老学者と深淵の森!
ノーレム街を発ってから二日。
走り続けたシマたち一行は、深淵の森の入口へと辿り着いた。
空は晴れ渡り、陽光は眩しく大地を照らしていたが、森の前に立つと途端に空気が変わる。
木々の密度が異常に濃く、森の奥から吹く風には、まるで生き物の息のような冷たさと湿り気が混じっていた。
「……着いたな」
トーマスが背負子の紐を軽く緩める。
その背には、ヤコブの姿があった。
彼の体重はせいぜい五十キロほど。シマたちにとってはまるで羽のように軽い。
道中でのヤコブは最初の十秒で完全に少年に戻っていた。
「うっひょ~! な、なんという速さじゃッ!」
シマたちは強靭な体躯と驚異的なバランス感覚で、上下の揺れを最小限に抑えながら疾走していたのだ。
疾走する景色が線のように流れていく。
風が耳を裂くように鳴り、地面がまるで滑っていくかのようだった。
「シマよ! こ、これは…! なんじゃ?! 世界が流れるようではないかッ!」
その叫びに、前を走るジトーが笑いながら振り返った。
「これでもジョギング程度だぞ」
風が抜けるたびに、草の匂いが混じる。
馬車を使わず、己の脚だけでここまで来る旅は久しぶりだった。
それでも疲れの色は誰の顔にもない。
むしろ、久々に身体を全力で使えた喜びが表情に滲んでいた。
二日後、彼らは深淵の森の入口にたどり着いた。
そこはまるで、世界の境界のような場所だった。
――森の入口。
そこだけ時間が止まっているように静かだった。
深い緑の帳が森全体を覆い、奥の方はまるで墨で塗り潰されたように暗い。
木の根が複雑に絡み合い、地面を波のように盛り上げている。
ただ、森そのものが「生きている」ような気配だけがある。
「ここで休憩しよう」と言うシマ。
ジトーが背負子を外し、ヤコブをそっと地面に降ろす。
「ふぃ~……まさか、わしの人生でこれほど速く移動するとは思わなんだわい……」
息を整えながらも、ヤコブは笑っていた。その顔は年齢を忘れた少年のようだ。
ロイドが水袋を差し出す。
「ヤコブさん、喉乾いたでしょ。どうぞ」
「おお、ありがたい。……ふむ、命の水じゃな!」
ゴクリと喉を鳴らして飲むヤコブに、ジトーが笑いながらパンを差し出す。
「ほら、干し肉もどうだ? 柔らかめだぞ」
「む? ほほぅ、これは旨いのう。塩加減が絶妙じゃ」
食べながらもヤコブは、森を見つめ続けていた。
やがて彼は、少し声を潜めて呟く。
「……この森、何とも言えぬ気配を感じるのう」
「気配?」
トーマスが顔を上げる。
「うむ……まるで“この地に足を踏み入れるな”と拒んでおるような……そんな感じじゃ。何か、わしらを遠ざけたいような……」
その言葉に、オスカーやトーマスが思わず森を見つめた。
確かに、言われてみれば木々の隙間から吹く風が、どこか冷たく、肌を刺すようだ。
しかし、シマたちの顔には動揺の色がなかった。
むしろ、どこか懐かしむような笑みを浮かべている。
「お主らは……この森を前にして、何か感じることはないんじゃろうか?」とヤコブが問う。
沈黙のあと、最初に口を開いたのはシマだった。
「少し懐かしいなぁ……」
「帰ってきたって感じだな」とジトーが頷く。
「僕は……森の中の家が心配だよ」とオスカーが呟く。
「四ヶ月ぶりか……特に思うことはないですね。」
とロイドが言えば、トーマスも「同感だ」と短く応じる。
ヤコブはそんな彼らの反応を見て、驚きと興味の入り混じった目をしていた。
(この森を前にして、この落ち着きよう……)
シマは背負い袋から干し肉とパンを取り出し、水袋を渡す。
「しっかり食えよ、ここを抜けるには体力勝負だ」
「うむ、心得た」
水を飲み、パンをちぎって口に運ぶ音だけが響く。
森の奥からは相変わらず何の音もない。
ただ、風が少しずつ冷たさを増していた。
