表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光を求めて  作者: kotupon


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

403/448

老学者と深淵の森6

橙の光がシマたちの顔を照らす中、ジトーが口を開いた。

「……問題は、狼たちだな。」

その低い声に、誰もがうなずく。

「落ちた場所は、そう遠くねえはずだ。」


シマが火越しに顔を上げる。

「三日三晩歩いたとはいえ——あの時は子どもだったしな。体力もなく、栄養も足りなかった。不慣れな森をふらつきながら進んだ。……今の俺たちなら、一日もあれば着く距離だろう。」


ヤコブが顎を撫でて頷く。

「場所は覚えて……いや、愚問じゃったな。」

その言葉に、シマは短くうなずいた。


オスカーが焚き火を見つめながら言う。

「狼たちがどう動くかだね……。一日目の夜、あそこまで近づかれているとは思わなかったよ。」


「気配の殺し方が尋常じゃねえ。」とジトーが唸る。


ロイドが補足するように言葉を続けた。

「風を読む力……いや、嗅覚と言った方が正確だろうね。風向きの変化で、こちらの位置を正確に把握してる。あの感知力は、もはや生物の域を超えてるよ。」


「認めるぜ。」

トーマスが腕を組み、苦い笑みを浮かべた。

「あのボスは俺たちと同等か、それ以上の存在だ。」


ヤコブが少し肩をすくめ、深く息を吐く。

「……皮肉な話じゃな。お主らは“人の世界”では絶対的な力を持つというのに……この森では、それ以上の存在が“獣”とはのう。」


焚き火の火がはぜ、誰もが黙り込む。

森の奥から、遠く狼の遠吠えが聞こえた。

低く長い声が、夜の空気を震わせる。


トーマスが再び口を開く。

「対策は考えてあるのか?」


シマは腕を組み、ゆっくりと立ち上がった。

「……あの群れが一斉に襲ってきたら、確かに厄介だ。」

火を見下ろしながら、言葉を重ねる。

「だが木に登ればいい。あいつらは地上での動きこそ異常だが、高所までは対応が鈍い。木の上に簡易的な休憩所を作るのも一つの手だ。」


「それで凌げるか?」とジトー。


「凌ぐだけじゃねえ。」

シマの目が鋭く光った。

「俺たちにはオスカーがいる。矢が尽きることはない。幾らでも補充できる。」


「……それに、あまりやりたくはねえが——」

シマが焚き火に目を落とす。

「枝葉を切って火をかけるのも一つの方法だ。煙と炎は奴らの嗅覚を鈍らせる。」


「長期戦になったら水の確保が問題だね。飲料は多めに持っていこう。」

と言うロイド。


シマが頷く。


沈黙ののち、ジトーが苦笑を浮かべながら言った。

「……お前だけは敵に回したくねえわ。」


その言葉に場が少し和らぎ、オスカーが吹き出す。

焚き火の光が彼らの表情を照らす。

誰もが緊張を抱えながらも、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。


静まり返った夜の空気を裂くように、ヤコブの声が低く響いた。

「……あのボスじゃが、この家の防柵で防げるじゃろうか?」


シマが腕を組み、少し間を置いて答えた。

「…無理じゃね? あいつなら飛び越えられると思う。」


その言葉にジトーが鼻で笑いながら言った。

「だろうな。だが、一頭だけが飛び越えてきたところで意味はねえ。むしろ、飛び越えてきたら俺たちにとっちゃ好都合だ。囲いの内側なら動きは制限される。」


「……あのボスがそんな賭けをするとは思えないね。」

オスカーが穏やかな声で言う。彼は今でもその狼の“目”を思い出していた。


「……“目”じゃな。」

ヤコブが焚き火の向こうでゆっくりと呟いた。

「確かに、理性と知性を感じたわい…素人目じゃがのう……。それに、敵意を感じなかった。あやつ、こちらを見てはいたが……襲う気配はまるでなかった。」


「……狼は縄張り意識が強い。それに家族愛も強い。」

シマが低く言う。

「俺たちは群れの狼を三頭、倒した。それでも襲ってこなかった。……その理由は、何だ?」


焚き火の音だけが響く。

しばし沈黙ののち、ロイドが言葉を継いだ。

「僕たちの周りを囲むように動いたのも気になるね。まるで、追い立てるでもなく、観察していたような……。」


「獲物を狩るときに、そういう動きをすることがある。」

