『鉄の声』
額に浮かぶ汗を手の甲でぬぐい、太い腕をぐるりと回しながら大きく息を吐く。
「……ふぃ〜……待たせたな。弓三十張、どれもこれも秀逸だ!」
そう言って満足げに頷くバルトルトの頬には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「支払いは……明後日でも大丈夫か?」
「いえ、二週間後をめどにまた立ち寄らせてもらいます。その時に受け取らせてもいいですか?」
ロイドが丁寧に答える。
「ああ、いいぞ。それまで俺が預かっといてやる。」
ロイドは頷き、少し間を置いて言った。
「バルトルトさん、紹介します。今回の弓の制作者が彼です。」
そう言ってオスカーを示す。
バルトルトの目が丸くなった。
「……ッ! マジか……?!」
鍛冶屋の奥からの光を背に受けながら、彼は目の前の青年と言えない、少年とも言えない男を見上げるように見た。
「こりゃあ驚いた!……これほど若ぇとはな!」
その声には本気の驚きと、少しの感嘆が混じっていた。
オスカーは苦笑しながら頭を下げる。
「ハハ……恐縮です。あ、そうだ。キョウカさんから預かっているものがあります。こちらです。」
オスカーは布に包まれた二振りの剣と、封をされた手紙を取り出した。
「お、すまねぇな。……剣、か?」
バルトルトは布を受け取り、しばらく見つめたあと、その場で静かに布を解いた。
光を受けて銀の刃がわずかに反射する。
彼の表情が一瞬、職人のそれに変わる。
無駄な言葉を挟まず、手に取り、重さを量り、指先で刃をなぞる。
次に構え、わずかに振って音を確かめる。
「……チィン」と乾いた音が響く。
(見た目に反してズンッとくる重さ……いいな。剣身の厚みも申し分ねぇ。耐久度も高いだろう。柄の重心も悪くねぇ。……この剣は俺が打ったものに近い……)
彼の目が真剣になる。まるで弟子の成長を確かめる父親のように、丹念に剣を見つめた。
やがて満足げに息を吐く。
「……いい剣だ。今日は驚きの連続だな。」
「こちらはつい最近、出来上がった剣です。」
オスカーが補足する。
「ほう……どれ。」
バルトルトは次の剣に手を伸ばし、慎重に布をめくっていく。
現れた刃は淡い青白い光を帯び、研ぎ上げられた面にはわずかに波紋が浮かんでいた。
見た瞬間、バルトルトの動きが止まる。
空気が一瞬、重くなる。
(……何かが違う。)
彼は無言で手に取り、そっと構える。
「さっきのものより、いくらか軽いな……」
刃の角度を変え、光を反射させる。
「歪み……一切無し。切っ先から根元まで均一……? いや、少し……ほんの少し根元が厚いな。」
彼の目は刃先に吸い寄せられるように動いた。
(だがそれも計算のうちか?……強度を保ちながら振り抜きやすくしてある。重心が、完璧に制御されてやがる……それでもまあ、珍しいものじゃない、問題は——)
バルトルトは、思わず笑みを漏らした。
「——斬撃音が聞きたい。頼めるか?」
「はい、喜んで。」
オスカーの声に力がこもる。
バルトルトは鍛冶場へ向かって声を張った。
「おい、お前ら! 一旦手を止めろ!」
奥で火花を散らしていた弟子たちが、驚いて顔を上げる。
店の裏庭、試し斬りの場が整えられた。木片や藁束、古い丸太がいくつも積まれている。
夕方の光が鉄柵越しに差し込み、あたりが薄赤く染まっていた。
「それじゃあ行くよ、オスカー。」
ロイドが言って、軽く木片を放る。
オスカーは静かに息を整え、剣を構えた。
一瞬、風が止む。
「——ハッ!」
カシュッ、と乾いた音。
宙を舞った木片が、真っ二つに割れて落ちた。
バルトルトは黙って拾い上げる。断面はまるで鏡のように滑らかだった。
「……ふむ。見事だ。」
「次は、つい最近出来上がった剣だったか?」
「はい。」
オスカーは新しい剣を手に取る。
ロイドが再び木片を放る。
「いくよ。」
「——ッ!」
——シンッ。
音は、先ほどとはまるで違った。軽く、澄んでいて、どこか鈴のような響き。
木片が落ちるよりも早く、風が切れる音が遅れて耳に届いた。
バルトルトが拾い上げ、断面を覗き込む。
(……おいおい……これは……)
「もう一度、頼む!」
「了解です!」
ロイドが再び木片を放る。
スンッ——。
まるで空気ごと切り裂いたような音がして、木片が滑るように地面に落ちた。
沈黙。
(……俺を、越えた……?)