「深淵の森の中は気温が下がる。外簑を羽織っておけ」
シマが言うと、皆が頷いて支度を始めた。
防寒のための外套を纏い、ヤコブには特製の防寒具を着せる。
「ふぅ~……夏真っ盛りの時期に防寒具とはのう。変な気分じゃな」
準備を終えた一行は、荷を軽く整え、いよいよ森の中へと進む体勢を取る。
シマが皆の顔を見回し、低い声で言った。
「よし、行くぞ。まず最初は俺がヤコブを背負っていく。先頭ジトー、次にオスカー、俺、ロイド、トーマスの順番だ」
「了解!」
全員が一斉に頷いた。
再び背負子を背に回し、ヤコブを固定するシマ。
ヤコブは静かに息を整え、深淵の森の奥を見据えた。
目の前の森は黒々とした闇を湛え、まるで無言のままに「入る覚悟」を問うているかのようだった。
木々の隙間を縫って流れ込む冷気が、肌を刺す。
ジトーが一歩踏み出す。
その足音を合図に、静寂だった深淵の森が――わずかに、息を呑むように揺れた。
草が震え、枝が擦れ合い、かすかな音を立てる。
まるで森そのものが「目覚めた」かのようだった。
一行の姿は、やがて濃い緑の闇に飲み込まれ、異界のような深淵の森の中へと消えていった。
――深淵の森の中に、足を踏み入れた瞬間だった。
ヤコブの全身を電撃のような悪寒が駆け抜けた。
肌が粟立つ。呼吸が浅くなる。視界の端がわずかに震える。
冷たい——そう感じたが、それは気温のせいではなかった。
空気そのものに混じる「何か」が、肌の下を這うように動いている。
それは目に見えぬ“意思”のようで、侵入者を拒む静かな敵意のようでもあった。
まるで森が生きている。
いや——森そのものが“見ている”。
一歩進むごとに、見えない何かの視線が背中を撫でる。
木々の間に潜む影が、わずかに形を変えるように思えた。
呼吸をするたび、鼻の奥に湿った腐葉土の匂いが強くなっていく。
「……ぬぅ……」
ヤコブが思わず声を漏らした。
その異変にすぐ気づいたのは、背中のシマだった。
「どうした、ヤコブ? 大丈夫か?」
ヤコブはすぐに答えられなかった。喉が乾いて、舌が重い。
「……な、何か……この森……ぞっとするような気配を感じるのじゃ……」
ロイドがすぐに外簑を脱ぎ、ヤコブの肩にそっと掛けた。
「ヤコブさん、安心してください」
彼の声は静かで、揺るぎない。
「僕たちがいる限り、ヤコブさんには傷一つつけさせませんから」
その言葉が、まるで冷たい森の空気の中に灯された火のようにヤコブの胸に沁みた。
若者の瞳には、曇りひとつない決意が宿っている。
——そうだ。
ヤコブは思い出した。
この者たちがどんな存在であるかを。
彼らはこの森の中で六年——この“深淵の森”の中で生きてきた。
雨も風も、獣も、あらゆる脅威を相手にしながら、生き抜いてきた者たちだ。
初めて出会った頃、彼らの規格外ぶりに何度舌を巻いたことか。
人の域を超えた戦闘能力、判断力、そして何よりも強固な絆。
家族を守り、仲間を信じるその姿。
思い返すほどに、胸の奥に熱いものがこみ上げる。
(わしは……何を怯えておるんじゃ……)
(信頼すればよい。すべてを委ねればよいのじゃ)
ヤコブは心の中でそう呟いた。
彼らの背を見てきた。
彼らの笑顔を見てきた。
彼らがどんな困難にも互いを信じ、立ち上がってきた姿を見てきた。
だからこそ——今、この森で恐怖を感じる必要などない。
シマたちがいる。
この背中を預けられる家族がいる。
そう思った瞬間、不思議と胸を締めつけていた恐怖がすっと引いていった。
深く息を吸い込むと、湿った空気の中にほのかに土と樹皮の香りが混じるのを感じた。
先ほどまでの圧迫感が少しずつ和らぎ、視界が明るくなる。
目の前の世界がゆっくりと輪郭を取り戻していく。
巨木が林立し、幹には太い苔がびっしりと這っている。
