ポジティブ?!
王都の外れ、石畳の坂道を抜けた先にある「ガタタガ宿」。
薄汚れた外観からは想像できないほど、夕餉の灯りは温かかった。
テーブルの上には、粗末ながらも心のこもった料理が並ぶ。
だが——量が、圧倒的に足りなかった。
「……酒が足りねぇな」
ザックが木の杯を傾け、あっという間に空にする。
「飯も、もっと欲しいな」
そう言いながら、皿の底をスプーンで擦るように掻き取る。
「私たちは大量に食べるもんねぇ」
ケイトが肩をすくめ、困ったように笑う。
その笑顔は確かに可愛いが、胃袋の容量まで可愛げはない。
老主人が恐縮した様子で頭を下げた。
「申し訳ございません……当宿にはもう、これ以上の食材もお酒も残っておりませんで……」
老いた声に、どこか切実な響きがあった。
——静かな間。
そして、悪魔のように軽い口調でフレッドが言った。
「……財布、じゃなくてクリフ、金出せよ」
途端に空気が変わった。
「……また俺のことを“財布”呼ばわりしたな?」
低い声でクリフが唸る。
その目は笑っていない。
「い、いやいや誤解だって!マジで!言い間違えただけだ!」
慌てて手を振るフレッド。だが汗が滲んでいる。
「そうだぜクリフ!」
ザックが助け舟を出した。
「俺たち、家族じゃねぇか!こいつがお調子者だって知ってるだろ?!」
「だっ、誰がお調子者だっ!」
「ほらな、図星突かれてキレてんじゃねえか」
「うっせぇ!」
すぐに小競り合いになる二人。
ケイトがその間に割って入り、手を叩いた。
「ハイハイそこまで!——というわけで、お金ちょうだい」
「……おい」
「知ってるのよ? もっとお金持ってるんでしょ?」
ケイトがにっこり笑う。だがその笑みは、どこか猛禽のようだった。
「そうそう! シマのことだ…100金貨は渡してるな!」とフレッド。
クリフの眉がピクリと動く。
「ドンピシャ!」
ケイトが指を鳴らした。
「……俺の勘ではな、ユキヒョウとベガにも金が渡ってるはずだ」と言うザック。
「あら? そうなの?」
ケイトが小首をかしげる。
「ザックの勘なら間違いないわね。——出して」
ニヤニヤと笑う三人。
クリフ、ユキヒョウ、ベガは青ざめた。
「け、ケイト……これはみんなの金でな、決して遊ぶための金じゃねえんだぞ?」
クリフが慎重に言葉を選ぶ。
「ケイト嬢……シャイン傭兵団から出てるお金だよ。有意義に使わないと、後で困るんじゃないかな?」
ユキヒョウがやんわりと補足する。
「……活動費が含まれていることを理解してるよな?」
ベガが冷静に言葉を重ねる。
ケイトはにっこり微笑んだ。
——その笑顔が、一番怖い。
「もちろんわかってるわ。だから——私が管理してあげる」
「ケイトにまかせときゃ問題ねぇな!」とフレッドが即答。
「適任だな」とザックも頷く。
「そうでしょ?」
ケイトが勝ち誇ったように笑う。
結局、誰も逆らえなかった。
ケイトが差し出した革袋に、クリフが重い手で金貨を落とす。
——チャリン、チャリン。
その音が妙に響いた。
クリフから六十一金貨と三銀貨。
ベガから三十金貨。
ユキヒョウから十金貨。
三人の財布は空になった。
「ふふっ、これで全部ね」
ケイトが革袋の口を締め、両腕で抱える。
ザックとフレッドが後ろでニタ~ッと笑う。
(終わった……)
クリフの顔はまるで処刑台に立つ男のようだった。
そんな中、ポカ~ンとした表情で事の成り行きを見ていた老主人に、ケイトが声をかけた。
「お爺さん、これで食材とお酒を調達してきてくれるかしら?」
そう言って、袋から金貨を取り出し、卓上に二十枚並べる。
金貨の輝きに老主人の目が丸くなった。
「そ、そんなに……よろしいんですか?」
「ええ、今夜は少し賑やかにしたいの。お願いできる?」
ケイトは柔らかく微笑みながら言った。
「は、はい!ありがたき幸せ……!」
老主人は震える手で金貨を受け取る。
それを見届けたフレッドがぽつりと呟く。
「どうせなら、宿代も先払いしときゃいんじゃね?」
「そうね、多分……これくらいかな?」
ケイトは軽く数え、さらに十金貨を卓上に置く。
「足りなくなったら言ってね」
老主人は腰を九十度に折って感謝した。
「こんなに……ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
