老学者と深淵の森5
三日間に及ぶ作業の末、深淵の森の静寂の中に、ひとつの“砦”が築かれつつあった。
霧が漂い、湿った土の匂いが濃く立ち込める早朝、まだ薄暗い空の下で、シマたちはすでに動いていた。
彼らが取り掛かったのは、家とその周囲を囲う防柵の再構築——これまでのものよりも、遥かに堅牢で、侵入者を寄せつけない構造を目指しての作業だった。
防柵の高さは四メートル。
伐採してきた丸太を選別し、根元の太い部分を基礎に据える。
オスカーが木の繊維の向きや水分の残り具合を見極めながら、一本一本の配置を決めていく。
「この木はまだ若い。湿ってるし、強度が出るまで少しかかる。こっちの方がいいよ。」
そう言って、手際よく木を並べる。
「足場組むぞ!」とシマの声が響く。
トーマスとジトーが太い丸太を運び込み、ロイドが蔦を使って結束していく。
足場を組み、そこから上部の杭を打ち込む作業が始まった。
トーマスは肩に担いだ、ウォーハンマーを振り上げ、振動を吸収しながら、渾身の力で太い木杭を打ち込んでいく。
「……ッしゃあ! 入ったぞ!」
金属が木を割る音、打ち込まれた衝撃で鳥が飛び立つ音が、森にこだました。
やがて防柵の外側には、無数の逆茂木が取り付けられていく。
シマが指示を出しながら、長短を組み合わせてランダムに配置する。
「長いのは外側に、短いのは低い位置。獣が突っ込んでも抜けられないように——角度を変えろ、もっと鋭く!」
オスカーが削った先端は、触れれば皮膚が裂けるほど鋭い。
地面にも、これらの逆茂木をランダムに差し込む。
踏み込めば足を取られ、倒れ込めば串刺しになる配置だ。
防柵の周りに、まるで有刺鉄線のような“木の罠”が広がっていく。
川へと続く裏手の防柵には、さらに工夫が凝らされた。
シマの指示で、上部に10センチ間隔で木材を横に通す構造が採用される。
しかし、問題は資材だった。
釘が足りない。
そこで、シマが代案を出した。
「このまま無理に打たずに、木を組み合わせて固定しよう。鳥居の形で支えればいい。
「鳥居?」とトーマスが首をかしげる。
シマは丸太を二本立て、その上に横木を渡して見せた。
「こうやって交差点を作る。上に渡す木を噛ませて力を逃がす。釘の代わりに縄で締めれば十分だ。」
「なるほどな……シマ、やっぱお前は頭が回るぜ。」とジトーが笑う。
その提案をもとに、柵の上部はまるで連なる鳥居のような形になった。
オスカーがは全体の指揮を取りながらも、自ら斧を手に取り、土を掘り、杭を打ち込む。
「少しでも傾いてたら全部やり直しだからね。気を抜かないで。」
声を荒げることはなくとも、その一言に皆が背筋を伸ばした。
三日目の夕方、ようやく最後の一本が打ち終わった。
沈みかけた陽の光が柵を照らし、木の表面が黄金色に輝く。
高さ四メートル、外側には無数の逆茂木、内側には強固な支柱。
川辺の防柵もすべて繋がり、家を完全に囲う形となっていた。
夕陽が森の木々の隙間から差し込み、赤く染まった光が川面をきらめかせていた。
三日間の防柵づくりを終えたシマたちは、すっかり汗と土にまみれ、息を吐くたびに疲労の熱がこもるような夕刻を迎えていた。
「よし、ひと浴びしてくるか。」
そう言って、シマが笑うと、誰からともななくブーツを脱ぎ、服を脱ぎ始める。
