海岸線に行こう2
夕刻、焚かれた灯火に照らされた広間は、酒と料理の香りで満ちている。
そんな中、窓辺に腰掛けて西を眺めていたシマが、不意に呟いた。
「なぁ……ヤコブ。あの西に見える白い山々、あれって石灰岩じゃねえか?」
窓辺に歩み寄ったヤコブも視線を向ける。
夕日に照らされた白い峰々は、雪を抱いているようにも見えたが、老学者はすぐに首を縦に振った。
「おそらくはそうじゃろうな。雪ではなく、岩肌そのものが白う輝いておる。」
その会話を耳にしたゴードン・ハッサンが、椅子を引き寄せて笑いながら口を挟む。
「ん? あの山が気になるのか? あそこは所々、穴が開いててな。落ちたらひとたまりもねえ。だから子供たちには近づくなって言ってあるんだ。」
「少し削って持っていってもいいか?」
シマが尋ねる。
「いくらでも持っていきな。」
ゴードンは肩をすくめる。
「あんなもんで役に立つなんて思ってる奴はいねえ。好きにしろ。」
「帰りに立ち寄ったら貰っていく。」
シマが短く返す。
そのやり取りに傭兵団の仲間たちは視線を交わした。
誰も声に出さなかったが、心中では同じ感想を抱いていた――「また団長が何か思いついたな」。
ヤコブは口の端を釣り上げ、ベガやビリーは興味津々といった眼差しを向ける。
「ここから海岸線までは、どのくらいで行けるんだ?」
ワーレンが問うと、ゴードンは即答した。
「一日もあれば着く。馬を飛ばせば日が暮れる前だ…ところで、お前たちから売るもの……珍しいもんって何かあるか?」
「俺たちが扱えるのは、スレイニ族やノルダランから仕入れた反物や布生地、民族衣装なんかだな。」
シマが答える。
「食い物や飲み物は持ち運びが難しいが、俺たちの町まで来てくれれば馳走できるぞ。」
「美味い飯と酒を、腹がはちきれるまで食わせて飲ませてやるぜ!」
ベガが豪快に笑う。
「うむ。」
ヤコブが咳払いし、胸を張った。
「それと……今は“シャイン式計算”と“新しき燃料”についても教えられるぞい。」
「元レイモンド族やナハリ族、チラン族にもすでに伝えてきたしな。」
ベルンハルトが真顔で言い添える。
「……シャイン式計算? 新しき燃料?」
驚いたように問いかけたのは、ゴードンの弟サハリ・ハッサンだった。
兄とは対照的に細身で眼光鋭く、武よりも知を重んじる男だ。
周辺部族では「知恵者」として知られている。
「計算って……俺らだってできるぞ? 指折って数えたり、石を並べたりだろ?」
ゴードンが首を傾げる。
「まあ、それも計算じゃ。」
ヤコブは笑みを浮かべる。
「だが、シャイン式計算は違う。もっと複雑な数を、もっと速く、もっと正確に扱えるのじゃ。」
「この術は交易や徴税、兵の配置にも役立つ。」
ベルンハルトが力強く言った。
「ただの数遊びではない。町を治め、人を動かすための武器だ。」
「…では“新しき燃料”についても話そうかの。」
ヤコブが語り出す。
「牛や馬の糞を乾かして燃料にする方法じゃ。乾燥させれば煙は少なく、長く燃える。薪が乏しい地でも役立つ。それから炭づくり。木を土や泥で覆ってじわじわと焼けば、強い火力の木炭が得られる。」
ワーレンが続ける。
「さらに炭団って方法もある。粉々になった炭や木屑を、粘土や糞で練って丸める。乾かせば、持ち運びできる燃料になる。炉の熱も安定するし、火の回りもいい。」
「……こんな工夫が……。」
サハリは声を失った。
「ワシが翌朝までに要点を紙に記しておこう。」
ヤコブが約束する。
その場でワーレンがかいつまんで解説を繰り返すと、サハリは目を見開き、驚きに打たれたように震えた。
知恵者として通っていた自分が、今まで知り得なかった世界が広がるのを感じたのだ。
「兄貴……これは暮らしが変わるぞ。」
サハリが熱っぽく言った。
「薪や草に困っていた村人も、これで冬を越せる。牛や馬を飼う価値も倍になる。」
「……そうなのか……?」
ゴードンは呆然とした。
剣と力でしか物事を測ってこなかった自分には、理解が追いつかない。
「なぁシマ。」
ゴードンは真顔になり、シマを見据える。
「俺たちにそんなことを教えていいのか? お前たちに何の得がある?」
シマは水の入った杯を置き、静かに言った。
「見返りを求めてるわけじゃねえ。ただ、少しでも暮らしがよくなり、死ぬ奴が減ってくれればそれでいい。」
