新たな食文化
――その衝撃は、ドラウデン自身にとっても信じがたいものであった。
かつて彼は、ユーマ・フォン・ロートリンゲンという男に挑み、そして敗北した。
その日から彼の人生は変わったといっていい。
ユーマを超えるために鍛え、研鑽を積み、数多の戦場で勝利を重ね、やがて「ダグザ連合国一の猛将」と呼ばれるまでに至った。
敗北を糧とし、己を磨き続けてきたのだ。
その自負が、今、目の前で崩れ去っている。
一撃だった。
槍を突き出すと同時に返ってきた、鋭すぎる踏み込み。ほんの一瞬、いや瞬きよりも短い刹那で踏み込まれ、肩で胸を撃ち抜かれた。
衝撃は凄まじく、鍛え上げた筋肉と骨格をもってしても耐え切れず、身体は、七、八メートル先まで吹き飛ばされ、地面を三度転がったのちにやっと止まった。
息が詰まり、肺が悲鳴を上げる。
何が起きたのかを理解するより先に、身体が動かなくなった。
――これで、まだ手加減をしているというのか。
ベガやベルンハルト、ワーレンたちが口々に解説しているのが耳に入る。
彼らはその一瞬を「ギリギリ見えた」と言った。
肩での当て身、肘ではない、だから骨は折れていないのだと。
だが、ドラウデンにとってはどうでもよかった。
彼が理解したのはただひとつ――こいつは、ユーマよりも強い。
自然と笑みがこぼれた。
唇の端が震え、やがて腹の底から笑いがこみ上げる。
「ガハハハハッ! 俺の負けだ!」
豪快な笑声がオウタルの空気を震わせた。
「シマだったか? お前が誰であれ、強者には敬意を払う。それが俺たちの流儀だ。……歓迎しよう!」
その言葉に、周囲で息をのんでいた面々がどっと安堵し、歓声を上げた。
「なっ、だから言ったろ! コイツめちゃくちゃ強えんだって!」
ゴードンが誇らしげに声を張り上げる。
オウタルの町——そこはかつてユーマが訪れ、人々を救い、導いた場所であった。
漁師町であったはずのこの町は、今や驚くほど整然とした町並みを誇っている。
道は広く石畳が整備され、漁港には新しい防波堤が築かれ、家屋は白壁に赤い屋根が並ぶ。
市場には活気があり、行き交う人々の顔は明るい。
町の人々は一丸となって町を発展させてきた。
それは「いつかユーマに再び会ったとき、自慢できる町にしよう」という願いが込められていたからだ。
その町に、今、シマたち一行とゴードンが迎え入れられる。
そしてドラウデンは大声で叫んだ。
「ユーマの息子! シマだ!」
その一言は火種のように広がった。
あっという間に人々が集まり、口々に驚きと喜びを叫ぶ。
中には、実際にユーマの姿を見たことのある者までもが「ユーマ本人だ!」と言い出すほどだった。
彼らにとってユーマ・フォン・ロートリンゲンは、恩人であり、英雄であり、希望だった。
病に苦しむ者を救い、町の発展の道筋を示したその存在への恩は、感謝してもしきれないほどのものだった。
そして、町の中心に立ったシマは、思いもよらぬ人物たちに迎えられる。
ドラウデンの妻、フリーデ。
気丈な女性であり、夫を支える良き伴侶だ。
彼女は涙を浮かべながらシマに言葉をかけた。
「ありがとう……ユーマ様の息子さん……あなたがここに来てくださっただけで、この町は救われる思いです」
娘ギーゼラは、幼い頃に数度ユーマと会った記憶がある。
だがその記憶は霞がかったように朧げで、鮮明に思い出せるわけではない。
ただ「とても優しい人だった」という印象だけが胸に残っている。
自分に向けられた穏やかな笑顔、頭を撫でてくれた大きな手の感触――それ以上の細部は曖昧だが、不思議と温かさだけは失われていなかった。
彼女にとってユーマとは、英雄としての姿よりも、幼心に安心を与えてくれた「優しい大人」の象徴だったのである。
