ドノヴァン砦に向けて
スレイニ族軍庁舎。
石造りの重厚な建物は、普段なら静謐で整然とした空気を保っているが、この朝ばかりは違っていた。
伝令の駆ける音、命令を伝える声、兵士たちの足音――混乱ではなく、即応の機能的な喧噪。
それだけ、スレイニ族軍が日頃から鍛えられている証でもあった。
扉を開けると、執務室の中にはハンと護衛隊長ヒル、そしてアンドレの姿があった。
地図が広げられた机の上には、燭台の火が静かに揺れている。
ハンの表情はいつになく険しかった。
「来てくれたか、シマ」
「……何があった?」
ハンは深く息を吐き、短く答えた。
「ゼルヴァリア軍閥国が動いた。国境地帯でドノヴァン砦が攻撃を受けている…僕たちも警戒はしていたけど、情報が錯綜していて、どれほどの規模で攻めてきているのかまだ掴めていない状況なんだ」
「それで、軍上層部を今、会議室に集まってもらっている。お前たちも来てくれるか?」
ヒルがシマを見据えて言う。
シマは短く頷いた。
「助かるよ」
ハンはわずかに肩の力を抜くと、ヒルとアンドレに合図を送った。
彼らを従え、一同は会議室へと向かう。
会議室はすでに緊迫した空気に包まれていた。
長卓の両脇には軍の上層部がずらりと並び、鎧の金具がこすれる音だけが妙に響く。
壁際には伝令兵が控え、刻々と入る情報を待っている。
先頭にハン、その隣にヒルとアンドレ。
続いてシマたちも入室する。
彼らが姿を現すと、室内のざわめきがわずかに止んだ。
「……軍神の傭兵団だ」
「まさか彼らが来てくれるとは……」
そんな囁きが漏れる。
シマは周囲に目をやり、淡々とした声で言った。
「俺たちは後ろでいい。会議の邪魔はしない」
ハンが頷くと、シマたちは軍上層部の後列の席に腰を下ろした。
中央に立ったのは、スレイニ族軍作戦室長――ガントルガ・スミヤーバザル。
無骨な顔立ち、短く刈り込まれた茶髪に、重い声。
「――それでは、報告を始める」
ガントルガの号令とともに、伝令が次々と入ってくる。
地図上に駒が置かれ、位置が指し示されていく。
「ゼルヴァリア軍、南方国境より侵入。第一報では千、次報では三千。現在は……」
伝令が息を切らしながら報告する。
「万に近い軍勢との情報あり!」
ざわっ、と空気が揺れた。
「万だと?!」
「ありえん、そんな短期間で……」
「夜襲を仕掛けてきた模様!」
「砦側の応答が断たれました!」
怒号に近い声が飛び交い、場は一気に沸騰する。
「化け物が六人参戦との報せもあります!一人はゼン・マクレガー!他の名は確認できず!」
「……ゼン・マクレガーだと?!」
「思い切ったことをする……連中、なりふり構わずだな」
ヒルが舌打ちする。
ハンの表情は苦く、言葉少なに黙考した。
「そこまでの動きは想定していなかった……」
「万に近い軍勢……ドノヴァン砦が危ねえな」
ヒルの言葉に、アンドレが顔をしかめる。
「いや、それだけじゃねえ。砦が落ちれば周辺地域がまた荒らされる!」
ガントルガが地図上の駒を動かし、険しい声で言う。
「ヴァンの戦いで失った領土を取り返すつもりだな……」
「くそっ……やっとあの辺りが安定してきたってのに!」
アンドレが拳を握りしめる。
その怒気を静めるように、ハンが右手を上げた。
ざわめきがぴたりと止む。
「……意見はわかった。ドノヴァン砦を死守する。それがこの会議の結論だ」
「了解!」
全員が一斉に敬礼する。
その直後、ハンはシマの方を振り向いた。
「シマ……」
その声には、信頼と、総司令官としての決意が入り混じっていた。
「シャイン傭兵団に依頼する。受けてくれるかい?」
会議室の空気が一変する。
シマは静かに目を細め、短く答える。
「依頼内容と報酬は?」
「ゼルヴァリア軍を退けてくれ。ドノヴァン砦を抜けさせるわけにはいかない。報酬は二百金貨でどうだい?」
「……もし、砦がすでに落ちていた場合は?」
「その場合は、残念だが報酬は支払われない。どれだけシャイン傭兵団に被害が出ようとも、だ」
ハンの声は冷静だが、その裏には深い苦渋があった。
シマは少しだけ目を閉じ、考える素振りを見せた。
数秒の沈黙ののち、口を開く。
