前代未聞?!
死をも恐れぬ狂戦士たちの本能が、初めて「逃げろ」と叫んでいた。
矢を見たからではない。
矢が放たれる「気配」すら、もはや命を削るような死の風圧と化していたのだ。
次に自分に向けられるのではないか、その恐怖が血の底を焼くように全身を駆け巡る。
だが、理性を失った者たちの中には、なお前へと進む者もいた。
半狂乱で、咆哮をあげ、己を奮い立たせるために叫びながら突撃する。
しかし、彼らを迎えたのは――槍衾。
シャイン傭兵団とスレイニ族軍の二列横陣が、前進していた。
それは、まるで地そのものが迫ってくるかのような威圧感だった。
規律正しい足並み、一定の歩調、槍の穂先が一斉に光を返す。
歩みを止めぬ者たち――それがシマの率いる「シャイン傭兵団」であった。
彼らは怒号も歓声も上げない。ただ静かに、淡々と進む。
その姿こそが恐怖だった。
やがてゼルヴァリアの戦列に揺らぎが生じる。
押し寄せたはずの波が、次第に後退していく。
たった数百の軍勢が、万に迫る敵をじりじりと押し返していた。
信じられない――狂戦士たちの心の奥底に、そんな声が生まれる。
背を向けること、それはゼルヴァリアの戦士にとって「死」と同義。
恥ではなく、存在の否定である。
だが、理屈などもはや関係なかった。
彼らの足が勝手に逃げ出したのだ。恐怖が、身体の芯を支配していた。
その異様な光景を、遠目から見ていた者たちがいた。
ゼルヴァリアの“六人の化け物”のうち、残る四人――
ゼン・マクレガー、ベニーニョ・シャン、カルミネ・ネッツ、デルフィーノ・ケーラー。
彼らは一瞬で悟った。
――マズイ。
――あれを止めねば、軍が壊滅する。
武勇に生きる彼らにとって、「恐怖」というものは理解できても克服の対象ではなかった。
それは理屈ではない。感染する。そう、「恐怖は伝播する」のだ。
ゼン・マクレガーが天を仰ぎ、咆哮した。
「止めろォォォォ!! あいつらを止めるのじゃァァッ!!!」
その声に応じるように、砦前の狂戦士たち走り出す。
血に塗れた剣を振りかざし、悲鳴のような怒号を上げながら――。
「ウオオオオオオオオッッ!!!」
再び戦場が振動した。
次の瞬間――。
ドンッッ!!
ドンッッ!!
ドンッッ!!
ドンッッ!!
ドンッッ!!
ドンッッ!!
六発の雷鳴。
轟音が大地を叩き、空を裂く。
サーシャの超強弓が唸り、矢が放たれた瞬間、それはもはや「矢」ではなかった。
雷の槍。神の怒り。
人の放つ射撃の域を超えた、まさしく“戦乙女の雷撃”だった。
最初の一射で、十数人の胸が貫かれた。
次の一射で、盾ごと五人が吹き飛ぶ。
三射目、四射目、五射目――矢は連続して放たれ、息つく暇もなく、血飛沫と悲鳴が交錯した。
最後の六射目が放たれたとき、ゼルヴァリア軍の進軍は完全に止まっていた。
否――「止められた」のだ。
血と土煙の中、サーシャの姿が見えた。
長い金髪が風に舞い、蒼い瞳には微かな炎が宿る。
弓を下ろし、弦を張り直すその動作には、一切の迷いも、感情の揺らぎもなかった。
彼女にとってそれはただの“仕事”。
だがその姿は、敵には神話の戦乙女そのものに見えただろう。
ゼルヴァリア軍の中に、絶望が広がっていく。
誰も声を出さない。
「止まれ」と叫ぶ者もいない。
音を立てずに後退し始める。
いや、後退というよりも、全員が本能的に「距離を取ろう」としていた。
その光景を見たゼン・マクレガーは、初めて自分の胸に重い痛みを覚えた。
怒りではない。後悔でもない。――“理解”だった。
なぜ最初に突撃した二千の兵が瓦解したのか。
なぜ誰一人戻らなかったのか。
答えが、今まざまざと目の前にあった。
「……くそ……」
ゼンは呟いた。
自分が叫び、鼓舞した。
「恐れるな」「進め」と。
