戦勝祝い
ドノヴァン砦——戦は終わった。
しかし、戦場の「終わり」とは、敵が去った瞬間ではない。
人の心の中で戦が終わるには、もっと長い時間がかかるのだ。
傭兵にしろ、軍人にしろ——長く剣を握っていれば、人を殺めたことのない者などいない。
もし、いまだにその「経験」がないのなら、それはただの幸運にすぎない。
血を見ずして剣を語ることはできない。
血を浴びずして勝利を語ることはできない。
それが現実であり、この砦に生き残った者たちは、皆その重みを噛み締めていた。
人を殺めた時の感触は、いつまでも残る。
刃を通じて伝わる骨のきしみ、肉が裂ける鈍い抵抗、流れ出る温かい血のぬめり。
どれほど戦いに慣れていようとも、あの瞬間だけは忘れることができない。
目を閉じれば、倒れゆく相手の表情が浮かぶ——痛み、恐怖、後悔、そして死。
その顔は、決して夢の中から消えてくれない。
多くの戦士たちはその記憶に苛まれ、苦しみ、酒に逃げ、戦に逃げる。
だが結局のところ、そこから立ち上がるには「自分」しかいない。
誰がどれだけ慰めようとも、どれだけ優しい言葉をかけようとも、意味はない。
それは他人がどうにかできるものではない——心の奥底に沈んだ「血の記憶」とは、己自身で向き合い、乗り越えるしかないのだ。
そして、今まさにその道を通っている者がいた。
——エリカ・ブランゲル。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
エリカはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、かすかな光が戻っていた。
「……心配かけたわね。」
掠れた声で、しかし確かに微笑んだ。
「もう大丈夫よ。ありがとう、マリア……サーシャ……シマ。」
余計な言葉はいらない。
シマは静かに頷いた。
「……みんなが待ってるぞ。」
エリカは、すぐに顔を上げた。
「ええ!。」
その声には、もはや迷いがなかった。
その日から、エリカは再び剣を取った。
血に汚れた剣を磨きながら、何度も深呼吸をした。
刃の映る自分の顔は、どこか変わっていた。
泣き腫らした目の奥に、確かな「覚悟」が宿っていた。
——それからだ。
エリカの剣筋が変わったと、誰もが口を揃えて言うようになったのは。
元より天賦の才を持つ剣士であった彼女の動きには、研ぎ澄まされた静けさと重みが加わった。
感情に流されることなく、一撃一撃に「命の意味」を刻むような剣。
攻撃の鋭さだけでなく、守りにも意志が宿り、仲間を護るための剣へと変わった。
戦場で彼女の剣を見た者たちは言う——
「あれは覚悟を知る者の剣だ」「人としての強さ」を見たと。
エリカはもう、泣かない。
彼女は戦場でひとつの真実を得たのだ——
強さとは、恐れを知らぬことではない。
恐れを知り、それでも剣を取ることなのだ。
戦後処理の喧噪がようやく落ち着いたこの日、砦の中庭では焚き火がいくつも焚かれていた。
燃え上がる炎が兵士たちの顔を照らし、杯がぶつかり合う音と笑い声が夜気の中に溶けていく。
戦の終わりを告げる宴——戦勝祝い。
だがそれは、ただの勝利を喜ぶ宴ではなかった。
そこにいた誰もが、今日この場にいない仲間たちの姿を思い浮かべていた。
死者の名がひとつ、またひとつ静かに口にされ、杯が地に注がれる。
彼らがいなければ、この勝利もなかった。
そして何より——今こうして生きていること、それ自体に感謝する夜だった。
この世界には「賠償」も「講和条約」もない。
勝った者が正義であり、負けた者が悪。
「文句があるならかかってこい」、それがこの時代の理屈であり、
だからこそ、勝ち残った者たちは生きることに誇りを持ち、杯を交わした。
肉が焼ける匂い、香草の香り、誰かが即興で奏でる笛の音。
戦場の鉄の匂いを覆い隠すように、温かな空気が砦を満たしていた。
大鍋のシチューが配られ、焼き上げた肉とパンが次々と運ばれてくる。
笑い声、歌声、酒瓶の割れる音——それらが混ざり合い、まるで生の証のように響いていた。
「正直言うぜ……さすがに今回ばかりは分が悪いと思った。」
酒瓶を片手に、ヒルがぽつりと呟いた。
焚き火の炎が彼の顔を赤く照らし出し、苦笑いが浮かぶ。
「なんだよ!」
フレッドが声を張り上げる。
「お前、俺たちが負けると思ってたのかよ?」
「いや、俺たちっていうより……全体だな。もし総崩れになったときに備えて、部下に密かに逃走経路を用意させておいたんだ。」
「それは護衛隊長らしいね。」
ユキヒョウが淡々とした声で応じた。
