海?!
浜辺に立った瞬間、シマは思わず足を止めた。
目の前に広がるのは、宝石を散りばめたように透き通ったエメラルドグリーンの海。
波が寄せては返すたびに、陽光を受けて白銀のきらめきを放ち、潮風が頬を撫でていく。
前世の記憶にある海岸を思い返してみても、これほど清冽で澄み切った海を見たことはなかった。
心の底から「飛び込みたい」という衝動が湧き上がり、砂鉄集めの目的さえ霞んでしまうほどだった。
隣ではビリーが子供のようにはしゃぎ、砂浜を駆け回っている。
その様子に団員たちも苦笑を浮かべながら、どこか自分たちも抑えきれない期待を抱いていた。
「砂鉄集めがひと段落したら泳ごうぜ」
シマがそう口にすると、仲間たちの顔に一斉に笑みが広がった。
だがまずは本題。
シマは腰に下げていた小袋から黒光りする磁鉄鉱を取り出すと、掌の上で転がしてみせた。
ゴロリとした鉱石が砂の上に落ちると、不思議なことに砂粒の一部が鉄粉のように吸い寄せられ、細い髭のように鉱石へと伸びていく。
「なっ…!」
「おい、砂がくっついてるぞ!」
半信半疑だった団員たちがどよめき、覗き込むラルグスたちの若者も目を丸くする。
海辺の砂が勝手に動いているように見え、まるで生き物のようだとざわついた。
「これは…どういう仕組みなんだ?」とラルグスが問いかけるが、シマは首を横に振り、「悪いが今はまだ教えられねえ」とだけ答えた。
ラルグスは何か言いたげだったが、シマの強い眼差しに口を閉ざし、引き下がった。
作業は午前中から続き、皆で砂を掬っては磁鉄鉱で鉄分を集め、背負い袋へ詰めていく。
袋は次々と馬車へ積まれていき、荷台がずしりと重みを増していった。
夏の日差しは容赦なく、じりじりと肌を焼き、額から汗が流れる。
熱気に包まれながらも、団員たちの目は時折海へと向かい、早く飛び込みたいという気配が隠しきれない。
ついにシマが手を止め、大声で言った。
「よし、ころ合いだな! 泳ごうぜ!」
「待ってましたー!」
歓声が上がり、一斉に男たちが服を脱ぎ捨てる。
ここには女子がいないのも幸いだった。
上半身裸どころか、下着一枚にまでなり、白い砂浜を蹴って次々と海へ飛び込んでいく。
シマも迷わず海に身を投げた。
冷たさと同時に身体を包む浮力、潮の香り。生きている実感が全身を駆け抜ける。
「見よ! ルナイ川で鍛えた俺の泳ぎ、バッタフライを!」
ベルンハルトが大仰に叫び、両腕を大きく広げて力強く水をかく。
水しぶきが弧を描き、彼の巨体が波を割って進む。
「なんの! 俺の華麗なくろーるを目に焼き付けろ!」
続いてコルネリウスが流れるような腕の動きで水を切り、脚でリズムよく水を蹴り進む。
その滑らかさに仲間たちが歓声を上げた。
「…何だあの泳ぎ方は…?」
ラルグスが呆然と呟く。
「バッタフライとくろーるって泳ぎ方だよ。速く泳げるんだぜ」
ベガが得意げに説明する。
ヤコブも負けじと、意を決してパンツ一丁になると、周囲の爆笑と歓声に迎えられながら海へ飛び込んだ。
普段は知識人として落ち着いた振る舞いの彼が、大の字で水面に浮かんでバタ足をしたり、子供のように水を掛け合ったりする姿に、団員たちは驚きながらも「ヤコブさん無理するなよ~」「ヤコブ先生も童心に帰る時があるんだな」と口々に茶化す。
ヤコブ自身も満面の笑みで応え、学者という顔を忘れたひと時を全身で楽しんでいた。
その時、突然団員の声が鋭く響いた。
「おいッ! ビリーが波にさらわれたぞ!」
振り返ると、ビリーの小柄な体が沖に向かう流れに引き込まれている。
必死に手足を動かしているが、波が容赦なく襲いかかる。
「助けろ!」
数人が一斉に飛び出し、シマも躊躇なく海を蹴った。
波間に顔を出すビリーへ一直線に向かい、背後から腕を掴んで引き寄せる。
ワーレンとコルネリウスが左右から支え、力強く浜辺へと引き戻した。
ビリーは水を吐き出しながらも「ひ、ひゃっはー! 生きてる!」と笑い、周囲は安堵と爆笑に包まれる。
「よし、俺にもその泳ぎ方を教えてくれ!」
ラルグスが目を輝かせて叫ぶ。
「俺もだ!」