それが結果として、多くの命を無意味に散らせた。一合も交えずに、だ。
彼らは戦士だった。誇りをもって死地に赴くことを恥じない。
だが、意味のない死は違う。
誇りも矜持も、そこには存在しない。
ゼン・マクレガーは、己を呪った。
己の声が、己の指示が、多くの命を奪ったことを。
――「ワシは、将じゃねえ……」
その呟きは、血の海に溶けて消えていった。
彼は個の武に生きてきた。
戦鎚一本で名を上げ、ただ己の力だけで生き延びてきた。
だからこそ、統率というものを知らなかった。
人を導くということを、考えたこともなかった。
ゼルヴァリアという国が抱える宿痾――それは「個の力への盲信」である。
集団戦術を軽視し、勇猛さと狂気を美徳とした文化が、今まさに破滅を招いていた。
化け物たちは強い。だが、強すぎるがゆえに、一つにまとまることができない。
己の武を誇り、己の死を誇りとする者たちが、秩序を築くことなどできようはずもない。
ゼンの拳が震えた。一人の狂戦士が、自分の愚かさを噛みしめていた。
そしてその頃、シャイン傭兵団は無言のまま前進を続けていた。
砦の上空には、血と煙と、焦げた鉄の匂いが漂う。
サーシャが弓を下ろし、矢筒の中を覗き込む。
「……太い矢が尽きたわ」
その声は淡々としていたが、場の空気が微かに変わる。
さきほどまで空を裂いていた雷撃の音が止み、戦場に一瞬の静寂が訪れた。
血と煙の匂いがまだ漂う中、サーシャの言葉が冷たい風のように響く。
「挑発してみるか……一対一の勝負に」
シマが低く呟く。
その瞳には、燃えるような闘志も、驕りもなかった。
ただ戦場の理を見極めた者の目だった。
ユキヒョウが頷く。
「乗ってくるだろうね。そういう“お国柄”だし」
マリアが苦く笑う。
「ゼルヴァリアはそういう国だからね。挑発されれば、武人の誇りが黙ってないわ」
「元ゼルヴァリア軍閥国民としての意見か?」
ロッベンが茶化すように言う。
「俺たちも元ゼルヴァリア軍閥国民だろうが」
シオンが肩をすくめる。
サーシャが呆れたようにため息をつく。
「……こんな時に軽口言ってると、後が怖いわよ」
「おっと、シマ! 俺はいつだって真面目だからな!」
シオンがにやつきながら言い返す。
そのやり取りに、周囲の兵たちの緊張がほんの少しだけ和らいだ。
シマが小さく息を吸い、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「んじゃあ、ちょっくら煽ってみるか!……おい!! 化け物と呼ばれる奴ら、出て来いよ!! 一対一の勝負と行こうじゃねぇかッ!!」
フレッドの声が戦場に響き渡る。
それは、怒号でも挑発でもなく、堂々とした宣言だった。
まるで大地が吠えたかのように音が反響し、遠くでざわめいていたゼルヴァリア軍の動きがぴたりと止まる。
次の瞬間――敵陣が割れた。
前線の狂戦士たちが左右に道を開ける。
現れたのは四つの影。
ゼン・マクレガー。ベニーニョ・シャン。
カルミネ・ネッツ。デルフィーノ・ケーラー。
「……おっ、本当に出てきやがった!」フレッドが笑う。
その笑みには恐れなど微塵もなかった。
シマは振り返って、短く言った。
「ハン、任せてくれるか?」
ハンは頷く。
「うん、シマに任せたよ!」
「助かる」
それだけ言い残すと、シマ、フレッド、サーシャ、ユキヒョウの四人が前へ出た。
ゼン・マクレガーの目が見開かれる。
「……お前ら……いつぞやの……! それにユキヒョウ……!」
「やあ、久しぶりだね。一年ぶりくらいかな?」
ユキヒョウが穏やかに笑った。
その銀髪が風に揺れるたび、ゼルヴァリア兵たちの間からざわめきが広がっていく。
「おい、あいつらって……“ヴァンの戦い”でこっち側にいなかったか?」
「……あいつら、確か……シャイン傭兵団だ!」