ケイトは優雅に頷いた。
ザックとフレッドは上機嫌で杯を掲げる。
「ケイト、お前は太っ腹だなぁ!」
「さすが俺たちのケイトだ!」
ケイトが笑って応じる。
「当然でしょ、私がいなきゃあなたたち路頭に迷うんだから」
「……ケイト嬢、完全にノッてるな」
ベガが小声で呟く。
「まぁ、ケイト嬢がご機嫌ならいいかな?」
ユキヒョウが肩をすくめる。
クリフは額を押さえながら、ため息をついた。
その夜、ガタタガ宿には笑い声と、そして香ばしい肉の匂いが満ちた。
外見はぼろぼろの宿だが、今宵ばかりは王都の高級酒場にも負けないほどの賑わいを見せた。
老主人が新たに仕入れた酒瓶を抱え、厨房から何度も往復し、息子夫婦もてんてこ舞い。
皿を片付けに来た老主人に、ザックが笑顔で声をかけた。
「爺さんたちも一杯やろうぜ! 心配すんな、ケイトの驕りだ!」
「おいおい、勝手に決めんな!」とクリフが制するも、ケイトはにっこり笑って「いいわよ」と軽く受け流す。
その一言で、宿の空気はさらに弾けた。
老主人は恐縮しながらも、妻の手を引いて隣に座る。
「こんな賑やかな夜は久しぶりです……ありがとうございます」
「感謝するのはこちらですよ。お料理、最高に美味しいわ」
ケイトが言えば、老主人の目尻がしわだらけになるほどほころんだ。
ザックとフレッドは杯を掲げ、「今宵の主役はガタタガ宿だー!」と声を揃える。
その声に誘われるように、息子夫婦も加わり、ついには全員での大宴会となった。
焼かれた肉の脂が弾け、香草の匂いが鼻をくすぐる。
卓上には果実酒、ワイン、そして地元の麦酒。
ケイトは上機嫌で歌を口ずさみ、ザックとフレッドは机を叩いて調子を合わせる。
ユキヒョウとベガは半ば呆れたようにその光景を眺めていた。
「……まぁ、こうなるよね」
「だな」
二人は小さく笑い合い、静かに杯を交わす。
老主人は感激のあまり何度も頭を下げ、老妻は「若いっていいわねぇ」と目を細めた。
息子夫婦は厨房で追加の料理を用意しながらも、楽しげな笑い声を漏らしている。
——夜が更けても、宴は終わらなかった。
王都の外れ、小さな宿の一角で、笑いが絶え間なく続く。
まるで明日が来ないかのように、誰もが今を楽しんでいた。
そして翌朝——。
差し込む朝日が、昨夜の喧騒の残り香を照らす。
テーブルの上には転がった杯、食べ残しのパン、そして床には酔いつぶれたザックとフレッドの姿。
ケイトは椅子にもたれ、満ち足りた笑顔を浮かべていた。
「ふふ……いい夜だったわ」
その声に、クリフは頭を押さえながらため息をつく。
「……任務が終わる前に破産するかもしれんな」
「同感だ」
「全くだ」
隣でユキヒョウとベガが同時に頷いた。
ケイトはすっかりご機嫌で、髪を整えながら立ち上がる。
「さて、行くわよ!」
「おっ?」
クリフが顔を上げる。
「ついにやる気を出したか?」
「王都での調査か?」とベガも続く。
だがケイトの口から出た言葉は、予想の斜め上を行った。
「へ? 今日は王都観光に行くんだけど?」
三人の頭上に「……は?」という空気が流れた。
「行くわよ、クリフ!」
「おい待て、観光って……任務は?」
「だから、観光よ。任務は明日。今日はリフレッシュの日!」
ケイトは意気揚々と荷物をまとめ始めた。
その時、背後から眠そうな声がした。
「ケイト、俺たちは娼館行ってくる。金くれ」
ザックだった。フレッドもすでに目を輝かせている。
ケイトが眉をひそめる。
「……朝からやってるの?」
「さあ? 探せばあるだろ?」
ザックが当然のように言う。
ケイトは大きくため息をつき、腰の袋から金貨を取り出す。
「そうね、王都だし……。私たちのデートの邪魔はしないでよ。夕飯までには帰ってくるのよ」
そう言って三金貨を手渡した。
「了解だ!」
ザックとフレッドは声を揃えて外へ飛び出していく。
残されたのは、ユキヒョウ、ベガの二人。
「……僕たちのこと、完全に忘れてるね」
「デートのことで頭がいっぱいだったんだろうな」
ベガはまたひとつ深いため息を漏らした。
「……なぁ、ユキヒョウ。シマにどう報告すりゃいい?」
「“元気にやってます”でいいんじゃない?」
「だな」
そして二人は顔を見合わせ、乾いた笑いをこぼした。
王都の朝は今日もにぎやかだ。