「俺も!」
若者たちが次々と声を上げ、海の中でシマたちの周りに集まった。
こうして見よう見まねの練習が始まる。
手足の動かし方を真似ては沈み、むせながらも再挑戦し、何度も繰り返す。
海辺は笑い声と水しぶきで賑わい、熱気を忘れるひとときとなった。
やがて、一行は少し離れた浜辺で行われていた地引き網漁に加わることになった。
掛け声を合わせ、全員で力を込めて綱を引く。
波の抵抗を超えて網が浜へと引き上げられると、中には銀色に輝く魚が大量に跳ねていた。
「おおっ!」
「すげえ!」
魚の群れに歓声が上がり、町の漁師たちと笑顔を分かち合う。
海に潜り、泳ぎ、魚を捕る――その一日全てが新鮮で、心を解き放つような経験だった。
こうして砂鉄集めだけにとどまらず、シマたちとラルグス、若者たちは浜辺での一日を全身で楽しみ、互いの距離を縮めていったのである。
午後三時を回ったころ、じりじりと照りつける日差しの下、砂鉄集めや海遊びで存分に体を動かしてきたシマたち一行の腹は、とうに限界を迎えていた。
「やっべえ! 昼飯も食わずにはしゃぎすぎたな……」
ワーレンが頭をかきながら声を上げると
「腹ぁペコペコだぜ……」
ベルンハルトが腹を押さえ、周りも同調するように笑いながら呻く。
「俺たちも腹ペコだ」
ラルグスが応じると、ビリーが目を輝かせて飛び跳ねた。
「ラーメンが待ってるっス!」
「朝から仕込んでたからな……いい出汁が取れてんだろうよ。楽しみだな」
ベガが頷き
「それに刺身だろ? 天ぷらだろ、ヤベえな、口の中が涎だらけだぜ」
コルネリウスが豪快に言う。
若い衆の一人も「……あんな食い方があったなんて、旨かったなぁ!」としみじみ呟き、すっかり昨夜の新しい食文化に魅了された様子だった。
そんな中で、ヤコブが真剣な顔でシマに問いかける。
「……シマよ、海の幸を何とかして持って帰ることはできぬか?」
シマは少し顎に手を当てて考え込み
「ん~……出来ねえことはねえんじゃねえか。ただ、ドラウデンが交易に応じてくれるかだな」と答える。
するとラルグスが即座に言葉を返した。
「それなら問題ないぞ」
「……どういう意味だ?」
シマが怪訝な顔をすると、ラルグスはどこか含みのある笑みを浮かべて
「その内わかる」とだけ答える。
シマは仲間たちに視線を送るが、全員が揃って首を横に振る。
どうやら彼らも見当がつかないらしい。
一行がオウタルの町へと戻ると、門の前で腕を組んだギーゼラが仁王立ちしていた。
「兄さん! 昼ご飯も食べずに、いつまでも帰ってこないで……ったく!」
ぷんぷんと頬を膨らませる妹に、ラルグスは苦笑いを浮かべるしかない。
その横で、トッパリが恭しく一歩進み出た。
「シマ団長! いい具合にスープができあがっています」
料理人らしい誇らしげな顔に、仲間たちは思わず口元をほころばせる。
「ようやく帰ってきたか!」とゴードンが声を上げ
「シマ、飯食ったら話がある。時間をくれ」とドラウデンが低く言う。
「ああ、わかった」とシマは頷いた。
やがて町の広間に設えられた大鍋の前に皆が集まる。
漂う香りは、空腹でなくとも食欲を刺激する濃厚な出汁の香ばしさだった。
湯気の立ち上る木椀に、しっかりと煮込まれたスープが注がれ、そこへ真っ直ぐに伸びた麺が沈められていく。
刻んだ海藻や魚のほぐし身がトッピングされ、見た目にも鮮やかに仕上がっていた。
「いただきます!」の声とともに、皆が一斉に箸を取り、初めての料理に口をつける。
「……っ!!」
最初に声を上げたのはラルグスだった。
思わず目を見開き、喉を鳴らしながら夢中で麺をすすり込む。
「な、なんだこれは……! 衝撃的な旨さだ……っ!」
若い衆も続いて口にし、次々と驚嘆の声を上げる。
「熱いのに、するすると喉に入っていく!」
「スープが……深い……こんなの味わったことがねえ!」
「刺身も天ぷらもすごかったけど……これは別格だ!」
ワーレンやベルンハルト、ビリーたちシャイン傭兵団の面々も「やっぱり、旨いな!」と頷き合い、すっかり馴染んでいる様子で平らげていく。