「了解した。ドノヴァン砦が落ちていた場合、俺たちはその時点で手を引く。その条件であれば、引き受けよう」
「……うん、分かった。その条件でいいよ…ありがとう、シマ」
ハンの表情が少しだけ緩む。
「契約書は必要かな?」
「本来なら細かく条件を詰めるところだが――時間が惜しい。すぐに向かう準備をさせてくれ」
その言葉に、会議室が一斉に沸いた。
「おおっ、軍神の一団が動くぞ!」
「これ以上の味方はいねえ!」
「ドノヴァンは守られる!」
ハンが短く叫ぶ。
「ヒル、アンドレ! 全兵に通達だ!」
「了解!」
ヒルが、扉を開け放って怒鳴る。
「鐘を鳴らせ! 寝ている兵士を叩き起こせ! 戦支度だッ!」
外で鋭い金属音が響き、街下の鐘が打ち鳴らされた。
ホルンの街全体が、一瞬で戦時の空気に包まれていく。
鎧を身につける音、命令を伝える声、馬のいななき。
シマは椅子から立ち上がり、フレッドとサーシャに目を向けた。
「準備に入る。……急げ」
夜明けの光が差し込み始める頃、シャイン傭兵団は再び動き出していた。
彼らが向かう先――ドノヴァン砦。
戦火の渦中へと、静かに、しかし確実に足を踏み入れていく。
シャイン傭兵団の団長シマは、短く、鋭く命じた。
「非戦闘員――コーチン、メリンダ、それに子どもたちはホルンの街で待機だ! 必要最低限の荷物だけを持て! これから強行軍で向かう!」
その声に、団員たちは一斉に応じる。
「おうッ!!」
地を揺らすような返答。
全員の意志がひとつにまとまった声だった。
その直後、シマは振り返り、既に準備を整えていたスレイニ族軍の指揮官ハンに歩み寄る。
風に翻る外套を押さえながら、低い声で言った。
「ハン、兵站と輸送、それに衛生部隊は後からでいい。今すぐに動ける者だけでも先に向かわせるべきだ。」
ハンは一瞬だけシマの顔を見つめ、それから頷いた。
彼の眼には焦りもあるが、それ以上に燃えるような決意があった。
「わかった! 第十一先導! 第十二から十五まで出るよ! 第十六から二十まではガントルガに任せる!」
ヒルが力強く応じる。
「了解だ!ガントルガ!兵站は途切れさせるな。必ず届けろ!」
ガントルガは拳を胸に当て、短くうなずく。
「任せろ!誰ひとり、飢えさせやしない!」
その一方で、出立の直前。
後方に残るメリンダは、フレッドの顔を不安げに見上げていた。
「……フレッド。無茶はしないでね。必ず……帰ってきて。」
彼女の声は小さいが、懸命に抑えた震えがあった。
フレッドはそんな彼女の手を軽く取って、にやりと笑う。
「心配すんな。俺が簡単にくたばるようなタマじゃねぇよ。」
すぐ横で、ロッベンが腕を組んで笑った。
「だよな! フレッドの敵になった奴の方がかわいそうだぜ。」
そして、シオンが肩をすくめながら言葉を継ぐ。
「そういうこった。お前は何も心配せずに待ってるんだな。」
フレッドは最後にもう一度、彼女の肩を叩いて背を向ける。
その背中を見送るメリンダの目に、沈黙の祈りが宿っていた。
――かくして、シャイン傭兵団とスレイニ族軍は、ドノヴァン砦へ向けて出立した。
風を切り、土を蹴る音が大地を震わせる。
第一陣の総勢は千を超える規模――行軍は強行である。
日が傾き、夜気が濃くなるころには、呼吸の荒さが随所で聞こえた。
それでもシマは歩を止めない。
疲労の色を見せる者には短い休憩を与え、水と干し肉を配り、再び号令をかける。
進軍速度を落とせば、敵が砦を落としてしまう。
間に合わなければ、仲間が、民が死ぬ――その一点だけが、全員を前へと押し出していた。
シマは馬に乗るハンに並び、短く問いかける。
「スレイニ族軍の編制を教えてくれ。」
「一部隊二百人。スレイニ族軍全体で二十五部隊ある。現在、砦に詰めているのは第一から第十、およそ二千人だよ。」
「戦術の理解度は?」
「悪くないと思うよ。ただし長期戦には向かない。備蓄も限界に近い。」
「……そうか。俺たちは独立部隊として動いて構わないか?」
シマの言葉に、ハンは即答した。
「うん。シャイン傭兵団の動きに合わせて、僕たちが支援する形にした方がいい。君たちの方が戦場を読むのが早いから。」
