忘れていた過去
スラムの薄暗い通り。
クリフたちの二台の馬車がその狭い路地をゆっくりと進む。
彼らの衣服や荷物は、ここでは明らかに“異質”だった。
チンピラのような男たちの視線だけでなく、建物の影や崩れた塀の隙間から、じっと彼らを見つめる小さな瞳があった。
骨ばった腕、破れた服。
幼い子供たちが、泥だらけの顔をのぞかせていた。
彼らは言葉を発しない。
ただ、静かに、警戒と羨望が入り混じった目で、クリフたちの姿を追っていた。
ケイトが馬車の上から振り向くと、壁の影に小さな手が見えた。
細く、冷たそうな手。
その持ち主は、まだ七つにも満たないような少女だった。
一瞬、ケイトの胸の奥に鋭い痛みが走る。
彼女の脳裏に、かつての自分の姿が重なった。
——あの頃も、こうしてぼろをまとい、行き交う人々を羨んで見上げていた。
「……子供たちね」
小さく呟いたケイトの声に、隣のユキヒョウが視線を向けた。
その表情は、どこか静かに沈んでいる。
「見て見ぬふり……できねぇな」
ザックが低く言い、肩をすくめた。
クリフも馬車を止めると、深く息を吐く。
「……あいつらは、昔の俺たちだ」
ケイトは唇を噛みしめながら言った。
「私たちもスラム育ちだったのにね……ちょっと、調子に乗りすぎたわ」
「俺もだ。すっかりいい気になってたぜ」
ザックも苦笑混じりに頭を掻く。
一瞬、沈黙が降りた。
風の音と、遠くの市場から聞こえる喧騒だけが耳に届く。
クリフが顔を上げる。
その目にはもう迷いはなかった。
「反省は後だ。今はこの状況をどうするかだ」
その言葉に全員の視線が集まる。
ケイトがすぐに答えた。
「……服や装飾品、売ってくるわ。高くは売れないかもしれないけど」
「よし、ユキヒョウ。ケイトと一緒に行ってくれ」
「了解」
「売った金で食材を買え。炊き出しをやる」
その一言にケイトの目がぱっと輝いた。
ユキヒョウは無言で頷き、ケイトとともに街の方角へと歩き出す。
クリフは残った家族を見回した。
「さて……金を稼がねえとな」
その言葉に、フレッドがニヤリと笑う。
「へっ、こういう時は俺たちの出番だな」
「……嫌な予感しかしねぇな」
ベガが眉をひそめるが、フレッドは止まらない。
「これだけでけぇ都市だ。地下闘技場の一つや二つ、あるに決まってるだろ?」
フレッドの目はすでに戦士のそれだった。
クリフはしばし考え込み、ベガに視線を向ける。
「ベガ、金はねぇけど……調べてこれるか?」
ベガは鼻で笑った。
「舐めてもらっちゃ困るぜ。情報の嗅覚だけは錆びちゃいねぇ。任せときな」
「頼んだ」
クリフは手を打ち、指示を出す。
「よし、俺たちは炊き出しの準備をする。子供たちを集めろ」
「了解」
そしてザックが手を上げた。
「なぁ、クリフ。俺はちょいと泊まれる“家”を確保してくるぜ」
「……家?」
クリフが目を細める。
「ククッ……この際、仕方ねぇな。頼むぜ」
「おうよ。屋根があるだけで十分だろ?」
ザックは笑い、すぐに走り出した。
その姿を見送りながら、クリフはわずかに笑う。
それぞれが動き出した。
ケイトとユキヒョウは人波の中を歩いていた。
王都の市場は、活気と混沌が入り混じる場所だ。
焼き魚の香ばしい匂い、スパイスの刺激的な香り、売り子の怒鳴り声と値切る声が交錯する。
ケイトは両腕に抱えた服の束を見つめ、小さく息を吐く。
「こんなに買い込んだのに、まさかこうして売ることになるとはね……」
「まぁ、世の中どう転ぶか分からないものさ」
ユキヒョウはそう言いながら笑い、ケイトの顔を覗き込む。
「でも悪くない顔をしてる。楽しんでるだろ?」
「……フフッ、まあね」
ケイトも笑みを返す。
服や装飾品を抱えて露店を回り、商人たちと価格を交渉する。
最初は冷たくあしらわれたが、ユキヒョウが巧みに会話を繋ぎ、ケイトの愛嬌と押しの強さが功を奏し、徐々に人だかりができた。
「さすがケイト嬢。」
「褒めても何も出ないわよ」
「フフッ……面白くなってきた」