その光景にオウタルの人々はさらに驚き、同時に羨望の眼差しを送った。
その裏には、朝から鍋を見張り、火加減を調整し、素材を吟味して仕込んできたトッパリの努力があった。
彼は笑みを浮かべながらも汗を拭い、誇らしげに胸を張っている。
「ラーメン……これがシマたちの言う料理か……!」
ラルグスは木椀を抱え込み、スープの最後の一滴まで飲み干すと、心底からの感嘆をもらした。
オウタルの若者たちの瞳は興奮に輝き、やがて町全体にこの新しい料理が広がっていく予感が、誰の胸にも芽生えていた。
ドラウデン族長の館——その広間に案内されたのは、シマとヤコブだった。
並んで座すのは、族長ドラウデン、前族長トラウゴット、若き戦士ラルグス、そして壮健なゴードン。
カイセイ族を支える要人たちが、まるで試すかのように二人を迎えていた。
「……シマ、お前たちの町はどれくらい発展しているんだ?」
最初に口を開いたのは、堂々とした体格のドラウデンだった。
低く太い声が広間に響く。
「どれくらいと言われてもなぁ……」
シマは少し肩をすくめ、言葉を探しながら答えた。
「今のところ、衣食住には困っていない。みんなそれぞれの役割を果たして、暮らしていけてる」
その答えに、トラウゴットが白い髭を撫でながら問いを重ねる。
「町の統制はとれているんじゃろうか? ただ生き延びるだけでなく、きちんと秩序を保てておるのか、という意味じゃ」
「……ああ、それは間違いなくな」
シマはきっぱりと言い切る。
彼の声には、ただの自信ではなく、実際に積み上げてきた日々への確かな裏打ちがあった。
ゴードンが口角を上げて笑った。
「……ベガが言ってたよな。お前らの町に行けば、旨い飯と旨い酒をたらふく食わせてやるって」
「ああ、それも間違いねえ」
シマは堂々と胸を張った。
「ならば……」
ドラウデンが身を乗り出す。
「話せる範囲でどういうことか、教えてくれんか?」
シマは一瞬考え、視線を横に送る。
「……ちょっとヤコブと相談させてくれ」
二人は少し離れたところで小声を交わした。
「……あいつら、何を探ってるんだ?」とシマ。
ヤコブは指先で顎を撫で、静かに答える。
「ふむ……おそらくは個人の武ではなく、シャイン傭兵団全体の力……ひいては、ワシらの町が持つ底力を知りたい、ということじゃろうか?」
「……酒を造っていることを教えても問題ねえか?」
「それは構わんじゃろう。国も違うしの。ただし、広めすぎるのは得策ではないのう。珍しさと価値を保つためにも」
「そうだな……」
シマは深く頷いた。
そして再び席に戻ると、真剣な眼差しで三人を見渡した。
「ここだけの話だぞ」
「誓って」
ドラウデンも、トラウゴットも、ゴードンも、ラルグスも頷いた。
その表情には駆け引きの色もなく、誠意が見て取れた。
「……俺たちの町では、酒を造っている。エール、ワイン、果実酒、それに焼酎……種類は多い。旨い飯があることも嘘じゃねえ」
言葉を切り、シマは相手の反応をうかがう。
やはり驚きと興味がないまぜになった視線が一斉に向けられた。
「なぁ……何か言いたいことがあるのか?」
沈黙を破ったのは、族長ドラウデンだった。
「……はっきり言おう」
重苦しい空気を一刀のように切り裂く言葉が放たれる。
「俺たちカイセイ族は、お前たちの傘下に入ることを視野に入れている」
シマの瞳が鋭く光る。その横でヤコブが小さく息を呑んだ。
「……だが、いきなりでは互いに腹の底を測りかねる。だからこそだ。まずは同盟を組まないか?」
広間の空気が重くなる。
トラウゴットは深く目を閉じ、ラルグスは膝の上で拳を握りしめ、ゴードンは真剣な表情でシマを見つめている。
シマは腕を組み、しばし黙考した。
背後にいる仲間たちの顔が脳裏に浮かぶ。
「……なるほど。お前たちの考えはわかった」
シマの声は低く、しかし確かに響いた。
この瞬間、シャイン傭兵団とカイセイ族の関係は、歴史の新たな一歩を踏み出そうとしていた。
――その後の交渉がどう転ぶかはまだ誰にもわからない。
互いの視線が交錯し、未来を見据える夜が更けていった。




