老学者と深淵の森4
囲炉裏の炎がパチパチと音を立ててはじけ、橙の光が木造の梁や床板を柔らかく照らしていた。
深淵の森の夜は、いつにも増して静かで、外では風が木々を揺らし、遠くの滝の音がかすかに響いている。
三日目の夜、ようやく落ち着いたこの家で、シマたちは久々の“豪勢な夕食”を囲んでいた。
テーブルの上には、焼き立てのパンが山のように積まれ、まだ湯気を立てている。
香ばしい小麦の香りが部屋に満ち、木皿の上には鹿の肉のビジエ、香草を添えた焼き鳥、そして銀色の皮が美しく輝く焼き魚が並ぶ。彩りを添えるのは山菜ときのこ、香草類。
その中央でぐつぐつと音を立てるのは、囲炉裏の上に吊るされた鉄鍋。
中では“幻の茸”——ブラウンクラウンのスープが、静かに沸き立っている。
濃厚で芳醇な香りが漂い、まるで滋養そのものが形を持ったかのように、空気さえも豊潤にしていた。
「うほほっ! やはりブラウンクラウンは格別じゃっ!」
ヤコブが頬を紅潮させながらスプーンを持ち上げ、熱いスープを啜る。
「ズズッ……くぅ~っ! スープも極上! やはり力がみなぎってくるようじゃっ!」
その勢いのままに焼き魚へとフォークを伸ばし、嬉々として続ける。
「この焼き魚も美味い! 味付けが塩だけというのがいいのう! 魚の旨味を最大限に引き出しておる。このジャムもいいの! これほどまでに甘いとは驚いたぞい!」
ヤコブの感嘆の声が響き渡るたびに、他の面々も自然と笑顔になる。
「ヤコブ、この肉も美味ぇぞ! 塩、胡椒だけってのもいい!」
ジトーが豪快に鹿肉をかじりながら言う。
肉の表面は香ばしく焼かれ、中心は柔らかくジューシーだ。
「俺はこのミントの葉をくるんだやつが気に入ったぜ。肉の脂がさっぱりする。」
とトーマスが言う。
オスカーが感嘆の声を漏らす。
「ああ~やっぱりブラウンクラウンは旨い~!」
「ああ、こいつは別格だな。」
シマが短く返し、器を傾ける。
湯気の向こう、彼もの横顔が穏やかに緩んでいた。
「シマもジトーもオスカーも、久しぶりだよね?」
ロイドが笑顔で尋ねる。
「ああ、この家を出てから一度も口にしてねえな。」とジトー。
「今回はたくさん持ち帰るぞ。」
「メグにも食べさせてあげないと。」
「メグだけじゃなくてみんなにな。」
トーマスがそう言って笑い、皆の笑い声が弾けた。
自然と笑いが広がり、家中があたたかい空気に包まれる。
囲炉裏の火がパンを照らし、ジャムの瓶が宝石のように光を反射していた。
ブルーベリー、ラズベリーの深紅と藍の色が、木皿の上で小さな祝祭のように輝く。
「栽培ができればいいんだけど……ヤコブさん、どんな感じですか?」
ロイドが尋ねると、ヤコブはスプーンを皿に置いて小さく首を振った。
「上手くいっておらん……チョウコ町にはもう残っておらんしのう。」
「希少だしな、そんなにホイホイ実験できるもんでもねえし。」
ジトーが言葉を添える。
「もし栽培に成功したとしても……形、味だけじゃな?」
シマの低い声に、皆が静かに頷く。
「滋養強壮、健康促進、成長促進……さらに強靭な身体作りに役立ち、病気にもかかりにくくなる。その効能効果がなければ、本物のブラウンクラウンとは言えないね。」
ロイドが真剣な表情で言う。
「検証結果も必要になってくるね……僕たちの場合どうだったっけ?」
オスカーが思い返すように言うと、トーマスが肩をすくめた。
「身体は大きくなってる実感はあったが……身体能力については何とも言えねえな。」
「比較対象が僕たちだけだったしね。」とロイドが笑う。
「形、味だけでも出来りゃあ万々歳じゃねえか。」
ジトーが口に肉を放り込みながら言う。
「だな……帰ってからも忙しいな、ヤコブ?」とシマが笑う。
ヤコブは肩をすくめ、愉快そうに笑った。
「うむ……新しいエールに、ワイン作り、薬の開発、麻酔薬の抽出、薬草の研究、チョウコ町の住人に勉学を教え、ブラウンクラウンの栽培、深淵の森産の土を使った研究……身体が一つでは足りんわい。」
「それ全部やる気かよ……!」
トーマスが呆れたように言い、オスカーとロイドが笑い声を漏らす。
「ふふ……愉快じゃのう。」
ヤコブは湯気の向こうに見える皆の顔を一人ひとり眺めた。
シマはパンを裂き、ジトーは肉を豪快に噛み、トーマスは笑いながら木椀を傾け、ロイドとオスカーは軽口を交わしている。
囲炉裏の火がその笑顔を赤く照らし、壁の影がゆらりと揺れた。
外では、深淵の森の風が枝葉を鳴らし、遠くの闇が息をひそめている。
だがこの家の中だけは、別世界のようにあたたかく、笑いと香りと生命に満ちていた。
ヤコブは胸の奥にこみ上げるものを感じながら、静かに呟いた。