そう呟いたユキヒョウの目には、どこか狩人のような鋭さが光っていた。
一方、ベガは裏通りに足を踏み入れていた。
表の市場とは打って変わって、湿った土の匂いと腐敗臭が漂う。
店先には壊れた看板、路地の隅では怪しげな取引が行われている。
ベガはフードを深くかぶり、耳を澄ませた。
「……地下闘技場の噂、どこかで拾えるはずだ」
それは情報屋の勘。
視線を感じても動じず、目だけで周囲を確認する。
薄暗い階段の上から、男がひとり声をかけた。
「兄ちゃん、道に迷ったか?」
「いや、金の匂いを嗅ぎつけてな」
ベガの口元に笑みが浮かぶ。
「話をしよう。あんた、面白い情報を持ってそうだ」
裏通りの奥へと、ふたりの姿は闇に溶けていった。
スラムの薄暗い通り、その狭い路地でフレッドは両手を口に当てて叫ぶ。
「おいッ! 腹が減ってるやつは集まれぇッ!! 飯を出してやるぞッ!!」
その声はスラム全域に響き渡った。
最初は誰も動かなかった。
だが、一人の少年が恐る恐る近づくと、次第に二人、三人と影が増え、やがて十数人の子供たちが集まってきた。皆、骨ばり、目だけが異様に大きい。
フレッドは屈んで笑いかけた。
「よしよし、いい子だ。今夜は腹いっぱい食わせてやる」
少年の瞳が一瞬だけ光った。
ザックはその頃、別の路地で動いていた。
小柄なチンピラを片手で持ち上げ、壁に押し付ける。
「おいコラ、黙ってないで答えろ」
「ひ、ひいっ! な、何を——」
「この辺の元締めの場所、どこだ?」
「し、知らねぇ! ……い、いや、ま、待ってくれ! 知ってる! 案内する!案内するから腕離せ!」
「最初からそう言え」
ザックは軽くその肩を叩き、笑って言う。
「へっ、案内料は命ってことで頼むぜ」
チンピラは青ざめながら頷き、路地の奥へ走り出した。
その背中を追いながらザックは鼻を鳴らす。
「元締めの居場所がわかりゃ、寝床も交渉できる……悪くねぇな」
そして、クリフ。
彼は馬車の側で黙々と作業をしていた。
荷台の中身を整理し、残っていた食材を広げ、粗末な鍋をかけ、炊き出しの準備を始める。
乾燥豆を水に戻し、塩と干し肉を細かく刻む。
風に乗って漂う香りが、どこか懐かしい匂いを運んできた。
「……まさか、こんな形で料理することになるとはな」
独り言のように呟くクリフ。
クリフが大鍋をかき回す。
湯気の向こう、豆と干し肉の煮込みがぐつぐつと泡を立てる。
ケイトは木椀を手に、子供たちを優しく並ばせた。
「慌てないで、順番にね。ちゃんとみんなに行き渡るから」
ユキヒョウが鍋のそばで器用に盛りつけ、フレッドが笑顔で渡す。
「ほらよ、熱いから気をつけろよ!」
だが木椀の数は明らかに足りず、子供たちは一口食べては友達に回していた。
その姿にケイトが胸を痛めるが、子供たちは笑顔で「うまい!」と叫び、その声が路地に響く。
クリフは炎の前で手を止め、静かに息を吐いた。
「……これだけでも、来た甲斐があるな」
そこへ、裏通りの影からベガが戻ってきた。
顔にうっすら汗を浮かべ、いつもの軽口を交えながら。
「いいニュースだぜ。地下闘技場、やっぱりこの街にあった。上手くいきゃ金が手に入る」
フレッドがにやりと笑う。
二人の背後で、ズザザザザッと音が響いた。
振り返ると、ザックが現れた。
片手で男の襟首を掴み、まるで壊れた人形のように引きずっている。
男の顔は腫れ上がり、片目はほとんど閉じていた。
「待たせたな! こいつが寝床を提供してくれるってよ!」
ザックがニッと歯を見せる。
「飯も酒も、炊き出しの食材も出してくれるとさ!」
「おお、そりゃあ上等じゃねぇか!」
フレッドが歓声を上げる。
「で、こいつは誰なんだ?」
「この辺の元締めの奴で……なんだっけ、チュウチュウ一家の親分だっけ?」
「ちゅ、チューファ一家です……!」
親分は情けない声で訂正する。
すかさずフレッドが肩を叩き、陽気に笑った。
「まあ、なんにせよ助かったぜチュチュ!」
「なんだそれ?」とベガが首を傾げる。