「…何となく、ユーマさんに似てる…?」と笑顔を見せた。
さらに、ドラウデンの父トラウゴットと母ドーリスも、白髪を揺らしながらシマに深々と頭を下げる。
「ユーマ殿には……あの時、我らに希望をくださった。命を救ってくださった。あのご恩を、どうしても伝えたかった……」
「まさか、その息子殿にこうして会えるとは……」
感謝の言葉が溢れるように降り注ぎ、シマは一瞬、どう応えてよいかわからなかった。
その血を継いでいることは否応なく事実であり、彼らが求めているのは「ユーマそのもの」ではなく、ユーマが残したものの証だった。
ドラウデンが腕を振り上げる。
「今夜は宴だ! 準備をしろ!」
その声に町はどよめき、活気に満ちていった。
魚が運ばれ、樽が開かれ、酒が並べられていく。
そんな喧騒の中、ラルグスが歩み寄ってきた。
彼の瞳は静かに光を宿し、言葉を選ぶように口を開く。
「……シマだったな。よく、生きていてくれた」
その声には、ただの挨拶以上の感情が込められていた。
「ユーマさんは俺にとって恩人であり……あこがれの人でもあった。気高く、強く、そして優しかった。俺はあの人の背中を追いかけて生きてきたんだ」
ラルグスの言葉は震えていた。
「そのユーマさんから受けた恩は……息子であるお前に返す。出来ることなら何でもするぞ」
その誓いは、ラルグス個人のものではなかった。
町の人々もまた、同じ思いを抱いていた。ユーマへの恩を、彼の子に返す。
それが彼らにとっての当然であり、誇りであった。
シマは黙って頷いた。胸の奥に熱いものが広がる。自分はユーマを知らない。顔も声も知らない。
だが――確かにここに、ユーマが残したものがあるのだ。
それは血ではなく、魂の継承であり、人々の記憶に刻まれた希望そのものだった。
オウタルの夜は、やがて盛大な宴へと変わっていく。
笑い声と歌声が響き、炎が空を照らし、潮の香りとともに幸福が満ちる。
その光景の中心にいるシマの姿は、誰の目にも「ユーマの息子」であった。
漁師町オウタルの宴は、まさに海の恵みを余すことなく並べた饗宴だった。
大きな木の卓には、塩を振って焼かれた魚が山のように盛られ、香ばしい匂いが漂っている。
骨までカリカリに焼かれた小魚、脂の乗った大物の切り身を豪快に串焼きにしたもの、干物を炙って馬乳酒と合わせたものまで。
港町ならではの豊かさが食卓を彩り、人々は笑い声とともに杯を重ねていた。
だが、その場でただ一人、シマの目は鋭く魚に注がれていた。
焼き魚は確かに旨い。
だが、海の幸の新鮮さを知ってしまえば、どうしても別の調理法を試したくなる。
――刺身。前世の記憶から浮かび上がる光景。
透明に輝く切り身、冷たい皿に並べられた姿、鼻を抜ける魚醬や醬油の香り。
あの世界では当たり前に食べられていたが、この世界では「生で食べる」など正気の沙汰ではない。
隣でゴードンが豪快に馬乳酒をあおりながら笑う。
「どうしたシマ、魚が気に入らねえのか? これ以上うめえ食い方なんざねえだろ」
「いや……どうせなら、焼かずに食べたいと思ってな」
その言葉に、ドラウデンとラルグスが同時に目を剥いた。
「なに?! 生で食うだと? 命知らずにもほどがあるぞ!」
「腹壊すどころか、一発で死ぬぞ! 冗談だろう?」
漁師町の男たちは口を揃え、生食を断固として否定した。
魚を生で食う習慣などない。病を呼ぶ危険な食べ方とされているからだ。
しかし、場の隅で杯を傾けていたヤコブが、ふっと笑った。
「ホホッ……シマよ、美味い食べ方があるのじゃな?」
どこか確信めいた声。
その言葉に、傭兵団の仲間たちの顔も次々と輝いた。