「君の判断は正しい。総司令官を失うわけにはいかない。軍というものは、勝っても負けても指揮系統が生きていることが肝心だからね。」
「ですね。」
シオンが杯を傾けながら頷く。
「総司令官が討ち取られりゃ、どんな勝ちも意味がねえ。ヒルのやったことは当然だ。逃げる準備をしてこそ、生き残れる。」
「でもよ。」
ロッベンが肉をかじりながら口を開く。
「シマは勝てると思ったから挑んだんだろ?」
「だろうな。」
フレッドがうなずく。
「あいつの目を見りゃわかる。あの瞬間、迷いなんて一つもなかった。勝つって確信してた。」
「つまり……初めから勝算があったってことか?」
アンドレが焚き火越しに問う。
「たぶんな。」
フレッドが笑う。
「何を考えてたかは知らねえけど、あいつは“勝ち筋”を見つけてたんだろう。」
「……今回の戦は運良く、前代未聞の決闘で勝敗がついた。」
アロイスが静かに言葉を継ぐ。
「だが、もしあの決闘がなかったとしても……俺たちは勝てたのか?」
フレッドは少し考えたが、すぐに肩をすくめた。
「勝てたんじゃね? 本人に聞いてみろよ。今、あそこにいる。」
皆の視線が自然と中庭の端へ向いた。
そこでは、シマとハンが談笑していた。
焚き火の赤い光に照らされ、二人とも笑っている。
ハンの小さな背中、そしてその隣で穏やかに杯を傾けるシマ。
今はただ静かに笑い合っている。
「……いずれな。」
アロイスが言った。
「時間がある時に、ゆっくり聞いてみよう。」
その時——
「ヒル護衛隊長! 兄貴たち、飲んでるか!」
勢いのある若い声が響いた。
皆が一斉に声の方を見ると、酒樽を担いだ一人の青年が駆け寄ってくる。
「おお、こいつは俺たちの弟だ。」
アロイスが笑った。
「アントン……アントン・レーアだ。」
「おいおい!」
フレッドが目を丸くする。
「こいつ、めっちゃアドルフに似てるな!」
「……よく言われる。」
アントンが苦笑いしながら樽を下ろした。
その一言に、周囲の兵士たちは一斉に笑い声を上げた。
焚き火の火花が舞い上がり、どこか懐かしい温かさが夜を包み込む。
「三兄弟がそれぞれ役職付きとは……優秀な家系だな。」
シオンが感心したように言った。
「ドノヴァン砦を預かるのが長兄のアロイス。」
ユキヒョウが指を折って数える。
「護衛副隊長のアンドレが次兄、そして守備隊長がアントンか。なるほどね、揃いも揃って精鋭だ。」
「言っとくけどな!」
アンドレが笑いながら声を上げた。
「親の七光りじゃねえぞ! そう言う奴は片っ端から力でねじ伏せてきた!」
「ははっ、わかりやすくていいじゃねえか!」
シオンが豪快に笑う。
「それが一番だ。」
ロッベンが笑い、杯を掲げた。
「結局、力がすべてだろ? だが——その力を正しく使える奴はそう多くねえ。」
「いいこと言うねえ!」
フレッドがロッベンの肩を叩き、杯をぶつける。
「よし、今夜は飲み明かそうぜ!」
笑い声がまた一段と大きくなり、誰かが歌い出した。
それに合わせて笛が鳴り、手拍子をたたく。
戦場では聞けなかった陽気な音楽が、砦の壁を震わせる。
誰もがこの瞬間だけは、悲しみを忘れようとしていた。
失った仲間たちの分まで笑い、食べ、飲む。
それが彼らの弔いであり、生き残った者たちの責務だった。
焚き火の周囲で、笑う者、泣く者、酔い潰れる者、歌う者。
そのすべてが「生」の証だった。
——戦勝祝いは、まだ始まったばかりだ。
だがその喧騒の中でも、静かに語り合う者たちがいた。
――エリカ、サーシャ、マリア。
三人は砦の片隅、少し離れた焚き火のそばで腰を下ろしていた。
炎の光が揺らめき、エリカの白い頬を赤く染める。
その顔には、かつての“じゃじゃ馬姫騎士”の面影がありながらも、戦を経てどこか凛とした、深い影が宿っていた。
「改めて思ったわ……」
杯を見つめながら、エリカが静かに口を開いた。
「お父様がどれほど偉大な方だったか……いいえ、違うわね。ご先祖様もそう……どれだけ血に塗れて、国を守ってきたのか。そして、サーシャ、マリア……あなたたちも、シャイン傭兵団のみんなも……本当に、心から尊敬するわ。」
その声は柔らかく、それでいて確かな重みがあった。
戦場で死を見、命の儚さを知った者だけが持つ、静かな決意の響き。
サーシャが少し笑って言った。
「フフッ……そのことはフレッドたちには言わない方がいいわよ。」
「そうそう、すぐに調子に乗るからね。」
マリアが肩をすくめる。
エリカは思わず吹き出した。
「確かに! あの二人、褒められたら空まで舞い上がるわね!」
三人の笑い声が、焚き火のはぜる音に混ざった。