ゴードンはしばらく黙り、そして豪快に笑った。
「……本当におもしれぇ男だなお前は!」
その笑い声は宿の広間に響き渡り、傭兵団の仲間たちも微笑みを交わした。
ミュールの夜は、静かな灯火と共に更けていく。
シャイン傭兵団とハッサン兄弟、元ハッサン族は、それぞれの卓に分かれて杯を傾けている。
シマは静かにゴードンの方へ身体を向け、真剣な面持ちで問いかけた。
「食料や薬は足りてるか? 病人や重病者はいないか?」
唐突とも思えるその質問に、ゴードンは目を瞬かせた。
ここは自分の町であり、シマにとっては支配下でも仲間でもない。
にもかかわらず、彼は心底心配そうにそう尋ねてくる。
「……お前は本当に変わってるな。」
ゴードンは苦笑した。
一方、別の卓に腰掛けてそのやり取りを遠目に見ていた弟のサハリは、杯を傾けながら心中で呟く。
(不思議な男だ……自分の利に関係のない者まで気にかけるとは……)
その横で聞き耳を立てていたワーレンが肩を竦めた。
「不思議か? あいつのことが。……シマは基本的に甘い人間だからな。」
「甘い?」
サハリは意外そうに眉を上げた。
「そうだ。」
横からコルネリウスが口を挟む。
「だがな、生きること……生き延びること、そして戦いに関してはめっちゃ厳しいぜ。」
ワーレンはコルネリウスと視線を交わし、同時に吹き出した。
「違いねえ!」
「まったくだ。」
ベルンハルトも笑う。
「普段は仲間に甘すぎるぐらいなのに、ひとたび剣を抜けば容赦がない。」
その笑い合いを横で見ていたサハリは、やがて真顔に戻り、低い声で呟いた。
「……正直、兄貴があれだけ一方的にやられるとは思いもしなかった。あの男……シマは、あれでも本気を出してなかったんだろう?」
その問いに、ワーレンは苦笑しながら杯を置いた。
「当たり前だ。あいつが本気を出したら、今頃お前の兄貴は死んでるさ。」
「……!」
サハリは息を呑む。
「シマもそうだが、シャイン隊――俺たち傭兵団の中核メンバーはな、化け物どころじゃねえ。規格外の連中だ。」
ベルンハルトの声音には確信があった。
サハリは目を細め、やや遠くを見つめるように言葉を紡ぐ。
「……ドラウデン・カイセイとその息子ラルグス・カイセイは強い。だが、俺は兄貴と同格だと見ている。紙一重の差で兄貴はドラウデンに敗れた。それで……ハッサン族はカイセイ族の支配下に入ったのだ。」
「族長同士の決闘、か。」
ワーレンが頷く。
「ああ……」
サハリは低く答えた。
「互いにどちらが死んでもおかしくない。それほどの戦いだった。……ドラウデンに会えば、戦うことになるだろう。だが、あの男であれば命までは奪わずに済みそうだ。」
「そうだなあ……」
コルネリウスは顎を撫でた。
「シマであれば、その辺のことはちゃんと考えている。命までは取らねえだろうよ。多少痛い思いはするだろうがな。」
「はははっ!」
サハリが豪快に笑った。
ワーレンが肘をつきながら、真剣な眼差しでサハリに問う。
「……サハリ、お前はドラウデン・カイセイの身を案じてるのか?」
サハリは一拍置き、静かに頷いた。
「まあな……。ドラウデンも、アレはあれでいいやつだからな。部族のことをよく考えているし、支配下に入った部族の面倒もきちんと見ている。支配といっても蹂躙ではなく、守ろうとしているのがわかる。」
「へえ……それなりの人物ってことか?」
ベルンハルトが興味深そうに眉を上げる。
サハリは杯を口に運び、少し考えるように言葉を続けた。
「……一武人として、族長としての器量は十分にある。兄貴も、ドラウデンも、息子のラルグスもな。だが……」
ワーレンが言葉を継いだ。
「……お前もわかってるんだな? 今のままじゃ時代に取り残されるって。部族同士が刃を交える時代じゃなくなる。これからはもっと大規模な戦いになる。そして――『個』の力じゃなく、『集』の力がものを言う時代が来るってことを。」
その言葉に、サハリは深く頷いた。
「……わかっているさ。兄貴だって、きっと頭では理解している。だが……どうすればいいのか、明確な答えを見いだせないんだ。ドラウデンも同じだろう。」
「ハン・スレイニの支配下に入るのも一つの手ではあったろうに。」
ベルンハルトが呟く。
サハリは苦笑した。