「シマ団長! 是非とも作りましょう!」
真っ先に声を上げたのは炊事班長のトッパリだ。
新しい料理に挑むことは彼にとって何よりの喜びだ。
「作らせてもらえよ!」とベガが豪快に笑い
「未知の味……楽しみだな」
コルネリウスが小声で呟く。
「団長!俺も手を貸すっス!」
ビリーが勢い込む。
シマは一度杯を置き、深く息をついた。
「……そうだな。ドラウデン、調理場を借りていいか?」
「勝手にしろ。ただし俺は責任を取らねえぞ!」
渋い顔をしながらも、興味を抑えきれない様子のドラウデン。
調理場に入ると、ずらりと並ぶ海の幸に目を奪われる。
スズキ、イカ、クロダイ、アマダイ、マアジ、カンパチ、カツオ、イイダコ……そして驚くべきことに、イソマグロまでが水揚げされていた。
「こりゃあ……宝の山だな」
シマは小さく呟き、団員たちを呼び集めた。
「よし、手を貸せ。まずは下処理からだ」
桶に張られた冷たい水に魚を沈め、表面のぬめりを丁寧に取る。
鱗を落とすために、包丁の背を細かく動かすと、銀色の鱗が飛び散り、光の粒のように宙を舞った。
イカの表面に包丁を滑らせると、ぬるりとした透明な皮が剥がれ落ち、白く艶やかな身が現れる。
次に腹を割り、はらわたを取り出す。
赤黒い内臓の匂いが漂い、初めて見る者たちは思わず顔をしかめたが、シマの手つきは迷いなく素早い。血合いを水で流し、骨に沿って包丁を滑らせて三枚におろす。
刃が骨を叩くたびに、澄んだ金属音が響き、切り口からは瑞々しい身が露わになった。
「すげえ……」とビリーが息を呑む。
「この滑らかな動き、鍛錬の賜物だな」とワーレンが低く呟く。
「いや……包丁捌きだけでなく、魚のことを知り尽くしているな」とコルネリウスが分析する。
次々と魚を捌き、身を薄く切り出していくシマ。
刺身包丁などないため、炊事班の出刃を代用しながらも、切り口は驚くほど美しい。
透明感のあるスズキの身、赤々と輝くカツオ、脂の光を宿すカンパチ――皿に盛られるごとに、周囲からどよめきが上がる。
シマはさらに油を用意させ、衣をつけたイカやイソマグロの切り身を鍋に落とした。
油が激しくはじけ、香ばしい匂いが漂う。
黄金色に揚がった天ぷらが次々と皿に並べられ、宴の匂いが一変した。
「魚を……揚げたのか?」
ラルグスが目を丸くする。
「おお……衣がサクサクしている!」
ベガが一つかじり、目を見開く。
「中は柔らかくて……甘みが増してる……!」
トッパリが感嘆の声を上げる。
そして、ついに刺身の皿が宴席に運ばれた。
ドラウデンは半信半疑の顔で、箸代わりに削った木の棒を手に取る。
恐る恐る、透明に透けるスズキの切り身を掴み、魚醬をほんの少しつけて口に運ぶ。
――瞬間、目を見開いた。
「……な、なんだこれは……! 舌に溶ける……海の香りが……!」
ラルグスも続けてカンパチを口にし、感動に声を震わせた。
「……柔らかい……いや、弾力もある……こんな味……知らなかった……!」
次々と町の人々が挑み、驚きと感嘆の声を上げる。
「生で食えるなんて信じられねえ……だが旨ぇ!」
「焼き魚よりも魚そのものの味が濃い!」
「これは……酒に合う!」
馬乳酒を飲みながら刺身を頬張り、笑顔を見せる人々。
危険視されていた「生食」は、瞬く間に宴の主役へと変わっていった。
シマは黙ってその光景を眺める。
前世で当たり前だった料理が、この世界では新たな驚きと喜びを生んでいる。
隣に座ったヤコブが、満足げに頷いた。
「ホホッ……やはりそうであったか。未知の知識を正しく用いれば、人々の生活は豊かになる……」
宴も佳境に差し掛かったころ、シマはふと問いかけた。
