老学者と深淵の森6
橙の光がシマたちの顔を照らす中、ジトーが口を開いた。
「……問題は、狼たちだな。」
その低い声に、誰もがうなずく。
「落ちた場所は、そう遠くねえはずだ。」
シマが火越しに顔を上げる。
「三日三晩歩いたとはいえ——あの時は子どもだったしな。体力もなく、栄養も足りなかった。不慣れな森をふらつきながら進んだ。……今の俺たちなら、一日もあれば着く距離だろう。」
ヤコブが顎を撫でて頷く。
「場所は覚えて……いや、愚問じゃったな。」
その言葉に、シマは短くうなずいた。
オスカーが焚き火を見つめながら言う。
「狼たちがどう動くかだね……。一日目の夜、あそこまで近づかれているとは思わなかったよ。」
「気配の殺し方が尋常じゃねえ。」とジトーが唸る。
ロイドが補足するように言葉を続けた。
「風を読む力……いや、嗅覚と言った方が正確だろうね。風向きの変化で、こちらの位置を正確に把握してる。あの感知力は、もはや生物の域を超えてるよ。」
「認めるぜ。」
トーマスが腕を組み、苦い笑みを浮かべた。
「あのボスは俺たちと同等か、それ以上の存在だ。」
ヤコブが少し肩をすくめ、深く息を吐く。
「……皮肉な話じゃな。お主らは“人の世界”では絶対的な力を持つというのに……この森では、それ以上の存在が“獣”とはのう。」
焚き火の火がはぜ、誰もが黙り込む。
森の奥から、遠く狼の遠吠えが聞こえた。
低く長い声が、夜の空気を震わせる。
トーマスが再び口を開く。
「対策は考えてあるのか?」
シマは腕を組み、ゆっくりと立ち上がった。
「……あの群れが一斉に襲ってきたら、確かに厄介だ。」
火を見下ろしながら、言葉を重ねる。
「だが木に登ればいい。あいつらは地上での動きこそ異常だが、高所までは対応が鈍い。木の上に簡易的な休憩所を作るのも一つの手だ。」
「それで凌げるか?」とジトー。
「凌ぐだけじゃねえ。」
シマの目が鋭く光った。
「俺たちにはオスカーがいる。矢が尽きることはない。幾らでも補充できる。」
「……それに、あまりやりたくはねえが——」
シマが焚き火に目を落とす。
「枝葉を切って火をかけるのも一つの方法だ。煙と炎は奴らの嗅覚を鈍らせる。」
「長期戦になったら水の確保が問題だね。飲料は多めに持っていこう。」
と言うロイド。
シマが頷く。
沈黙ののち、ジトーが苦笑を浮かべながら言った。
「……お前だけは敵に回したくねえわ。」
その言葉に場が少し和らぎ、オスカーが吹き出す。
焚き火の光が彼らの表情を照らす。
誰もが緊張を抱えながらも、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。
静まり返った夜の空気を裂くように、ヤコブの声が低く響いた。
「……あのボスじゃが、この家の防柵で防げるじゃろうか?」
シマが腕を組み、少し間を置いて答えた。
「…無理じゃね? あいつなら飛び越えられると思う。」
その言葉にジトーが鼻で笑いながら言った。
「だろうな。だが、一頭だけが飛び越えてきたところで意味はねえ。むしろ、飛び越えてきたら俺たちにとっちゃ好都合だ。囲いの内側なら動きは制限される。」
「……あのボスがそんな賭けをするとは思えないね。」
オスカーが穏やかな声で言う。彼は今でもその狼の“目”を思い出していた。
「……“目”じゃな。」
ヤコブが焚き火の向こうでゆっくりと呟いた。
「確かに、理性と知性を感じたわい…素人目じゃがのう……。それに、敵意を感じなかった。あやつ、こちらを見てはいたが……襲う気配はまるでなかった。」
「……狼は縄張り意識が強い。それに家族愛も強い。」
シマが低く言う。
「俺たちは群れの狼を三頭、倒した。それでも襲ってこなかった。……その理由は、何だ?」
焚き火の音だけが響く。
しばし沈黙ののち、ロイドが言葉を継いだ。
「僕たちの周りを囲むように動いたのも気になるね。まるで、追い立てるでもなく、観察していたような……。」
「獲物を狩るときに、そういう動きをすることがある。」
シマの目がわずかに細められる。
「ただ、俺たちが獲物だってんなら、おかしい。あの後、襲ってこなかったんだからな。」