シマの目がわずかに細められる。

「ただ、俺たちが獲物だってんなら、おかしい。あの後、襲ってこなかったんだからな。」


「ふむう……わからん。」

ヤコブが顎を撫でる。

「少なくとも、何か目的があっての行動じゃろう。無駄な動きではなかった……あの目を見ておったら、そう思えてならん。」


その時——


「!!ッ……!」

誰かの息を呑む音が響いた。


一瞬で空気が変わる。

シマが立ち上がり、腰の剣を抜いた。

ジトー、トーマス、オスカー、ロイドも即座に動く。

男性棟の戸が開け放たれ、冷たい夜気が流れ込む。


森の向こう、闇の中で“何か”が蠢いていた。

いや、蠢くというより——静かに、そこに“立っていた”。


防柵からおよそ三十メートル。

漆黒の闇の中、細く淡い月光を受けた巨大な影が浮かび上がる。

全身を灰黒の毛に覆われた、あの“ボス”だ。

他の群れの気配はない。

その巨体は悠然と立ち、金色の双眸がじっとこちらを見つめていた。


「……来やがったか。」

ジトーが低く唸るように言う。


しかし、その狼は——動かない。

敵意も、威嚇の構えもない。

ただ、静かに、何かを咥えている。


「……あれは……?」

オスカーが目を凝らす。


月光に照らされ、白く輝くものが見えた。

ボスの口に咥えられている“何か”。


「……白い……何かを……咥えてる?」

ロイドの声がかすれる。


その白は、夜の闇にあまりにも異質だった。

生々しい、だが穢れのない白。


シマたちは息を潜め、ただその巨影を見つめていた。


ヤコブが、震える声で呟く。

「……何を……しに来たのじゃ……?」


その問いに応えるように、あの“ボス”がわずかに頭を下げた。

大きな口に咥えていた白いものを、ゆっくりと、まるで“壊さぬように”地面へと下ろしていく。

牙の一つひとつに殺意も緊張もなく、そこにあったのは——確かな“意志”だった。


カサリ、と草が擦れる音。

周囲の闇を押しのけるかのように、白がそこだけ浮かび上がっていた。


次の瞬間、ボスはシマたちに背を向け、ゆるやかに森の奥へと歩き出した。

振り返ることもなく、声を上げることもなく。

ただ、風と同化するようにその姿を闇に溶かしていく。


足音ひとつ、残さなかった。

まるで、最初からそこに存在しなかったかのように——。


「……確かめよう」

シマが小さく言うと、全員が頷いた。


防柵の外へ出る。

夜露を吸った草が足に絡みつく。

空気が冷たい。


シマが立ち止まり、目を細めた。


小さく丸まった影。柔らかな毛に覆われた、小さな命。


「……狼の、赤ちゃん……?」

ロイドが息を呑む。


近づくと、その小さな身体はほとんど動かない。

胸の上下も浅く、冷たさが肌を通じて伝わるほど。

ヤコブが思わず口元を覆った。


「……死んで……いや、まだ息がある……!」

ロイドが膝をつき、耳を寄せる。

「弱い……けど、生きてる!」


シマが無言で膝をつき、その小さな体を両腕で抱き上げた。


その瞬間——「……クゥ……」

かすかに、小さな声がした。


一声だけ。

震えるような、儚い声。


その声を聞いた瞬間、シマの腕に力がこもる。

「……生きてる。」


一同の視線が交錯する。

夜の静けさの中で、その小さな命の温もりだけが確かだった。


「……急げ、暖めるんだ。」

シマの声に、皆が動き出す。


家の中へ飛び込むように戻ると、囲炉裏の火がぼんやりと灯っていた。

ヤコブが防寒着を、オスカーが火の残りを掻き立てる。

そのわずかな熱を頼りに、彼らは小さな命を囲んだ。


「ミルクは……?」


「ない。」

シマの即答に、場が一瞬凍る。


「代わりになるもの……何か……!」

ロイドが辺りを見回す。


「鉄鍋に、まだ少しブラウンクラウンのスープが残ってる。」

オスカーが指をさす。


「……あれを。」

シマの声が低く響いた。


ロイドが小皿を取り出し、スープを少し移す。

香草と茸の匂いが立ちのぼる。


慎重に、指先で狼の口元に運ぶと——「……ク、クゥ……」


小さな舌が、ゆっくりと動いた。

次の瞬間、その子はスープを舐め始めた。

ひと口、ふた口、そして——がむしゃらに飲み始める。


まるで、生を繋ぎ止めるために、

この一滴一滴に命を懸けているように。


「……飲んだ……!」