頭上を覆う枝葉は空をほとんど隠し、わずかな光の筋が地面に線を描いていた。
「……ふふ……」
ヤコブが笑った。
「どうした?」とシマが振り向く。
「いや何、年甲斐もなく興奮しておるんじゃよ。この景色を見ておると……まるで、未知の書を開いたような気分になるわい」
「フッ……そうか」
シマの唇がわずかに緩む。
その笑みは短く、けれど確かな信頼の色を宿していた。
オスカーが歩きながら問いかける。
「ヤコブさん、深淵の森の中に入った感想は何かありますか?」
「うむ……暗いのう」
ヤコブは辺りを見渡しながらゆっくりと答える。
「非常に暗い……これほど深い森だとは思わなんだ。それに、幹が……一本一本が太い気がするのう。見上げると枝が幾重にも重なって、まるで天を支えておるかのようじゃ……早う調べてみたいものじゃ」
その目は、恐怖ではなく純粋な探究心に満ちていた。
シマがそれを見て静かに言う。
「今はまだだな。家に着いてからだ」
「わかっておる、わかっておるとも」
ヤコブは笑い、頷いた。
そのやりとりの後、シマが軽く合図を出す。
一行は再び足を速めた。
深淵の森の地面は柔らかく、木の根が蛇のように地表を這い、油断すれば足を取られる。
それでも彼らの動きには乱れがない。
まるで森の中に長年棲みついた獣のような足取りで進んでいく。
ヤコブは背負子の上で完全に平静を取り戻していた。
その顔には穏やかな笑みが浮かび、目は絶えず周囲を観察している。
「ほぅ……この蔦の付き方……普通の植物とは違うのう……」
「こっちの苔も分厚いな……」
「ふむ、これは風がほとんど通らぬ証左じゃな……」
つぶやくたびに首を左右に動かし、興味津々に周囲を見渡す。
その様子を、すぐ後ろから見ていたロイドがこっそり笑みを漏らした。
ヤコブは背負子に乗っているため、首をぐるぐると回しては左右の景色を確認している。
まるで子供が初めて遠出をした時のような落ち着きのなさだ。
その繰り返しがあまりに微笑ましく、ロイドは堪えきれずに吹き出しそうになった。
(ヤコブさん、ほんとに楽しそうだな……)
森の空気は相変わらず冷たく、光は薄い。
だが、そこにはもはや恐怖の気配はなかった。
それどころか、森の中を進む一行の足取りには、どこか懐かしささえ漂っていた。
かつて彼らがここで過ごした年月——六年という時が、この森に染みついている。
光の筋が、ヤコブの顔をやさしく照らす。
「禁域……確かに禁域ではあるが…よい森じゃな」
ヤコブがぽつりと呟いた。
その声を聞いて、前を行くシマが小さく頷く。
「そうだ。俺たちにとっては“帰る場所”みたいなもんだ」
深淵の森——恐ろしくも、美しい。
そして、家族たちと共に歩む道、この一歩一歩が、確かに“生”の証なのだと。
やがてヤコブは、背負子の上でゆっくりと目を細めた。
――不思議な森じゃ。
そう思いながら、彼はまた、子供のように首を左右に動かしては、新たな発見を探し始めた。
そしてその後ろで、ロイドは静かに笑みを浮かべ、
(やっぱりこの人は、どこまでも学者なんだな)
と心の中で呟くのだった。
――深淵の森の夜は、あまりにも早く訪れた。
西の空にわずかな橙が滲んでいたのも束の間、森の上空を覆う枝葉の天蓋が光を飲み込んでいく。
ほんの数分前まで淡く差していた陽光は、まるで誰かが灯を一斉に吹き消したように消え失せた。
残されたのは、深い、底の知れぬ闇——。
視界はみるみるうちに黒に塗りつぶされ、手を伸ばしても自分の掌すら見えない。
まるで闇の海の底に沈んでいるかのようだ。
森が夜を迎えるというよりも、「夜が森を飲み込んでいく」と表現する方が正しい。
この闇の中で、ヤコブは息を呑んだ。
闇が視覚を奪うだけでなく、音の距離感すら狂わせる。
自分の鼓動が異様に大きく響き、息をする音までも森に吸い込まれていく気がする。