「……この森の中に、これほど豊かで、人の心を満たす食卓があろうとはのう。」
そして再びスプーンを手に取り、残りのスープをゆっくりと口に運んだ。
ブラウンクラウンの芳香が、まるで森の息吹そのもののように、彼の心と身体を満たしていった。
シマたちは夕食を終え、木の食器を丁寧に片付けていた。
皿や椀のひとつひとつ洗い、布で水気を拭き取る。
木の器からは、焚き火で温まった木の匂いが微かに立ち上り、それが心地よく部屋に残った。
ロイドはパンくずを丁寧に集め、外に捨てる。
ジトーは重たい鉄鍋を囲炉裏の上に戻し、残ったジビエをそこへ移した。
鹿肉や鳥肉、山菜、きのこが層のように詰め込まれ、ハーブの香りが室内に再び広がる。
「これで明日の朝には、トロトロだな。」
ジトーが木杓子を置きながら言うと、トーマスが笑いながらうなずく。
「朝からこんなの食ったら、もう動きたくなくなるな。」
「それも悪くない。」とシマが短く返す。
仕込みを終えた後、皆が囲炉裏の周りに戻り、それぞれ湯気の立つカップを手に取った。
カモミールティーの優しい香り、ミントティーの爽やかな清涼感。
彼らの表情がゆるんでいく。
誰も急ぐことなく、ただ静かな時間を共有している。
一口、また一口と温かい茶を飲みながら、ぽつりとシマが口を開いた。
「——どう思う?」
その言葉に、全員の動きが止まった。
シマの問いが何を指すのか、誰も説明を求めなかった。
彼らには、“家族の呼吸”がある。互いの目を見ただけで、意図が伝わるのだ。
「ブラウンクラウン、ブルーベリー、ラズベリー、香草類の群生地……荒らされていない。」
ロイドが静かに言葉を継ぐ。
「それどころか、気配すらなかったね。」
カップを置き、ロイドは眉をひそめた。
「足跡、毛、糞も見なかったな。」
ジトーが焚き火の火を見つめながら言う。
その声には、僅かな違和感と警戒の色が混じっていた。
「しかもじゃ。」
ヤコブが指を立て、少し身を乗り出した。
「綺麗にすみわけされておる。この一角はブラウンクラウン、あちら側は香草、向こうはベリー類という風にのう。」
彼の言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなる。
「考えてみるとよ……採取してるときに襲われたなんて話、一度も聞いてねえよな。」
シマが言った。
皆が頷く。深淵の森は、危険な獣や未知の魔獣が棲む土地だ。
それにもかかわらず、群生地周辺では襲撃はおろか、気配すら感じたことがない。
「俺が四ヶ月前に切り倒した木があるんだけどよ。」
トーマスが膝に肘を置きながら語り始めた。
「もう俺の背丈ぐらいに伸びてた。ちょうど俺の膝あたりの所からバッサリ切り倒したってのに、だぜ。普通じゃありえねえ。」
「今まで伐採してた場所があるでしょ。」
オスカーが言葉を挟む。
「全部で六ヶ所だな。」と言うジトー。
「そのうち三ヶ所を見て回ったけど……どこも十メートル近く伸びてた。」
「十メートル……!」
ロイドが息を呑み、シマが低く唸る。
「なぜ……今まで気づかなかったんだろうな?」
シマの声は、静かだが深く響いた。
囲炉裏の火がパチ、と音を立て、誰もすぐには答えられなかった。
「生きるため……生き残るために必死だったんじゃろう。」
ヤコブが言う。
「…余裕が生まれて、初めて周りを冷静に見れることもあるからね。」
ロイドの言葉に、シマがうなずく。
「……群生地が荒らされてねえことも普通じゃねえが、何時行ってもあったよな?」
ジトーが眉をしかめる。
「確かに……夏でも冬でも関係なく。」
オスカーの声が静かに響く。
一瞬の沈黙のあと、皆の視線が同時にヤコブに向かった。
老学者は眉をひくつかせ、困ったように笑う。
「……ワシだってわからんわい!」
笑いが起こる。だが、それは一瞬だった。
すぐにまた、焚き火の音だけが響く静かな時間が戻る。
ロイドが火を見つめながら言った。
「普通なら、季節ごとに群生の位置も変わる。動物が食べれば痕跡も残るし、成長も均一じゃない。けど、あそこはまるで……」
「管理されてるみてえだった。」
ジトーが言葉を継ぐ。
「そうじゃな。自然が“自ら整えておる”ようにも見える。」
ヤコブの声には、学者としての好奇心と、わずかな畏怖が混じっていた。
トーマスがミントティーを一口飲み、息を吐く。
「でもよ、そんな場所、聞いたこともねえよ。まるで森そのものが意思を持ってるみてえじゃねえか。」
「……意思か。」
シマが低く呟く。
「まるで“守っている”ようにも見えた。」
ロイドのその言葉に、皆の視線がまた交錯した。
守っている——誰が? 何を?