「まさか、あの銀髪……“氷の刃傭兵団団長”のユキヒョウか?!」
「異端児……何故お前がそっち側にいる……?」
カルミネが唸るように問いかけた。
「シャイン傭兵団にいるからだよ」
ユキヒョウの答えは簡潔だった。
それは説明でも弁明でもなく、ただ事実の告げだった。
「フッ……別に珍しいことでもないだろう。傭兵なら敵にも味方にもなる」
ベニーニョ・シャンが低く笑う。
その笑い声が戦場に鈍く響く。
「だが……」
デルフィーノ・ケーラーが前に出る。
「お前が“ゼルヴァリア”から出たこと、後悔させてやる」
その言葉にユキヒョウが小さく鼻で笑う。
ゼンがそれを制すように右手を上げた。
「……いいだろう。ワシらが勝ったら、領土をもらう。“ヴァンの戦い”で失った領土だ。……お前らは何を望む?」
シマが剣の柄に手を添えた。
「退け。ゼルヴァリア軍の撤退だ」
短く、静かに、それだけを告げた。
ゼンはしばし沈黙し、やがてうなずいた。
「ふむ……よかろう。聞いたな、お前たち! ワシらが負けたら速やかに撤退せよ!」
その声は戦場の隅々にまで響き渡り、誰一人として逆らう者はいなかった。
ゼルヴァリアの狂戦士たちでさえ、今だけは“化け物たち”の意志に従う。
フレッドが肩をすくめながら笑う。
「一つ忠告だ。俺たちシャイン傭兵団はスレイニ族と同盟を結ぶ。……あんまし、ちょっかいかけてくるんじゃねぇぞ。俺たちが“出張る”ことになる」
フレッドの言葉は、冗談のようでいて、決して笑い事ではなかった。
「前代未聞だな……」
アンドレが呟いた。
「本当に、一対一で決着をつけるつもりか……?」とヒルが問う。
「それが彼らの“誇り”なんだろうね…かつての僕たちもそうだったじゃないか」
ハンが応じる。
敵も味方も、ただ見つめていた。
空を横切る風が、血と鉄の匂いを運ぶ。
誰もが息を呑んでいた。
万の軍勢がいるにもかかわらず、戦場が静まり返っている。
――誰かが、低く息を吐いた。
まるで天地が息を呑むように、空間が張り詰めていく。
こうして、歴史に刻まれることになる――“前代未聞の対決”。
「んじゃ、始めんぞ」
フレッドの低い声が、戦場に満ちる風鳴りを裂いた。
それが合図だった。
瞬間、四つの闘気が爆ぜ、四つの戦場が同時に開かれた。
地を蹴る音がほとんど聞こえぬほどの速さで、それぞれの戦士たちは死の領域へと踏み込んでいく。
フレッド vs ベニーニョ・シャン
フレッドが動いた時、視界から彼の姿が消えた。
まるで空気に溶けたかのような速さ。
ベニーニョの豪槍が反射的に突き上げられる――しかしそこにはもう誰もいない。
突き抜けた槍先が虚空を突く音が、寂しく響く。
その瞬間——彼の瞳が驚愕を宿したまま、何が起こったのか理解する間もなく視界が反転する。
見下ろせば、自らの身体が槍を握ったまま膝をついていた。
それが最後に見たベニーニョの景色だった。
「遅ぇな、反応が」
フレッドの声は、まるで風の残響のように耳の奥で響いた。
双剣が血を纏い、風を裂く。
それはもはや剣術ではなく、死神の所作。
斬り裂く動作そのものがひとつの儀式のように静謐で、周囲の空気までもが凍りつく。
誰もフレッドの動きを見ていない。
ゼルヴァリア軍の兵士たちはただ、瞬きの間にベニーニョの首が宙を舞った光景だけを見て、息を呑んだ。
シマ vs カルミネ・ネッツ
対するシマの前に立つカルミネは、まるで熊のような男だった。
分厚い筋肉と獣じみた体臭。顔の半分を覆う濃い髭。
握る剣は、青龍刀のように湾曲した巨刃。
「来い、小僧…一刀のもとに叩き潰してやる!」
咆哮が響いた瞬間、カルミネは巨体に似合わぬ速度で踏み込む。
大地が裂けるような音を立て、剣が振り下ろされようと――
その一撃の前に、シマはただ微動だにしなかった。