「……だが、武人としての矜持がそれを許さない。あの男たちは、誰かの庇護に甘んじることを恥とする。兄貴も、ドラウデンもな。」
「なるほどな……」
コルネリウスが顎をさすった。
「矜持ってやつか。」
サハリはしばし黙り、やがて低く言葉を落とした。
「だが……あの男、シマであれば……もしかしたら、と思うんだ。」
「ふむ……」
ワーレンが杯を揺らしながら口元を歪める。
「確かに…だが、あいつは領土を広げるだの、一国を支配するだのには興味がねえ。ただ――頼ってきた者を見捨てることも決してしねえ。そういう男だ。」
「違いねえな。」
ベルンハルトも同意するように頷いた。
コルネリウスがぽつりと呟く。
「……この地は帝国領が目と鼻の先にある。いずれは大きな戦が押し寄せるかもしれねえ。」
「俺たちの住むチョウコ町だってそうだろう?」
ワーレンが笑みを浮かべる。
「ルナイ川を挟んで向こう岸はもう帝国領じゃねえか。」
「ああ……そういやそうだったな。」
コルネリウスが肩を揺らし、皆で笑った。
重苦しかった話題が和らぎ、卓には再び明るい空気が戻る。
やがて話題はたわいもない世間話に移り、笑い声が絶え間なく続いた。
誰かが近隣の部族の珍妙な風習を真似て見せ、腹を抱えて笑い、また別の誰かが無駄に大げさな剣戟の真似をして、机が揺れるほど騒ぐ。
しかし、ふとした隙にワーレンが懐から小さな木札を取り出した。
そこには数字と記号が刻まれている。
「そういや、サハリ。お前、シャイン式計算ってのに興味あるんだろ?」
サハリは身を乗り出した。
「ああ……さっきヤコブさん?が話していたやつだな。数を扱う術だとか。」
ベルンハルトが木札を指で弾き、並べ直す。
「単純に言えば、四則演算――足す、引く、掛ける、割る。それを整理して使える形にしたものだ。」
コルネリウスも加わる。
「戦の兵站、交易の取引、食料や資材の分配……あらゆる場面で使える。単純だが、誰もが理解できる。だからこそ強いんだ。」
ワーレンは小石を数個、机の上に置いて見せた。
「ほら、これを五つ並べる。そこから二つ取れば三。さらに三倍すりゃ九。こうやって数を形にすれば、誰でも応用できる。」
サハリの目が見開かれる。
ベルンハルトがにやりと笑い、杯を揺らして声を潜めるように言った。
「まだまだあるぜ。燃料の話なんかは特に面白え。」
その言葉に、卓を囲む面々の耳が自然と傾く。
戦場を渡り歩く傭兵にとって、飯と水と同じくらい火は重要な存在だ。
暖を取る、調理をする、場合によっては狼煙や合図にだって使える。
燃料の話は笑い話で済むような軽いものではなく、実際に生死を分ける要素になり得る。
コルネリウスがゆっくりと杯を口に運び、酒の香りを楽しむようにひと息ついてから、静かに続けた。
「戦場でも使えるんだよ。寒さをしのぐ火を維持できるかどうかで、生き延びられるかどうかが決まる。たかが火…って思う奴もいるが、実際には火がなければ夜の冷気にやられるか、士気が削がれて動けなくなる。」
「炭団なんかは特に便利だな。」と、ワーレンが口を挟む。
「持ち運びも楽だし、思ったよりも火持ちがいい。乾燥させた牛糞を固めた燃料は結構火力も強いんだぜ。」
思わず顔をしかめる者もいたが、ワーレンは気にも留めず豪快に笑った。
「まあ、聞いただけで嫌がる奴もいるがな。実際に使ってみりゃわかる、煙もそれほど臭くねえし、慣れればどうってことはねえ。むしろ量が安定して取れるのがでかいんだ。」
「牛一頭からどれくらい出るんだったっけな?」
ベルンハルトが思い出すように首を傾げる。
すかさずコルネリウスが指を折って数えながら答えた。
「一日でおおよそ四十から五十キロは取れるな。放牧してても、囲って飼ってても、出すもんは出す。これがまた馬鹿にできねえ量で、しっかり乾かして貯めておけば冬の燃料としてかなりの戦力になるんだ。」
卓の上には杯が並び、火はなお燃え続ける。
宿の広間に満ちる熱気は消えることなく、やがて語り合いは夜更けまで続いた。
燭台の炎が揺れ、影が壁に踊った。
外では風が石畳を渡り、遠く白い山が夜に溶けてゆく。
この夜、ミュールの宿は奇妙な熱気に包まれていた。
力と知恵を語り合い、死と生を笑い飛ばしながら、異なる部族と傭兵団の絆がゆっくりと編まれていくのを、ハッサン兄弟は確かに感じていた。