やがて、森の奥の静けさの中に、男たちの笑い声と水音が響き渡った。
全員、素っ裸で川の中へ一歩ずつ踏み出していく。
ジトーは頭から水を浴びせ、トーマスは腰まで浸かると「生き返る~っ!」と叫んだ。
ロイドとオスカーは静かに水をかけ合いながらも、口元に笑みを浮かべている。
ヤコブもまた裸で川に立っていた。
「うむ、こうして全身で自然を感じるのも悪くないのう!」
胸を張るヤコブ。
誰もが目を丸くし、次の瞬間に大笑いした。
そんな中、ジトーがふと思いついたように言った。
「ついでに魚、獲っちまおうぜ。汗を流すのと晩飯、二つ同時にってな!」
その言葉に皆の目が輝いた。
即席の追い込み漁が始まる。
シマが手早く指示を出す。
「ロイドとオスカーは上流側。トーマス、ジトーは下流を塞げ。ヤコブ……服を使って魚を追い込むんだ。」
「服を…? どう使うんじゃ?」と首をかしげるヤコブ。
トーマスが笑いながら説明した。
「こうだよ。服の両端を足の親指と人差し指で掴んで、両手でも角を広げる。川を横切るようにして魚を追い込むんだ。」
「ふむ、器用じゃのう…やってみるかの。」
ヤコブは水の中でよろよろと服を広げ——
「のわあっ!!!」
その瞬間、服に川の流れの抵抗をまともに受けて、派手にバランスを崩した。
ずるりと足を取られ、腰から水に沈む。
「ヤコブさーん!」
オスカーが駆け寄ると、ヤコブは浅瀬で座り込んでいた。
「ふぃ~……浅瀬でよかったわい……。」
その姿にジトーは腹を抱えて笑う。
「ちゃんと踏ん張れよ!足元を見てな!」
「わかっておるわい! 同じ失敗は二度とせん!」
水を跳ね飛ばしながら返すヤコブ。
やがて、みんなで川の流れを囲むようにして追い込み、魚たちはパシャパシャと跳ねた。
オスカーの服の中に数匹が入り込み、ロイドが両手で掬い上げる。
「魚も湯浴みも両得じゃな!」
ヤコブが嬉しそうに笑った。
陽がすっかり沈むころ、彼らはすっかり冷えた身体を拭い、濡れた髪を拭きながら男性棟へと戻った。
灯された囲炉裏の火が、濡れた肌を照らし、赤い光の中で湯気が立ちのぼる。
「いやあ、楽しかったのう!」
パンツ一丁のヤコブが、笑いながら背中を伸ばす。
その身体は以前よりも明らかに締まっており、腕や肩の筋が浮かんでいた。
「ヤコブさん、大分筋肉ついてきたんじゃないですか?」
オスカーが感心したように言う。
「出逢った頃はヒョロヒョロの爺だったのにな!」とジトーが茶化す。
「じじい言うな!…ダンディーな爺様に若いおなごもメロメロじゃろうな!」
「それはない」
ジトー・トーマス・オスカーの三人が声をそろえて即答。
「むう……お主らキッパリ言わんでもええじゃろうに……!」
ヤコブがむくれて見せると、全員が爆笑した。
その笑い声の中、扉が開いた。
「お前たち、まだそんな格好か。」
入ってきたのはシマとロイドだった。
シマの手には鉄鍋、ロイドの手には木皿に盛られた焼き魚とブラウンクラウン。
湯気とともに、芳ばしい香りが広がった。
「女性棟の調理場で作ってきた。こっちの鉄鍋はもう煮えてるな?」とシマが訊く。
「おっと、話に夢中になってたぜ……大丈夫、湯は沸騰してる。」とジトーが言う。
シマが持ってきた鉄鍋の中を覗くと、そこにはブラウンクラウンのスープ。