「……」
カルミネの眼前で、シマが指を弾く。
乾いた音――パチンッ。
その直後、カルミネの眉間に小さな穴が開き、わずかに遅れて喉から血が噴き出した。
「な……」
最後の言葉が喉の奥で泡と消える。
誰も見ていない。いや、見えなかった。
シマの指先にあったのは、釘二本。
それを弾丸のように弾き飛ばした“指弾”――至近距離から放たれたそれは、音速に近い。
カルミネの青龍刀が一度も振り終えられることなく、彼はその場に崩れ落ちた。
カルミネの巨体が地を揺らすと同時に、戦場の空気が変わる。
誰もが本能的に悟る。「この男は、見えぬ刃を持つ」と。
サーシャ vs デルフィーノ・ケーラー
デルフィーノの戦斧が唸りを上げた。
その一撃は、並の戦士ならば風圧だけで骨を砕かれるほどの質量を持っている。
だがサーシャは、既にそこにはいなかった。
風のように流れ、砂塵を切り裂く。
デルフィーノが振り抜いた戦斧の軌跡の外側、ほんの指先一つ分の距離を掠めるようにサーシャの姿が滑る。
カチリ――小石が指先で弾かれた。
石弾がデルフィーノの右目に突き刺さり、血が噴き上がる。
「ぐッ!?」
咄嗟に戦斧を構え直すが、すでに遅い。サーシャはもう背後にいた。
「――さようなら」
《ショートソード》が心臓を貫く。
そのまま体を翻し、離れざまに頸動脈を断つ。
赤い弧を描いて飛び散る鮮血が、サーシャの頬を掠める。
彼女の動きは一連の流れに無駄がない。
まるで踊るように、静かに、確実に敵を葬っていく。斬撃に残る余韻は風だけ。
デルフィーノの巨体が、音もなく崩れ落ちた時、サーシャはすでに刃を納めていた。
ユキヒョウ vs ゼン・マクレガー
そして最後の戦場。
互いに過去を知る者同士――四年前の“ゼルヴァリア闘技会”で引き分けに終わった因縁の二人。
巨体のゼンが戦鎚を構える。地を踏み締めただけで、岩盤が割れた。
対するユキヒョウは静かに息を吐く。
左腕のバックラーを前に出し、青く光るバスタードソードを下段に構えた。
「ぬうんッ!!」
ゼンの戦鎚が振り下ろされる。空気が悲鳴を上げるほどの一撃――。
ガァンッッ!!
金属が悲鳴を上げ、衝撃が大地を揺らす。
しかしユキヒョウは踏みとどまった。
ゼンの目が見開かれる。
「馬鹿なッ……!受け止めた、じゃと!?」
その後も何度も受け止めるユキヒョウ。
ユキヒョウはかつて、この男の一撃を避けることしかできなかった。
だが今は違う。
シャイン傭兵団で過ごした一年――その中で彼は、己の限界を何度も打ち砕かれてきた。
(……パワーは、ジトーたちに比べれば話にならない。スピードも鈍い。隙だらけだ。……もう、終わらせよう)
ユキヒョウは静かに呟く。
「……終わりだよ、ゼン。もう休め」
「小癪なァァッ!!」
ゼンの叫びが響く。
ユキヒョウはその声を聞き流し、バックラーを斜めにして弾く。
――ガンッッ!!
戦鎚が宙を舞う。
その瞬間、青白い閃光が三度瞬いた。
突き、突き、突き。
喉、心臓、右肺。
剣が抜ける音だけが静寂に響いた。
ゼン・マクレガーの瞳が揺れ、口元がわずかに笑みを描く。
「……見事、だ……」
その言葉とともに、巨体が音もなく倒れた。
四人の“化け物”が倒れた。
戦場を包んでいた熱気が嘘のように引いていく。
ゼルヴァリア軍の兵士たちは誰一人、声を発することができなかった。
目の前で繰り広げられたのは、もはや「戦い」ではない。
それは――処刑。
そしてシマが前に出る。
その眼差しは、倒れた四人の亡骸をまっすぐ見据えていた。
「……退け、ゼルヴァリア軍。俺たちの勝ちだ」
風が吹く。
ゼルヴァリア軍の中から誰かが、武器を落とした音がした。
その音が合図だったかのように、全軍が静かに膝をつく。
――戦場に、静寂が訪れた。