その返答に、シマはわずかに口元を緩めた。
重責を担う者同士の、短い信頼の交換だった。
夜が明けた。
一昼夜駆け続け、彼らはついに砦手前の町――スヴェンへと到着する。
休息を取るには十分な場所だった。
スレイニ族軍の兵たちが次々と崩れるように座り込んだ。
初めは千人近くいたはずの同行者が、数えてみれば七百ほどになっている。
脱落した者の多くは疲労によるものだ。
馬も馬車も足りず、どうしても歩けなくなった者は、後から合流するか、兵站部隊に拾われるかするしかなかった。
それは誰にとっても辛い選択だったが、今は立ち止まることが許されない。
ハンの部下が地図を広げ、息を切らしながら報告する。
「……ここで少し休ませたいところです。補給隊はまだ半日の距離に。」
「いい。ここで三〇分休め。」
ハンは即座に判断したが、その表情は険しいままだ。
シマがその横顔を見て、静かに口を開いた。
「焦るな。お前の部下はよくやってる。」
――シマは傭兵団の方へと視線を向ける。
そこには、疲労の色を見せる者はひとりもいなかった。
軽装のため身動きも軽く、馬車の整備や水の補給を率先して行い、笑い声さえあがっている。
「シャイン傭兵団、脱落者ゼロ。すげぇな……」
スレイニ族軍の兵士が思わずつぶやいた。
「当たり前だろ。」
シオンが肩を回しながら笑う。
「シマたちの地獄の訓練をくぐってきた俺たちだぜ。これくらいでへばるかよ。」
ロッベンも続ける。
「ま、強行軍ってのは気合と段取りだ。筋肉が泣き言を言う前に動かせば、案外どうにかなるもんさ。」
その言葉に、傭兵たちの間に笑いが起きる。
だが、彼らの笑顔は軽いものではない。
数多の戦場を越え、仲間の死と生を共にしてきた者たちの、静かな覚悟の笑みだった。
シマは焚き火の煙を見つめながら、ひとつ息を吐く。
戦いが始まれば、もう後戻りはできない。
砦の守備は二千。こちらは七百弱だが、まともに戦える兵は限られている。
それでも、行かねばならない。
「……あと少しだ。ここを抜ければドノヴァン砦だ。」
小さくつぶやいたシマの声は、近くにいた団員たちの耳にも届いた。
誰も返事はしない。ただ、全員がその言葉を胸に刻み、立ち上がった。
再び、行軍の号令がかかる。
「全員、装備を確認! 前進の準備!」
馬の蹄が地を蹴る。
スレイニ族軍の旗が風を裂き、シャイン傭兵団の団旗が朝日に光った。
休息の町スヴェンを後にして、彼らはドノヴァン砦へ向かう。
そこには、決戦の地が待っている。
「フレッド! 偵察を頼む!」
シマの命令は短かったが、その重みは全員の胸に響いた。
周囲のざわめきが一瞬止まり、風だけが草を揺らす。
フレッドはにやりと笑って、あっという間に身を翻した。
踏み出した一歩目で既に速さが違う——まるで音が置き去りにされるように、彼は疾駆していった。
砂埃が立ち、草の葉が揺れる。だがフレッドの姿はすぐに消えた。
誰もが顔を上げ、見送ることしかできない。
スレイニ族の兵たちの間からは、思わず漏れる声が出る。
「な、何だ? あの速さは?!」
「あれが……人間の出せる速度かよ?!」
「もう見えなくなったぞ……!」
驚愕と畏怖が混ざった声が繰り返される。
フレッドが消えた方向には風だけが通り、草の揺れが少しずつ落ち着いていった。
シマの視線サーシャに向けられる。
「サーシャ、太い矢は何本持ってきた?」
サーシャは落ち着いた声で応える。
「十本よ。」
シマは眉間に皺を寄せながら、低くつぶやいた。
「――それだけありゃあ、何とかなるか……?」
そのとき、ユキヒョウが静かに肩越しに声をかける。
「シマ、ゼン・マクレガーの相手は僕に任せてもらっていいかな?」
シマは一瞬だけ目を細め
「遊んでる時間はねえぞ。ちゃっちゃと倒すか、打ち取れよ。」
ユキヒョウは微かに笑って肩をひくつかせる。
「了解だよ。」
その瞬間、地面が軽く震えた。
フレッドが戻ってきたのだ。
「シマ、報告だ。こっちに向かってなだれ込んできてる奴らがいるんだが……敵か味方か、わかんねえんだよ。」
言葉は短いが、その声には警戒が滲んでいる。