バルトルトの胸に重く響くものがあった。
それは嫉妬でもなく、悔しさでもなく、ただ純粋な“職人としての喜び”。
(……キョウカめ……。やりやがったな。弟子が、親を超える日が来るとはよ……)
顔を上げた彼の表情には、笑みが浮かんでいた。
「いい……本当に、いい剣だ。」
夕陽の中、オスカーの剣身が淡く光を放ち、バルトルトの瞳にその輝きを映した。
その瞬間、長年の職人の魂が静かに後進へと受け継がれていくのを、ロイドは確かに見た。
ノーレム街の夕暮れ。
店先の看板が「準備中」に裏返されると同時に、バルトルトは「詳しい話が聞きてぇ」と言い、ロイドとオスカーを奥の部屋へと案内した。
ギィ……と金具の軋む音を立てて木戸が開かれると、ほのかな薬草の香りが二人を包み込む。鼻に抜ける苦みと甘みが混ざり合ったその匂いは、不思議と心を落ち着かせる力を持っていた。
室内は広くはないが、整理が行き届いていた。
「まあ、座れや」と促され、ロイドとオスカーは椅子に腰を下ろす。
バルトルトは無言で茶を三つ用意し、卓上に置いた。
茶器も自作のものらしく、分厚い素焼きの器に手の跡が残っている。
「……キョウカが、お前らのとこに行ってから、まだ半年も経っちゃいねぇんだよな」
バルトルトの声は低く、しかしどこか誇らしげだった。
「だが、あの二振りを見りゃ分かる。ありゃ俺の腕を越えた。あいつに何が起こったのか……それが知りてぇ。誤解すんなよ、製法を盗みたいわけじゃねぇ。俺の娘だ、何があったのか、親として知っときてぇんだ」
ロイドは頷き、静かに言った。
「その前に……手紙を読んでいただいてもいいですか?」
「おっと、そうだったな!」
バルトルトは手のひらで額を叩き、苦笑しながら封筒を取り出す。
火灯しの柔らかな灯りの下、紙を開く音だけが部屋に響く。
読み進めるうちに、彼の表情はめまぐるしく変わった。
眉間に深い皺を寄せ、次には口元に僅かな笑みを浮かべ、また遠い目をして天井を仰ぐ。
職人としての誇りと、父としての情がせめぎ合っているのが見て取れた。
そして、二通目の末尾。
『送った二振りの剣は、もはや過去のもの。駄作だよ。処分するなり好きに使っていいからね。
お父ちゃん、私、最近“鉄の声”が聞こえるようになったよ。身体大事にね。また手紙を出すから』
その一文を目にした瞬間、バルトルトの手が止まり、目が見開かれた。
次の瞬間、ゆっくりと瞼を閉じ、息を深く吐き出す。
「……“鉄の声”、だと……?」
重い沈黙が部屋を包む。
鍛冶の神に選ばれた者のみが聞くという伝承の声。
炉の中で金属が鳴くとき、鉄が語りかけるとき、その響きを理解できる者は“超一流”と呼ばれる鍛冶職人の中でも、ほんの一握り——。
その声を娘が聞いたというのか?
バルトルトの両拳が膝の上で震えた。
「……嘘じゃねぇ。キョウカのやつ……あの剣を打てる腕があるなら、確かに“鉄の声”を聞いたって不思議じゃねぇ……」
やがて、顔を上げたその目には、年齢を感じさせない光が宿っていた。
「負けてられねぇな……!」
ぐっと立ち上がり、分厚い掌でロイドの肩を叩く。
「お前ら、ありがとよ。キョウカの近くにいてくれて感謝する。あいつは昔から無茶をする性分でな……だが今の手紙を読んで、久々に胸が熱くなった」
炉の奥では、まだ鉄の残り香が漂っている。
壁の工具たちが、まるでその言葉に応えるようにわずかに光を反射した。
バルトルトは笑い、火をつけるための薪を取り上げた。
「ロイド、オスカー、次に来た時には見せてやる。俺の“本気の一本”をな」
その声には、かつて名を馳せた鍛冶師の炎が戻っていた。
静かな工房の空気が震え、薬草の香りが熱に溶けてゆく。
ロイドとオスカーは、父として、職人としての覚悟を新たにした男の背を、しばらく言葉もなく見つめていた。
ノーレム街の夕暮れは、金と橙の光が建物の壁を撫でるように流れ、街全体がゆっくりと夜の支度を始めていた。通りを行き交う人々の声、荷車の車輪の音、屋台から漂う香ばしい匂い――それらが入り混じり、活気に満ちた商業街の息遣いがそこかしこに響いている。
そんな街の一角、木造の宿「モノクローム」の食堂には、シャイン傭兵団の面々がテーブルを囲んでいた。夕陽が窓越しに差し込み、木製の卓上を赤く照らしている。
宿の女将が腕を振るった料理が次々と並び、その香りに自然と笑みがこぼれていた。
「この香草パイ? 美味いな、エールともよく合う」
トーマスが満足げに頬張り、手にしたジョッキを傾ける。
バターの香りとハーブの芳香が鼻に抜け、思わず目を細める。
「だよな。鼻に抜ける香りがいい。焼き立ての香りが腹にくるぜ」
隣のジトーが深くうなずく。
