだ」
ザックの笑い声が響いた。
チュチュの喉がひゅうっと鳴る。
手下たちは震えながらも、小袋を差し出した。
中には銀貨と金貨が混ざっており、指の油と汗で濡れていた。
「……よし、これで十分だ」
フレッドは袋を受け取り、にやりと笑って言った。
やがて通路の先からざわめきが聞こえてくる。
「うおおおおっ!」「殺せ!」「ぶっ潰せぇぇっ!」
怒号と歓声が渦巻き、鉄柵を打つ金属音が混ざっていた。
巨大な鉄扉を抜けると、そこには荒れ果てた石造りの円形闘技場が広がっていた。
天井から垂れ下がる鎖灯が、血と汗と酒の臭いを鈍く照らし出している。
客席は粗末な木組みで、そこにぎゅうぎゅう詰めの群衆。
ギャンブラー、娼婦、傭兵崩れ、そしてゾゾ一家の用心棒たち。
彼らの顔は皆、欲と狂気に染まっていた。
闘技場の中心——赤黒く染まった砂地に、二つの肉塊が転がっていた。
観客席の喧噪が一瞬だけ静まり返り、鉄の匂いと血の蒸気が湿った空気に溶け込む。
「……み、見て下さい……」
チュチュが震える指で指さした。
その先では、一人は首の骨がねじ切られ、不自然な角度で倒れ、もう一人は喉を食い破られ、目を見開いたまま微動だにしない。
「ブサイクな戦いだったようだね」
ユキヒョウが冷淡に言った。
表情はほとんど動かず、ただつまらなそうに目を細めている。
「素手の勝負で、あれはねぇな」
ザックが鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「大した奴はいねえみてぇだな」
フレッドが口の端を吊り上げて笑う。
その笑いには残酷さよりも、退屈さが滲んでいた。
チュチュと手下たちは耳を疑った。
——この惨状を前にして、顔色ひとつ変えない。
血と肉片が飛び散る闘技場を見ても、彼らの瞳には恐怖ではなく“観察”の光だけがあった。
(な、なんて連中だ……この光景を見て平然としている……いや、違う。まるで戦場の兵士が、日常を眺めるような目だ。傭兵団……そう言っていた。ならば当然か。俺たちのようなチンピラとは違う、“本物の死線”をくぐってきた奴らだ……)
チュチュの背筋を冷たい汗が伝った。
ザックの太い腕に埋め込まれた古い傷跡。
ユキヒョウの獣じみた静寂。
フレッドの目に宿る、人を“見ていない”ような光。
(この男たちなら……ゾゾ一家の闘士相手にも勝てるかもしれねぇ……)
チュチュの脳裏に、欲望が一筋の火花のように灯った。
(勝てば、一気に名が売れる……俺たちチューファ一家も、この腐った階層から抜け出せるかもしれねぇ……!)
恐怖と期待がないまぜになり、彼の頬がわずかに引きつった笑みを形づくる。
チューファ一家——ほんの小さな縄張り。
構成人数十人。組織の中じゃ最底辺。
「……だからこそ、成り上がりてぇんだ」
チュチュは自分に言い聞かせるように呟く。
「総長に挨拶と選手登録をしてきますので……」
チュチュは一歩下がり、緊張を隠しながら頭を下げた。
「念のため、お名前をお聞きしても?」
「ザックだ」
「フレッド」
「ユキヒョウ」
三人は淡々と名乗った。
その声には一片の迷いもなかった。
「……わ、わかりました。すぐに戻りますので……どうか……その、騒ぎは起こさないでくださいね……?」
「心配すんな」
ザックがにやりと笑う。
「俺たちは大人しいぜ」
「君らの言う事は信用ならんのよ……」
ユキヒョウがぼそりと呟き、フレッドが肩をすくめた。
チュチュは半ば引きつった笑みを浮かべながら、背後の鉄柵を抜けていく。
通路の奥——VIPルームと呼ばれる場所へ。
そこにはこの地下闘技場を支配するゾゾ一家の総長がいる。
厚い扉の向こうからは、笑い声と女の嬌声、酒の匂い、煙草の香り。
チュチュは胸の内で呟いた。
(頼む……神様……俺の運が、今日だけは味方してくれ……!)