「チュチューファじゃ長ぇし、言いづらいからな。略してチュチュでいいだろ」
その言葉に周囲がドッと笑う。
ケイトも口元を押さえて吹き出し、ユキヒョウまで肩を震わせた。
子供たちもつられて笑い声を上げる。
ケイトがようやく笑いを収め、ザックに問いかける。
「ザック、まさか家を壊したりしてないでしょうね?」
「おう、そこは気をつけたぜ。ドアは蹴ってねぇし、窓も割ってねぇ」
クリフが真顔に戻り尋ねた。
「で、その“家”の規模は?」
「見た感じ、この人数なら余裕だな。二階建てで部屋も多い。ガキどもも入れる」
クリフは頷き、鍋を火から下ろす。
「よし、決まりだ。片付けが終わったら全員で移動する」
子供たちが手を叩いて喜ぶ。
フレッドが声を上げた。
「聞いたかチュチュ! 今日から俺たちはお前んとこの客人だ!」
「ひ、ひえぇ……」
親分の情けない悲鳴に、再び笑いが起こった。
狭いスラムの路地に、笑いと湯気と灯りが満ちていく。
貧しさも、痛みも、ほんのひととき忘れさせる温かさがあった。
炊き出しの湯気が白く漂い、豆と肉を煮込んだ香ばしい匂いが空気を満たしている。
だが、香りに誘われて集まってきたのは子供たちだけではなかった。
足を引きずる男、片腕のない者、包帯を巻いた老人、痩せこけ、骨ばった頬をしている女たち——
彼らは静かに、けれど切実に炊き出しの列に加わっていった。
「……俺にも、恵んでください」
「お願いだ、腹が減って……」
「慈悲を……ほんのひと口でも」
その声は、悲鳴にも似ていた。
クリフは手を止め、少しの間だけ目を閉じた。
そしてゆっくりと顔を上げる。
「順番にな。まずは子供たちだ」
低く穏やかだが、決して逆らえない声だった。
大人たちはしばらく沈黙し、それから小さく頷く者、
肩を落としてその場に座り込む者がいた。
ケイトが鍋を見つめて、唇を噛む。
「……足りるかしら」
「いや、足りねぇだろうな」フレッドが答える。
それでも木椀を差し出すケイトの手は止まらない。
ユキヒョウが静かに新しい火を起こし、ベガが残っていた穀物袋を開く。
そんな中、列の後方に一人の女が立っていた。
古びた灰色の外套に、深く被ったフード。
他の誰よりも静かで、顔を上げることも、声を出すこともなかった。
しかし、その“沈黙”がなぜかフレッドの目に留まる。
「……なあ、あんた」
彼は湯気の向こうから声をかけた。
女性がびくりと肩を揺らす。
「悪いが、フード取ってくれねぇか?」
「え……」
突然の言葉に、周囲の視線が彼女に集まる。
女性は戸惑い、少し後ずさる。
「別に怪しいとか言ってんじゃねぇ。ただ……ちょっと気になったんだ」
フレッドの声はいつになく真面目だった。
ゆっくりと、彼女は震える手でフードを外した。
ぼさついた栗色の髪がこぼれ落ち、痩せてはいるが、柔らかい印象の顔立ちが現れる。
疲労の色が濃く、頬には埃と涙の跡。
しかし、その瞳を見た瞬間——フレッドの顔色が変わった。
「……あんた、オスカーのお袋じゃね?」
その言葉に、空気が凍った。
「えっ……?!」
驚いた声を上げたのはクリフとケイト、ザック、ユキヒョウ、ベガ。
女も同じように目を見開き、言葉を失う。
フレッドは確信を込めて言葉を続けた。
「間違いねぇよ。目の形、鼻の高さ、耳の形……そっくりだ。オスカーと同じだ」
女の唇が震えた。
「オスカー……? あなた、今……オスカーって……?」
「そうだ。今は俺たちの家族であり、シャイン傭兵団の一員だ」
クリフが前に出る。
「あんた、本当に——オスカーの母上か?」
女は震える声で、かすかに頷いた。
「……オスカー……生きて……るの……?」
その声には、何年もの苦痛と希望が滲んでいた。
ケイトがそっと手を伸ばし、女性の肩に触れる。
「ええ、生きてるわ。元気にね」
女の目から、ぽろりと涙が落ちた。
両手で顔を覆い、声を殺して泣く。
その肩を、ケイトが静かに支えた。
スラムの片隅、貧困と悲嘆の中に、ほんの一滴の“希望”が灯る瞬間だった。