彼の前の皿も既に空で、残るソースをパンでぬぐっている。
「ワシはこっちの肉料理じゃな。ワインとの相性が抜群じゃ」
ヤコブは湯気の立つ肉の皿を前にして上機嫌だ。
グラスを片手に、目を細めて香りを楽しんでいる。
「焼き立てのパンはやっぱり美味いな」
そう言って頬張るシマの手元には、湯気を立てる丸パンが山のように積まれている。
香ばしく、噛むほどに小麦の甘みが広がり、彼は満足そうに目を細めた。
「シマよ、夕食はどうするのじゃ? 馬車と馬を預けに行くんじゃろ?」
ヤコブがグラスを傾けながら問いかける。
「預けた帰りに、どこか酒場でも寄ってみるか?」
シマが軽い調子で答えると、すぐにジトーが乗ってきた。
「おっ、いいなそれ! たまには羽目を外してもいいよな!」
「お前は酒を飲まねぇのにいいのか?」とトーマスが笑う。
「その分、食いまくってやるさ!」
胸を張るシマに、ヤコブが呆れ顔で言う。
「今も食べておるのに……まったく底なしの胃袋じゃなお主らは」
「まだまだ腹一分目だぜ!」
トーマスが口を拭いながら豪快に笑う。
「だよな」
シマとジトーが応じ、二人の笑い声が食堂に響いた。
外では、夕陽が完全に沈み、窓の外のノーレム街は群青色に包まれ始めていた。
その時、宿の扉が開き、ロイドとオスカーの姿が現れた。
「おう、帰ったか!」
「お疲れさん、納品は無事終わったか?」
「バルトルトさんのところへ納品完了だよ。弓もキョウカさんの剣もしっかり見てもらった」
ロイドが答えると、シマは満足そうに頷く。
「そうか、それはよかった。じゃあ馬車と馬を預けてから、どこかで一杯やるとするか」
「了解!」と皆が声を揃えた。
支払いを済ませ、装備を軽く整えた一行は宿を出た。
夕暮れが夜に変わり、街は提灯と街灯の明かりで照らされている。
酒と焼き肉の香りが漂う通りを歩くうちに、どこか心が浮き立ってくる。
「……人が多いな」
ジトーの巨躯が人波の上に突き出し、通りを行く者たちが思わず振り返る。
トーマスの巨体もまた目立つらしく、子供が親の陰に隠れた。
「おいジトー、ちょっとは背を縮めろ」
「無理言うな、シマ」
そんな冗談を交わしながら、オスカーが前方を指さす。
「シマ! あそこなんかよさそうじゃない?」
通りの角に、赤い看板と金文字で「灯火亭」と書かれた酒場があった。
窓からは賑やかな笑い声と音楽が漏れてくる。
「よし、あそこに決めよう」
そう言って扉を押し開けると、暖かな空気と香ばしい香りが彼らを包み込んだ。
中は満席に近く、酒場特有のざわめきが心地よい。
樽を叩く音、ジョッキのぶつかる音、客たちの笑い声が渦のように広がっている。
シマたちは空いていた大きなテーブルに腰を下ろし、すぐに店員が駆け寄ってきた。
「ようこそ! 何にいたします?」
「肉を多めに頼む!あとパンとスープ、エールを五つ!ジュース一つ!」
ジトーが勢いよく注文する。
すぐに料理が次々と運ばれ、テーブルはたちまち豪華な宴席のようになった。
香ばしく焼けたステーキ、山盛り山菜、スパイスの効いた煮込み、そして焼き立てのパンが並ぶ。
「うおおっ、すげぇ匂いだ!」
「いただきまーす!」
食う、飲む、笑う——シャイン傭兵団の面々の勢いは止まらない。
シマは次々と皿を空にし、ジトーとトーマスはまるで競うようにジョッキを重ねる。
「ワシも負けておれんわ!」
ヤコブがワインを掲げ、すぐに顔を赤くして笑い出す。
周囲の酔客たちも、その勢いに圧倒されながらも楽しげに笑った。
「おい見ろよ、あのテーブル……どんだけ食うんだあいつら!」
「傭兵団だってよ。そりゃ腹も減るだろうさ」
「ん? オスカー、お前も飲むようになったのか?」
シマが笑いながら問いかける。
「少しだけどね」
「どうせメグに勧められたんだろ?一緒に飲みたいとか言われて」
ジトーがにやりと笑う。
「ゴフッ!」
オスカーがむせて咳き込む。
「図星かよ!」
トーマスが笑い、皆が腹を抱えて笑い出した。
店の中は、笑いと熱気でいっぱいだった。
ジョッキを掲げる音、パンを割る音、誰かの歌声が混じり、夜はどんどん深くなる。
やがて、オスカーの頬が少し赤くなり、ヤコブは大声で古い鍛冶の歌を歌い出す。
ジトーとトーマスはそれに手拍子を合わせ、シマは頬杖をつきながら笑っていた。
「いい夜だな……」
そう呟いたシマの声は、酒場の喧騒の中に静かに溶けていった。
ノーレムの街は、外ではもう月明かりが石畳を照らしている。
だが、酒場「灯火亭」の窓だけは、まだ熱気と笑いで明るく輝いていた。
その光はまるで、旅路を続ける傭兵たちの一夜の安らぎを祝福する灯のように、静かに街の闇を照らしていた。