濃い黄金色の液体の中に、香草と茸のかけらが浮かび、湯気に混じって独特の芳香が立ちのぼる。
ロイドが持つ皿の上には、皮を香ばしく焼いた焼き魚にブラウンクラウンの身。
さらに、傍らの籠にはふっくらと焼かれたパン。
「ブラウンクラウンのスープを使ったラーメン……楽しみだね!」
オスカーが目を輝かせた。
「んじゃあ、早速、乾麺をほぐしていくか。」
トーマスが湯に麺を投げ入れる。
「麺は硬めがいいよ。ブラウンクラウンのスープ、また温めるから。」とロイド。
「そうじゃな! スープは熱くなくてはのう!」
ヤコブが笑い、フォークを手にした。
囲炉裏の上で、鉄鍋がぐつぐつと音を立てる。
香ばしい湯気が部屋いっぱいに広がり、茸と香草の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
ブラウンクラウンのスープをベースにした、シャイン傭兵団特製——いや、“奇跡の一杯”とも呼べるラーメンが出来上がった。
ロイドが木椀によそい、シマが手際よく麺をほぐす。
黄金色に輝くスープの表面には油の膜が薄く張り、湯気の向こうに浮かぶ細麺が艶めいている。
香草の緑が彩りを添え、鹿の干し肉を炙った薄切りがトッピングとして乗せられた。
「では——」
シマの一言で、全員が一斉に手を合わせる。
「いただきます!」
まず、ヤコブが箸を取った。
慎重に麺をすくい、ずずっと音を立てて啜る。
口の中に広がった瞬間、目を見開いた。
「……おほッ!! こりゃあ……旨いっ!!」
震える声が漏れる。
「ヤコブ・スペシャルを……はるかに凌駕する味じゃッ!!」
そう叫んで、彼はまた麺を啜った。
スープが唇を焼くほど熱いのに、フォークの動きは止まらない。
「芳醇でいて、まろやか……しかも、どこか身体の芯から湧き上がるような力強さを感じるのう!」
老学者の声が、湯気の向こうで響いた。
ジトーも一口啜る。
「ズズッ……ッ! ……ヤベぇ……なんだこれ……!」
目を細め、舌の上でスープを転がす。
「こんな旨いラーメン食っちまったら……普通のラーメンじゃ物足りねえぞ……!」
その瞬間、全員の手が止まった。
フォークが鍋の上で静止し、誰もがシマを見る。
「……今日一日だけの、スペシャルメニューだ。」
囲炉裏の火がパチ、と小さく弾ける。
「食ったら忘れろ。」
「……今日一日だけ……?」と、オスカーが呟く。
目の奥に、惜しむような光が宿る。
沈黙が一瞬。
だが次の瞬間、トーマスがフォークを握りしめ、立ち上がった。
「上等だッ!!」
その目は戦場のように燃えている。
「食って、食って、食いまくってやるッ!!!」
ズゾゾゾゾゾゾッ——!!
轟音のような啜り音が部屋に響いた。
麺が吸い込まれるたび、スープが跳ね、香草が宙を舞う。
「おいおい! トーマスの奴、一人で食い尽くす気かよ!」とジトーが叫ぶ。
「シマ! 乾麺の残りは!?」とロイドが焦る。
「……ズゾゾッ……十人……ズズッ……前……ズゾッ……くらいだ……!」
「しまった! 先を越された!!」
ロイドが叫ぶや否や、彼もまたフォークを構え、鍋へ突っ込む。
その目はもはや理性を失っていた。
ヤコブも負けじと両手で椀を抱え、「これほどの研究対象……味覚の奇跡じゃああ!」と叫びながらズズズズッ!