闘技場の裏通路に、靴音が乾いた音を立てて響いた。
チュチュが息を切らしながら戻ってくる。
手には薄汚れた木札三枚。そこに墨で記された名——「ザック」「フレッド」「ユキヒョウ」。
「ぜ、ぜえ……選手登録、済ませてきました……!」
肩で息をしながらも、チュチュは誇らしげに三人の前に立った。
「おう、おつかれさん。で、いつ出番だ?」とザック。
「まだ……少し時間があります。あっちに、一応チューファ一家の席があるんです……」
チュチュが案内したのは、闘技場の最果て——まるで舞台袖のような端っこの区画だった。
粗末な木製テーブルが一つ、足の片方は折れかけて石で支えられている。
椅子は三脚。背もたれが壊れたものも混じっていた。
その上に、瓶の口を蝋で封じた、得体の知れない液体が三本。
色は濁った赤茶で、鼻を近づけると酒とも薬ともつかぬ臭いが鼻を刺す。
「お前らの扱い、雑じゃね?」
フレッドが唇を尖らせた。
「……じ、自分たちは組織の中でも最底辺なんで……」
チュチュは小さく肩をすくめる。
言い訳というより、現実を受け入れた者の声だった。
「ふ~ん。ま、どうでもいいけどな」
フレッドが酒瓶を持ち上げ、軽く揺らしてみせた。中の液体が鈍く波打つ。
「呑めそうっちゃ呑めそうだが」
そう言いながら一口。顔をしかめ、喉を鳴らした。
「……うぇ、やっぱマズいわ。いや、マズいどころか“危ねえ”なこれ」
ザックが笑い、ユキヒョウは肩を竦めて無言のまま座った。
「で、対戦相手は決まってるのか?」
チュチュがゴクリと唾を飲み込む。
緊張で額にじっとりと汗が滲む。
「……狂人チャド。こいつが最初です」
その名が出た瞬間、手下たちの空気が少し変わった。
「そいつに勝てば五倍の配当金です」とチュチュ。
「人喰いデクスターに勝てば三倍、怪人ドルーも三倍……その後はやってもやらなくても自由です。」
フレッドがにやりと笑う。
「なんだ、気前のいい話じゃねぇか」
「……お三方、本当に……出るんですか?」
「当たり前だろ」
ザックが当然のように言う。
「ここまで来て観戦だけとか、つまんねぇだろ?それに金を稼がねえといけねえからな。」
チュチュは口を開けたまま固まった。
(なんて自信だ……!狂人チャドは、ゾゾ一家の中でも上位の闘士だ。十人以上の挑戦者を殺してる奴だぞ)
「最初は僕が行ってもいいかな?」
ユキヒョウが静かに言った。
その声は風のように淡く、しかし確信に満ちていた。
「順番なんかテキトーでいいだろ?」とザック。
「相手は鼻クソだ。すぐに終わるしな」
「そういうこった」
フレッドが肩をすくめる。
「……しっかし、もっとまともな酒はねぇのかよ」
再び瓶を持ち上げて中を眺め、ぼやく。
チュチュの手下たちは顔を見合わせた。
(な、なんてぇ奴らだ……!)
(あのチャドを“鼻クソ”呼ばわりかよ……)
恐怖と畏怖が混じり、彼らの顔は青ざめていく。
その時、客席の喧噪が一気に膨れ上がった。
闘技場の中央が白く照らし出される。
巨大な鉄柵の中で、血の跡がまだ消えぬ砂地が唸りを上げるように震えている。
「チューファ一家が出るぞ!」
「聞いたことねぇ名前だな!」
「新入りか? どうせすぐ死ぬ!」
「首、何秒もつか賭けようぜ!」
野次と笑いが飛び交う。
金貨の音、酒瓶の割れる音、男たちの叫び。
まるで狂気の見世物小屋だった。
チュチュが手を振り返って叫ぶ。
「……ゆ、ユキヒョウさん、準備を!」
その瞬間、ユキヒョウが静かに立ち上がった。
席を立つというより、風が流れるように自然な動作。
白銀の髪が灯りを反射し、微かに光る。
「じゃ、行ってくるよ」
闘技場の中央に立つユキヒョウ。
対面の扉が軋み、鉄鎖が外れる音が響く。
そこから現れたのは、全身に傷跡を刻み、両腕に革の包帯を巻いた巨躯の男。
狂人チャド。
目は虚ろに笑い、唇の端からよだれを垂らしている。
観客席が爆発するように沸き上がった。