「なあ、ドラウデン。大麦はあるか?」
「おお、あるぞ!」
即答する族長の顔は誇らしげだった。
オウタルの漁師町では海産物が豊富な一方で、穀物は貴重な保存食として扱われる。
なかでも大麦は古くから主食の一角を占めており、粥やパンの材料として重宝されてきた。
その場に用意された大麦を見て、シマは短く頷いた。
「よし、じゃあ麦ごはんを炊こう」
「麦……ごはん?」
ラルグスが首を傾げる。
「見てろって」
やがて大鍋から立ちのぼる湯気。
炊き上がった麦ごはんは、白い米の粒に比べればやや色合いが鈍く、ほのかに黄みがかっている。
ひと匙すくうと、もちもちとした粘り気はないが、噛みしめると独特の香ばしさが広がる。
シマは器に盛られた麦ごはんを手に取り、横に並んだ刺身を二本の棒――即席で削らせた木箸――でつまみ、器用に麦ごはんと一緒にかき込んだ。
焼き魚、天ぷらと次々に合わせては口へと運び、豪快に噛みしめる。
――これだ。
本来なら白米が理想だが、この世界でそれを望むのは贅沢というもの。麦ごはんでも十分に合う。
いや、海の幸と合わせればむしろ新鮮な組み合わせだとさえ感じられる。
香ばしい麦の風味が、刺身の瑞々しさや天ぷらの衣の甘みを引き立て、焼き魚の香ばしさとも相まって絶妙な調和を生み出していた。
内心では「米じゃないのが少し残念だ」と思わぬでもなかった。
だが、シマの手は止まらない。
まるで前世から受け継いだ食欲を爆発させるかのように、黙々と食べ続ける。
その様子に、周囲の目は自然と吸い寄せられていった。
「なんだあの食い方は……」
「棒を二本だけで器用に魚をつまんでるぞ」
「スプーンもフォークもなしで……あんなにうまそうに!」
最初は半信半疑だった人々も、やがて一人、また一人と真似を始めた。
器用に棒を操れぬ者は、刺身を麦ごはんの上に直接のせ、手でつかんで口に運んだ。
麦の香りと魚の新鮮な旨味が一体となり、口いっぱいに広がった瞬間――その顔が驚きに変わる。
「こ、これは……!」
「麦と魚が、こんなに合うとは……!」
「なんだ、この不思議な旨さは!」
次々に歓声が上がり、宴席は一気に熱を帯びた。
ドラウデンもまた箸を真似て手に取り、ぎこちなく刺身を摘まんで麦ごはんにのせて口に運ぶ。
数度噛みしめると、その厳つい顔に笑みが広がった。
「……う、うめえ……! 麦の香りと刺身の甘みが絡み合うだと……?!」
ラルグスも負けじと挑み、口にした瞬間、思わず声を上げる。
「こ、これは……まるで新しい料理だ! 焼き魚だけじゃなかったんだ!」
興味を持った町人たちが次々と集まり、即席で木を削って箸を作り始めた。
子供たちはぎこちなく麦ごはんをかき込み、大人たちは歓声をあげながら「次は天ぷらをのせてみろ!」「いや、刺身を二種類合わせて食え!」と競い合うように試していく。
広間の空気は次第に熱狂へと変わった。
まるで新しい遊びを覚えた子供たちのように、大人も老人も夢中になり、笑い声が響き渡る。
馬乳酒の杯が飛ぶように空き、新しい桶が次々と運び込まれる。
「これが……食の力ってやつか」
ゴードンが大口を開けて笑いながら、肩を組んで叫ぶ。
「おい見ろよ! 町中が大騒ぎだ! シマ、お前が作った料理はもう戦場より熱いぞ!」
ベガも、ヤコブも、トッパリも、団員たちそれぞれが誇らしげにその光景を見守る。
その夜、オウタルの宴はただの祝宴にとどまらず、まさに狂喜乱舞の饗宴となった。
刺身、天ぷら、焼き魚、そして麦ごはん。
それらが一つの料理文化として融合し、人々は歓喜の声を上げながら夜更けまで食と酒を楽しみ続けた。
こうしてオウタルの町は、新たな「食文化の幕開け」を迎えたのである。