王都に到着してから三日。
その間、ケイトたちはまるで任務のことなど頭の片隅にもないかのように、同じような日々を繰り返していた。
朝はゆっくりとした朝食。
昼は王都の大通りを歩き回り、露店や市場を冷やかし、気に入った服や小物を片っ端から買い漁る。
夜は「ちょっとだけ」と言いながら宿の食堂で盛大に飲み食い。
その“ちょっとだけ”が、毎晩のように続いた。
——結果、三日目の夜には財布の中がすっからかんだった。
「……金、ねぇじゃん」
ベガが冷静に言った瞬間、ケイトはあっけらかんと笑った。
「まぁ、楽しかったからいいじゃない」
「……いや、よくないだろ」
クリフが頭を抱える。
「この三日間、何一つ任務が進んでないし、金は底を突いたし……」
「でも、楽しかったでしょ?」
ケイトのその一言に、ザックとフレッドが大きく頷く。
「だよなぁ!」
「後悔はねぇ!」
ポジティブの化身のような三人を前に、クリフ、ユキヒョウ、ベガの三人は沈黙するしかなかった。
——そして翌朝。
ガタタガ宿の前。
老主人とその家族が見送る中、ケイトたちは馬車の荷台に荷物を積み込み、笑顔で別れの挨拶をしていた。
「お世話になりました、みなさん!」
「また稼いだら来るからな!」
「そのときはもっと飲もうぜ!」
老主人は苦笑しながら手を振る。
「まったく……金の使い方を知らん連中だ」
それでもどこか嬉しそうに見えた。
悲壮感はまるでない。
彼らの表情は晴れやかで、まるで旅の目的を果たした後のように満足げだった。
一方で、クリフ、ユキヒョウ、ベガの三人の顔色は優れない。
「……やっちまったな」
「完全に」
「まさか本当に金が尽きるとは……」
どこでどう使ったのか分からないほど、消えるように金が減っていた。
馬車の荷台で、三人は現実的な問題に直面していた。
「次の拠点、どうするんだい?」とユキヒョウが問う。
「とりあえず、宿を探す。……格安のところをな」とクリフが答える。
ベガが馬の手綱を握りながらため息をつく。
「そういう場所は……大体、治安が悪い」
その言葉通り、彼らがたどり着いたのは王都の外縁部、貧民街——俗に“スラム”と呼ばれる地区だった。
二頭立ての馬車が二台。
石畳は途切れ、地面はぬかるみ、空気は埃と油と酒の臭いが入り混じっている。
建物の壁はひび割れ、窓には板が打ち付けられ、通りを歩く人々の目はどこか鋭い。
「格安の宿なら、この辺しかねぇ」とベガが言いながら進む。
だが、予想通りというべきか。
彼らが路地を進むたびに、周囲の視線が鋭くなっていった。
ひと目で「金を持っていそうな旅人」と分かる格好をしていたのだ。
そして——最初の襲撃があった。
裏路地から三人組のチンピラが飛び出す。
「よぉ、観光かい? 通行料払ってもらおうか!」
フレッドはグラディウスを抜く。
「ニ秒で終わらせてやるよ」
結果、ニ秒もかからなかった。
その後も道中で似たような連中が三度。
刃物を突きつける者、棒を振りかざす者、馬ごと馬車を奪おうとする者。
しかし、シャイン傭兵団の面々にとって、それらは「虫払い」にもならない。
ユキヒョウは無駄のない動きで一人を沈め、ベガは手綱を離さずに蹴り一発で相手を吹き飛ばす。
ザックとフレッドは笑いながら「おう、久しぶりの運動だな!」と楽しんでさえいた。
最後の一団を片付けたとき、ケイトは馬車の上で軽く髪を整えながら言った。
「……四回も襲われるなんて、ほんと人気者ね」
「違う意味でな」とクリフがぼやく。
ユキヒョウは冷ややかな目で周囲を見渡し
「これは、まともな宿は期待できないね」
「ま、屋根があって寝られりゃ十分だろ」とザックが笑う。
ベガは静かに馬の首を撫で「……何とか金を作らないとな」と呟いた。
その言葉に、クリフが頷く。
「今度こそ“仕事”に戻るんだ。——贅沢はもうおしまいだ」
けれど、ケイトの口元にはまだ楽しげな笑みが残っていた。
「いいじゃない、スラムも王都の一部よ。……ここで何か見つかるかも」
まるで苦境すら冒険の一幕のように捉えるその前向きさに、
クリフは再びため息をつくしかなかった。
泥道を進む馬車の車輪が、ゆっくりと軋んだ音を立てる。
曇った空の下、貧民街の細い路地を抜ける彼らの姿は、どこか滑稽で、そして少しだけ逞しかった。