ブラウンクラウンか、森そのものか、それともこの土地に眠る何かか。
「ワシが思うにのう。」
ヤコブが湯呑を手の中で転がしながら言う。
「この森はただの森ではない。地脈の流れが異常に強い。土の中の微生物群、植物の根の結びつき……すべてが“ひとつの生き物”のようじゃ。」
「森全体が生命体……?」
ロイドが小さく繰り返す。
「その中でブラウンクラウンたちは“器官”のようなものかもしれん。ワシらがそれを切り取るたびに、森は再生を試みておるのじゃ。」
「だとしたら……俺たちは何を食ってるんだ?」
トーマスの冗談めかした言葉に、誰も笑わなかった。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、ジビエの鍋からは静かに湯気が立ち上る。
森の息が、この家の中まで届いているような気がした。
——この森はいったい何を守り、何を育んでいるのか。
囲炉裏の火が小さくはぜ、湯気の向こうで彼らの影がゆらゆらと揺れた。
夜はさらに深く、森の静寂は一層濃くなっていく。
そんな静寂の中、シマが膝に肘を置き、低く呟いた。
「……明日から、しばらく防柵の強化をするぞ。」
囲炉裏の炎に照らされたその横顔は、穏やかでありながら、どこか険しさを帯びていた。
「高さももっと必要だな……」
彼は焚き火の赤い光を見つめながら、頭の中で柵の構造を思い描いているようだった。
「逆茂木も作るか。」
その言葉に、トーマスが眉をひそめた。
「さかもぎ? なんだそれは?」
「侵入を防ぐために、先端を鋭く尖らせた木を外側に向けて地面に差し込むんだ。柵に結びつけたりもする。獣が近づいても、これなら飛び越えづらい。障害物になる。」
「なるほどな……」
トーマスが腕を組み唸る。
「刺さったら洒落にならねえな。」
「それが狙いだ。」と、シマが短く言う。
「川までの柵も強化した方がいいな。」
ジトーが口を挟む。
「水場は生命線だ。あそこを破られたら意味がねぇ。」
ロイドが頷き、すぐに現実的な問題を口にした。
「そうなると、沢山、木を伐採しないといけないね。」
彼の視線が自然とヤコブの方に向かう。
「ヤコブさんは——」
言いかけたオスカーの言葉を、ヤコブが穏やかな笑みで遮った。
「ワシは大人しくここで待っていよう。」
湯呑を置きながら、老学者は落ち着いた声で言う。
「書き留めることもあるしのう。今日見た群生地の様子、土壌の変化、植物の反応……忘れぬうちにまとめておかねばならん。」
「その方が安心だ。」と、シマが短く応じる。
「午前中はオスカー、午後はロイドがヤコブについてくれ。」
「了解。」
オスカーとロイドがほぼ同時に答えた。
囲炉裏の炎がぱち、と音を立てた。
その音に合わせて、皆の視線が自然と火へと向かう。
火の粉が一つ、二つ、ふわりと舞い上がり、赤い光の粒となって消える。
「木を伐るのは、森の機嫌を見ながらにしよう。」
シマがゆっくりと立ち上がり、外を見やる。
「この森は、生きている。下手に荒らせば、何を返されるかわからん。」
「いつも通り、必要な分だけだな。」とジトー。
「ああ。使う木も選ぶ。倒れた幹や、根腐れしたやつから順にな。」
「そうと決まれば、俺は斧の刃を研いどくよ。」
トーマスが言うと、ジトーが笑って肩を叩いた。
「頼むぜ。」
オスカーはすでに明日の作業を頭の中で整理していた。
ヤコブは微笑を浮かべながら、焚き火の火を見つめていた。
「まるで……古の砦を再建するようじゃのう。」
「砦、か。」
シマがその言葉を反芻し、ゆっくりと頷く。
「そうだな……この家も、この森も、俺たちにとっては“城”みたいなもんだ。」
「ならば、我らは“守り手”というわけじゃな。」
ヤコブの言葉に、誰もが静かにうなずく。
外の風が少し強まり、壁の隙間からひゅう、と音が漏れる。
森の夜は、底知れぬ闇をたたえている。だがその中に、確かに灯るものがある。
——人の営みの灯り。
シマは最後に囲炉裏の火を確認し、蓋を半分閉じて空気を絞る。
「よし、今日はもう休もう。明日からは忙しくなる。」
ヤコブは小さな革のノートを開き、黒炭の先を整えた。
「森の再生力、防柵の効果、伐採と循環の均衡……さて、どう記すべきかのう。」
そう呟きながら、書き出す筆跡が、囲炉裏の灯に揺れていた。
その間、他の団員たちは寝床の準備を始める。
外の防柵が軋む音が微かに聞こえ、遠くで夜鳥の声が一度だけ響いた。
深淵の森の夜は長い。だが、その闇の中にも、確かな目的と絆の灯があった。