一瞬だけ、戦の重苦しさが遠のく。
夜風が彼女たちの髪を揺らし、遠くの方では誰かが笛を吹き始めた。
エリカはふと空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……今、確かに“生きている”って実感があるわ。あなたたちに出会えて、本当に良かった。」
「それは私たちも同じよ。」
サーシャが微笑む。
マリアも頷いた。
「これからも、私たちの友情はずっと続くわ。」
「ええ!」
エリカが力強く言う。
「私、決めたの。シマに話すわ。正式に……シャイン傭兵団に入団したいって!」
「えっ……!」
サーシャが目を見開く。
「また思い切ったことを言うわね、侯爵家の長女が……」
マリアが小さく笑いながら続ける。
「ブランゲル様が許してくれるかしら?」
「認めさせるわ!」
エリカの瞳が焔を映して輝く。
その強い意志に、サーシャとマリアも自然と笑みを返した。
「ブランゲル様がどんな顔をするのか……ちょっと楽しみかもね。」
「ふふ……確かに。」
三人の笑い声が重なり、焚き火の輪の方からも声が上がる。
「おーい! こっち来いよ! 笛が始まったぞ!」
呼ばれるままに、三人は立ち上がり輪に加わる。
笛の音が軽やかに跳ね、兵士たちが手を叩き、足を踏み鳴らし、即興の踊りが始まった。
エリカも笑いながら手を取られ、サーシャとマリアと共に輪の中へ。
彼女の頬には、もう戦の影はなかった。
ただ、若き娘としての、ひとりの戦士としての“生”の輝きがあった。
その頃——少し離れた場所で、二人の男が焚き火を囲んでいた。
シマとハン。
どちらも戦の中枢を担った男たちでありながら、今は杯を前に穏やかな表情をしている。
ハンは果実酒、シマはジュースの入った杯を手にしていた。
二人の間に流れる空気は穏やかだが、その奥にある緊張感は消えていなかった。
ハンは杯を傾けながら、ふと表情を曇らせる。
「……シマ。今回の戦、どう思う?」
「どう、とは?」
「ゼルヴァリアの動きだよ。あの国……いや、軍部そのものに、妙な違和感を感じた。」
ハンの低い声が焚き火の音に混じる。
「情報があまりにも遅れていた。いや……“止められていた”と考える方が自然なんだ。意図的に情報を隠したのか、あるいは誤情報を流したのか……そして、あの“六人の化け物”たちの参戦。前回の戦の傷も癒えていないはずなのに、よくあそこまで動けたものだよ。」
「……同感だ。」
シマは短く答えたが、それ以上は言葉を続けなかった。
杯の中のジュースをひと口飲み、火を見つめる。
「本当は、君の意見が聞きたかった。」
ハンが呟く。
「だが……こんな夜に話すのは無粋だね。」
シマは微笑んだ。
「同じことを考えてたよ。」
二人は一瞬、目を合わせて笑う。
そして、沈黙。
焚き火の音だけが、静かに鳴っていた。
少しして、シマが言った。
「……ハン。秘密を教えてやる。誰にも言うなよ?」
「秘密?」
「シャイン傭兵団の中でも、知ってるのは幹部連中だけだ。」
「……必ず守るよ。」
ハンは真剣に頷く。
シマは少し杯を置き、焚き火を見つめながら言った。
「実はな……俺には“前世の記憶”があるんだ。」
「……えぇっ?!」
ハンの目が丸くなる。
「うっそだあ!」
シマは吹き出して笑った。
「アハハ……俺が、お前に嘘をついたことがあったか?」
「……まさか、本当に?」
シマはゆっくり頷く。
そして、遠い目をして話し始めた。
「前の世界ではな……“遠くにいる人”と話せたんだ。“空を飛ぶ乗り物”もあった。夜でも街が明るくて、空には鋼でできた鳥が飛んでた。人の声が光に乗って届くんだぜ。小さな箱を手に持って、誰とでも話せた。」
「ははっ……何だいそれ。」
ハンは呆れたように笑うが、その目には興味が宿っていた。
「そんな世界、想像もつかないよ。」
「俺も、時々夢みたいに思う。けどな……確かにあった。俺は“そこ”で生きてた。」
シマは夜空を見上げた。
「俺たちは、月にも行ったんだ。」
ハンは絶句した。
だが、すぐにふっと笑い、杯を掲げる。
「……すごいなぁ。想像もつかないけど、君が言うなら信じるよ。」
シマも笑って杯を合わせる。
「ありがとうよ、ハン。」
二人は黙って月を見上げた。
蒼白く輝く月が、静かに二人を見下ろしている。
その光は焚き火よりも柔らかく、どこか遠い郷愁を誘う。
焚き火が静かに弾け、宴の喧騒の向こうで、夜が穏やかに更けていく。
夜は長く、そして温かかった。
砦の上空に浮かぶ月は静かに微笑み
死者たちもまた、その光の向こうで安らかに杯を交わしているように思えた。