「ふむう……わからん。」
ヤコブが顎を撫でる。
「少なくとも、何か目的があっての行動じゃろう。無駄な動きではなかった……あの目を見ておったら、そう思えてならん。」
その時——
「!!ッ……!」
誰かの息を呑む音が響いた。
一瞬で空気が変わる。
シマが立ち上がり、腰の剣を抜いた。
ジトー、トーマス、オスカー、ロイドも即座に動く。
男性棟の戸が開け放たれ、冷たい夜気が流れ込む。
森の向こう、闇の中で“何か”が蠢いていた。
いや、蠢くというより——静かに、そこに“立っていた”。
防柵からおよそ三十メートル。
漆黒の闇の中、細く淡い月光を受けた巨大な影が浮かび上がる。
全身を灰黒の毛に覆われた、あの“ボス”だ。
他の群れの気配はない。
その巨体は悠然と立ち、金色の双眸がじっとこちらを見つめていた。
「……来やがったか。」
ジトーが低く唸るように言う。
しかし、その狼は——動かない。
敵意も、威嚇の構えもない。
ただ、静かに、何かを咥えている。
「……あれは……?」
オスカーが目を凝らす。
月光に照らされ、白く輝くものが見えた。
ボスの口に咥えられている“何か”。
「……白い……何かを……咥えてる?」
ロイドの声がかすれる。
その白は、夜の闇にあまりにも異質だった。
生々しい、だが穢れのない白。
シマたちは息を潜め、ただその巨影を見つめていた。
ヤコブが、震える声で呟く。
「……何を……しに来たのじゃ……?」
その問いに応えるように、あの“ボス”がわずかに頭を下げた。
大きな口に咥えていた白いものを、ゆっくりと、まるで“壊さぬように”地面へと下ろしていく。
牙の一つひとつに殺意も緊張もなく、そこにあったのは——確かな“意志”だった。
カサリ、と草が擦れる音。
周囲の闇を押しのけるかのように、白がそこだけ浮かび上がっていた。
次の瞬間、ボスはシマたちに背を向け、ゆるやかに森の奥へと歩き出した。
振り返ることもなく、声を上げることもなく。
ただ、風と同化するようにその姿を闇に溶かしていく。
足音ひとつ、残さなかった。
まるで、最初からそこに存在しなかったかのように——。
「……確かめよう」
シマが小さく言うと、全員が頷いた。
防柵の外へ出る。
夜露を吸った草が足に絡みつく。
空気が冷たい。
シマが立ち止まり、目を細めた。
小さく丸まった影。柔らかな毛に覆われた、小さな命。
「……狼の、赤ちゃん……?」
ロイドが息を呑む。
近づくと、その小さな身体はほとんど動かない。
胸の上下も浅く、冷たさが肌を通じて伝わるほど。
ヤコブが思わず口元を覆った。
「……死んで……いや、まだ息がある……!」
ロイドが膝をつき、耳を寄せる。
「弱い……けど、生きてる!」
シマが無言で膝をつき、その小さな体を両腕で抱き上げた。
その瞬間——「……クゥ……」
かすかに、小さな声がした。
一声だけ。
震えるような、儚い声。
その声を聞いた瞬間、シマの腕に力がこもる。
「……生きてる。」
一同の視線が交錯する。
夜の静けさの中で、その小さな命の温もりだけが確かだった。
「……急げ、暖めるんだ。」
シマの声に、皆が動き出す。
家の中へ飛び込むように戻ると、囲炉裏の火がぼんやりと灯っていた。
ヤコブが防寒着を、オスカーが火の残りを掻き立てる。
そのわずかな熱を頼りに、彼らは小さな命を囲んだ。
「ミルクは……?」
「ない。」
シマの即答に、場が一瞬凍る。
「代わりになるもの……何か……!」
ロイドが辺りを見回す。
「鉄鍋に、まだ少しブラウンクラウンのスープが残ってる。」
オスカーが指をさす。
「……あれを。」
シマの声が低く響いた。
ロイドが小皿を取り出し、スープを少し移す。
香草と茸の匂いが立ちのぼる。
慎重に、指先で狼の口元に運ぶと——「……ク、クゥ……」
小さな舌が、ゆっくりと動いた。
次の瞬間、その子はスープを舐め始めた。
ひと口、ふた口、そして——がむしゃらに飲み始める。
まるで、生を繋ぎ止めるために、
この一滴一滴に命を懸けているように。
「……飲んだ……!」
オスカーが声を上げる。
ヤコブが目頭を押さえ、震える声で言った。