ジトーもトーマスの隣で肩をぶつけ合いながら啜り、オスカーも両手でスープを抱え込むようにして飲む。
囲炉裏の周りでは、もう誰も言葉を発しない。
ただ、ずるずる、ずぞぞ、ズズズズッという麺の音だけが響き渡る。
まるで戦場の鬨の声のように、食欲と幸福がぶつかり合っていた。
スープの香りが立ちのぼり、湯気の向こうに笑顔が見える。
唇の端には油が光り、誰もが子どものような顔をしていた。
ブラウンクラウンのスープは、身体を芯から温め、脳の奥にまで旨味を叩き込んでくる。
「ぐぅぅ……もう入らねえ……だが……まだ食いてぇ……!」とジトー。
「これが最後の一杯じゃな……」とヤコブが名残惜しそうに器を見つめる。
シマはその光景を眺めながら、湯気の向こうで静かに笑った。
「これでいい……。忘れられねえ夜になったろ?」
ジトーたちは満腹で、笑いながらうなずく。
囲炉裏の火が、赤く、柔らかく揺れていた。
それは、戦う者たちの絆と幸福を照らす——一夜限りの伝説?の晩餐だった。
ブラウンクラウンの香りがまだ残る部屋の中で、シマは木椀を置き、深く息を吐いた。
「——明日は採取と狩りだ。」
その言葉に、皆が一斉に顔を上げた。
「明後日——行くぞ。」
一瞬、囲炉裏の火がパチッと弾ける。
その音が、妙に大きく響いた。
沈黙を破ったのはトーマスだった。
「……あの狼共の、住処に行くのか?」
その問いに、シマは静かに首を振る。
焔の光がその瞳を照らす。
「……違う。」
低く、しかし確かな声で言った。
「“始まりの日”だ。」
その瞬間、空気が変わった。
ジトー、ロイド、オスカー、トーマス——
全員の表情が、凍りついたように引き締まる。
誰もが、何を意味しているかを理解していた。
ヤコブだけが、静かな疑問を顔に浮かべた。
「始まりの日……? 一体、何のことじゃ?」
その問いに、ロイドが目を伏せ、唇を引き結んだまま答えた。
声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「……あの日、僕たちは——奴隷商の馬車に乗せられていたんです。」
囲炉裏の火が、ゆらゆらと彼の顔に影を落とす。
「手足を縛られ、詰め込まれるようにして……カルバド帝国へ向かっていました。」
ヤコブが息を呑む。
しかしロイドは続けた。
「その途中で……崩落事故に巻き込まれたんです。山道が崩れ、馬車ごと谷底へ落ちました。」
「目を覚ましたら……この“深淵の森”の地にいた。」
ジトーが低く唸るように言った。
「……生き残ったのは、俺たち十五人だけだ。」
火の粉が、静かに天井へと舞い上がる。
「ほとんどの奴らは、生き埋めになった……。俺たちの仲間も、な。」
その言葉には怒りでも悲しみでもなく、ただ乾いた現実だけがあった。
「……俺の村の奴らも、あの時、一緒だった。」
トーマスの声はかすれていた。
「俺以外……誰も助からなかった。」
囲炉裏の火がまたひときわ大きく揺れた。
ヤコブは静かに目を閉じ、頷いた。
「……そういうこと、じゃったのか。」
シマが顔を上げる。
その瞳は、過去をまっすぐに見据えていた。
「これまで——その場所へ行こうなんて話は、一度も出なかった。」
その声には、哀しみと決意が混じっていた。
「……禁句のようにな。誰も言わなかった。」
一同の間に、長い沈黙が落ちた。
火の爆ぜる音だけが、静まり返った部屋の中で鳴り続けている。
オスカーがぽつりと呟く。
「でも……確かめなきゃ…逃げ続けるだけじゃダメな気がする。」
トーマスが拳を握りしめる。
「……行くなら、ちゃんと見届けよう。あの日の終わりを。」
シマはゆっくりとうなずいた。
「俺たちが、あの崩落の地を踏むのは——あの日以来だ。」
「“始まりの日”を、終わらせるために。」
焔が、再び大きく揺らめく。
それはまるで、彼らの胸の奥でくすぶり続けていた過去の炎が、静かに燃え上がったかのようだった。
ヤコブはしばし沈黙し、やがて深く頷いた。
「……わかった。ワシも同行するぞい。」
「学者として、ではない。お主らと共に——“家族”として、見届けよう。」
誰も言葉を返さなかった。
ただ、静かにうなずき合い、囲炉裏の火を見つめた。
夜は更け、外では森の風が木々を揺らしている。
深淵の森は、まるでその言葉を聞いていたかのように、ざわりと音を立てた。