「……ふぅ……」
ヤコブが微かに息を漏らすと、すぐ隣でシマが声をかけた。
「ヤコブ、中に入って休め。今日はここで野営する」
「お、おお……助かる……」
手早く組み立て式のテントが建てられていく。
闇の中でも迷いのない動き。
シマ、ロイド、オスカー、トーマス、ジトーの手が無言のうちに連携し、金属の軋む音、布が張られる音が静かに響く。
わずか数分も経たぬうちに居住空間が出来上がった。
ヤコブはその中に促される。
その瞬間、ふっと重力を思い出したように足がふらつき、ロイドがすぐに支えた。
「大丈夫ですか?」
「うむ……少々、目が慣れぬだけじゃ……」
テントの中は暗いながらも外より幾分か安心できる空間だった。
外の空気よりもわずかに暖かく、森の湿った匂いが薄れる。
背を預けた布の感触が現実に戻してくれる。
だが、精神の消耗は隠せなかった。
未知の森、異様な気配、そして見たこともない闇。
人の理を超えた場所に立ち続けたことで、心が深く疲弊している。
シマはそれを見抜いていた。
「今日はもう、休め。火は焚かない。匂いで夜行性の獣を引き寄せるからな」
「……火を……焚かぬ?」
ヤコブは思わず聞き返した。
旅慣れた者でも、夜に火を焚かぬ野営などほとんどない。
火は明かりであり、熱であり、そして恐怖を追い払う象徴だ。
しかしシマは淡々と答えた。
「夜の森は別世界だ。光を灯せば、闇の住人たちが寄ってくる。見つからないように息を潜める、それがこの森の夜の掟だ」
ヤコブは唾を飲み込んだ。
そう言われれば、この森の静寂が異様に重く感じられる。
外からは微かな風の音——いや、木々のざわめきとも、何かの低い唸り声ともつかぬ音が混じって聞こえる。
「ヒュゥゥゥゥゥ……」と風が鳴り、どこか遠くで「オオォォォン……」と狼の遠吠えが木霊する。
闇の向こうで何かが動いている。
その「何か」がどれほど近いのか、遠いのかすら分からない。
草を踏む音、枝の軋む音、獣たちの低い唸り声が混ざり、夜の森が“息づいている”ことを否応なしに感じさせた。
「……怖い夜じゃな……」と、ヤコブが呟く。
「最初は誰でもそう感じるさ」
ジトーが小さく笑い、テントの出入口の外で周囲を警戒している。
彼らの瞳は夜目が効くため、闇でも辺りを見通せる。
焚き火も灯りも要らない。
彼らにとってこの暗闇は、むしろ都合のいい“隠れ蓑”なのだ。
シマが短く指示を出す。
「見張りは三人一組で交代制だ。今夜は動くな。静かに過ごせ」
隊の中で決められた順番が淡々と伝えられる。
最初の見張りはシマとロイド、そしてトーマス。
次はジトーとオスカー。
テントの中には常にヤコブと誰か一人が入っていることも決まっていた。
それは防衛のためでもあり、精神的な安心のためでもあった。
やがて外の音が一層深くなる。
ヤコブは外簑に身を沈めながら、外の気配に耳を澄ませた。
狼の遠吠え。
木々の軋む音。
風の唸り。
そして、ときおり低く響く“何かの足音”。
しかし、不思議と恐怖はなかった。
テントのすぐ外に、シマたちの気配がある。
どんな獣が近づこうとも、彼らがいる限り安全だという確信が胸にある。
「……ふぅ……」
まぶたを閉じると、遠い昔、暖炉の火の前で読んだ書物の記憶がふと蘇った。
そのページの中で語られていた“深淵の森”は、恐ろしい伝説の場所だった。
だが今、こうしてその中で眠ろうとしている自分がいる。
運命というのは、まこと不思議なものじゃ……
そう呟いたヤコブの意識は、静かに闇の中へ沈んでいった。
テントの外では、ロイドが木々の影に目を細め、低く囁く。
「……夜の森が、顔を出してきたね」
シマが頷く。
彼らの視線の先で、森の奥の闇がかすかにうごめいた。
その瞬間、夜の深淵が完全に目を覚ます。
――深淵の森の夜が、始まった。