オスカーが声を上げる。


ヤコブが目頭を押さえ、震える声で言った。

「……よくぞ、生きておった……。」


「まだ気は抜けねえ。」

シマが静かに言い、赤子を包む布をさらに重ねた。

「スープをもう少し作る。ブラウンクラウンの株がまだ少し残ってるな。」


ロイドが頷く。

「ある。少しだけだけど……あの効果が本物なら、少しでも力になるはずだ。」


「……わしも手伝おう。」

ヤコブが立ち上がり、震える手で鍋の蓋を開けた。

「この命を……死なせるわけにはいかん。」


囲炉裏の炎が、柔らかく部屋の隅々を照らしていた。

床に置かれた布の上、小さな白い命が身を震わせている。

まだ目は開かず、耳もぴくりとも動かない。

小さな鼻が弱々しくひくつき、かすかに息を吸っては吐くたび、その胸が小さく上下する。

その度に、囲炉裏の火がちらちらと反射しては、命の証を確かめるかのように揺れた。


シマがそっとその小さな体を包み込む。

冷え切った体に人の体温が伝わると、赤子の震えがわずかに弱まり、やがて穏やかな呼吸に変わっていった。


誰も言葉を発さない中、シマがぽつりと呟いた。

「……アルビノ」


ロイドが眉をひそめる。

「アルビノ?」


「遺伝子の変異だ。身体の色素が欠乏してる。人なら視力が弱く、寿命も短いって言われてる。日光にも弱い……動物の場合は、正直わからないな」

シマの声は穏やかだったが、その目はどこか遠くを見つめていた。


「……初めから、この仔を預けるに値するか見定めてたのかもしれないね」

オスカーが静かに呟く。


ヤコブが頷く。

「うむ、あの群れ……お主らを観察し始めたのは昨日今日ではないはずじゃ。人の目では気づけんような距離から、ずっと見ておったのじゃろう」


「索敵、気配の消し方、隊列の組み方……全部、俺たちを見て学んだんだろうな」

ジトーが低く言い


ロイドが続けた。

「僕たちは、強者として認められたんだよ。だから、この仔を託した…一縷の望みに賭け…」


「……一日目の夜。あれは、最終確認だったのか?」

トーマスが拳を握りしめる。

「仲間を犠牲にしてまで……」


シマは深く息を吸い、静かに告げた。

「……対話ができねぇ以上、議論しても仕方ねえ。今は、この仔が生き延びることだけを考える。予定は変えない。明日は採取と狩り。明後日、“始まりの地”へ行く」



夜更け。

外は虫の声すらまばらで、森の奥から風がかすかに枝葉を揺らす音だけが届く。

囲炉裏の火はもう小さくなり、赤く燻る炭が淡く室内を照らしていた。


ヤコブはテーブルの上に用紙を並べ、黒炭を手に静かに筆を走らせていた。

焚き火の光に照らされたその顔は真剣そのもの。

紙面にはぎっしりと観察と考察が並び、文字の端々には震えるような筆圧が残っている。


――深淵の森 六日目の夜。

我らの家は、砦となりつつある。

外敵は人ではない。シマたちと同等、あるいはそれ以上の力を秘めた存在——。


ヤコブは黒炭を削ったペンを止め、息を整える。

脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景。

闇を切り裂いて現れた巨大な影。

闇夜の中に浮かび、静かにこちらを見据えていた“ボス”の双眸。

彼は再び書き始める。


――突然変異体と思しき白き狼の赤子。

群れの長が自らの口で運び、敵地とも言える我らの前に差し出した。

衰弱死寸前のその仔を、なぜ人間に託したのか?


ヤコブは黒炭先を止め、窓の外の闇を見つめた。

森の向こうには、あの群れがまだ潜んでいる。

彼らはただの獣ではない。理解している。考えている。選択している。


――ロイドが言った。

「僕たちは強者として認められたんだよ。だから、この仔を託した」

なるほど、それも一理ある。

群れの中では、衰弱した赤子は生きられぬ。

ならば“人”に賭ける。一縷の望みに。


ヤコブは目を閉じ、苦笑した。

「……強者と認め、なお人に託すか……皮肉な話じゃ」

黒炭を置き、ノートの余白に小さく書き添える。


――この仔が、生きること。それこそが、あの群れの意思の証明である。


囲炉裏の火が消え、最後の火の粉がぱちりと弾けた。

森の闇が、まるで彼の言葉を聞いているかのように、深く静まり返っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