「……よくぞ、生きておった……。」
「まだ気は抜けねえ。」
シマが静かに言い、赤子を包む布をさらに重ねた。
「スープをもう少し作る。ブラウンクラウンの株がまだ少し残ってるな。」
ロイドが頷く。
「ある。少しだけだけど……あの効果が本物なら、少しでも力になるはずだ。」
「……わしも手伝おう。」
ヤコブが立ち上がり、震える手で鍋の蓋を開けた。
「この命を……死なせるわけにはいかん。」
囲炉裏の炎が、柔らかく部屋の隅々を照らしていた。
床に置かれた布の上、小さな白い命が身を震わせている。
まだ目は開かず、耳もぴくりとも動かない。
小さな鼻が弱々しくひくつき、かすかに息を吸っては吐くたび、その胸が小さく上下する。
その度に、囲炉裏の火がちらちらと反射しては、命の証を確かめるかのように揺れた。
シマがそっとその小さな体を包み込む。
冷え切った体に人の体温が伝わると、赤子の震えがわずかに弱まり、やがて穏やかな呼吸に変わっていった。
誰も言葉を発さない中、シマがぽつりと呟いた。
「……アルビノ」
ロイドが眉をひそめる。
「アルビノ?」
「遺伝子の変異だ。身体の色素が欠乏してる。人なら視力が弱く、寿命も短いって言われてる。日光にも弱い……動物の場合は、正直わからないな」
シマの声は穏やかだったが、その目はどこか遠くを見つめていた。
「……初めから、この仔を預けるに値するか見定めてたのかもしれないね」
オスカーが静かに呟く。
ヤコブが頷く。
「うむ、あの群れ……お主らを観察し始めたのは昨日今日ではないはずじゃ。人の目では気づけんような距離から、ずっと見ておったのじゃろう」
「索敵、気配の消し方、隊列の組み方……全部、俺たちを見て学んだんだろうな」
ジトーが低く言い
ロイドが続けた。
「僕たちは、強者として認められたんだよ。だから、この仔を託した…一縷の望みに賭け…」
「……一日目の夜。あれは、最終確認だったのか?」
トーマスが拳を握りしめる。
「仲間を犠牲にしてまで……」
シマは深く息を吸い、静かに告げた。
「……対話ができねぇ以上、議論しても仕方ねえ。今は、この仔が生き延びることだけを考える。予定は変えない。明日は採取と狩り。明後日、“始まりの地”へ行く」
夜更け。
外は虫の声すらまばらで、森の奥から風がかすかに枝葉を揺らす音だけが届く。
囲炉裏の火はもう小さくなり、赤く燻る炭が淡く室内を照らしていた。
ヤコブはテーブルの上に用紙を並べ、黒炭を手に静かに筆を走らせていた。
焚き火の光に照らされたその顔は真剣そのもの。
紙面にはぎっしりと観察と考察が並び、文字の端々には震えるような筆圧が残っている。
――深淵の森 六日目の夜。
我らの家は、砦となりつつある。
外敵は人ではない。シマたちと同等、あるいはそれ以上の力を秘めた存在——。
ヤコブは黒炭を削ったペンを止め、息を整える。
脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景。
闇を切り裂いて現れた巨大な影。
闇夜の中に浮かび、静かにこちらを見据えていた“ボス”の双眸。
彼は再び書き始める。
――突然変異体と思しき白き狼の赤子。
群れの長が自らの口で運び、敵地とも言える我らの前に差し出した。
衰弱死寸前のその仔を、なぜ人間に託したのか?
ヤコブは黒炭先を止め、窓の外の闇を見つめた。
森の向こうには、あの群れがまだ潜んでいる。
彼らはただの獣ではない。理解している。考えている。選択している。
――ロイドが言った。
「僕たちは強者として認められたんだよ。だから、この仔を託した」
なるほど、それも一理ある。
群れの中では、衰弱した赤子は生きられぬ。
ならば“人”に賭ける。一縷の望みに。
ヤコブは目を閉じ、苦笑した。
「……強者と認め、なお人に託すか……皮肉な話じゃ」
黒炭を置き、ノートの余白に小さく書き添える。
――この仔が、生きること。それこそが、あの群れの意思の証明である。
囲炉裏の火が消え、最後の火の粉がぱちりと弾けた。
森の闇が、まるで彼の言葉を聞いているかのように、深く静まり返っていた。




