認識のズレ?!
長机の上に整然と並べられた帳簿や羊皮紙に視線が集まり、シャロンがゆっくりと立ち上がる。
彼女の手元には几帳面にまとめられた収支報告書。
「今回のギャラガ一行の商取引と、行程における収支報告をいたします」
集会所が静まり返る。
シャロンの声はよく通り、一言一言が人々の耳にしっかりと届いた。
城塞都市カシウムでの成果。
ブランゲル侯爵家に卸した、濡れない・浸みこまないシリーズ。
ドレス、スーツの仕立て料、リンス、石鹼。
その売上は二百金貨。
聞き慣れた数字でありながらも、実際に成果として示されると重みが違う。
続いて支出の報告。
布地や薬、薬草、香草、小麦粉、乾燥果物、酒類など、物資調達におよそ百金貨を費やした。
詳細に並ぶ品目に、料理班や薬師たちがうなずき合う。
だが滞在費と諸経費についてはブランゲル侯爵家が全面的に負担してくれたため、経費として差し引かれるものは少なく、純利益として残ったのは百金貨に上る。
さらに、エイト商会との取引についての発表に場がざわめいた。
商標権の取り決めにより、売上の五%がシャイン商会に入る契約であり、その金額は約四百金貨に達しているという。
商標の価値がこれほどまでに実益をもたらすことを、改めて全員が実感する瞬間だった。
護衛任務の達成報酬二十金貨も加算される。
エイト商会が手配した物資、小麦粉、酒類、飲料、大麦、小麦、その他の食材が約五十金貨で取引された。
滞在費や諸経費を差し引いても、最終的な利益は三百五十金貨に達していた。
さらに、ランザンの街からチョウコ町に帰還するまでにかかった費用は二十金貨。
ほとんど野営で過ごしたため宿泊費がかからず、出費を大幅に抑えられたのだという。
加えて、リバーシ五百セットの販売により十五金貨を得ていることが告げられた。
さらにリーガム街の教会へ二十金貨を寄付した件も報告され、その行いに称賛の拍手が自然と広がった。
すべてを合算した最終的な利益は、約四百二十五金貨。
シャロンが最後に帳簿を閉じると、集会所に大きな拍手が巻き起こった。
数字として示されただけでなく、その一つひとつが彼らの汗と努力、そして信頼関係の積み重ねによって成り立っていることを全員が理解していたからだ。
「以上が今回の収支報告です」
静かに締めくくるシャロンの声に、誇らしさと安堵の響きがあった。
団員たちは笑顔を交わし合い、町の未来を見据える表情を浮かべていた。
——商いもまた、戦いと同じ。
勝ち続けるためには知恵と勇気が必要なのだと、この瞬間誰もが噛みしめていた。
集会所に報告を終えた静けさが落ち着くと、シマがゆっくりと椅子を押しのけて立ち上がった。
ざわりと音が広がり、皆の視線が自然と団長へと集まる。
彼は軽く息を整え、まずは前に座るギャラガ一行に向かって穏やかに言葉を投げかけた。
「今回の取引、ご苦労だったな。」
短くも確かな労いの言葉。
ギャラガたちは安堵と誇らしさをにじませ、深く頷いた。
だがその後、シマの声色は少し重みを増す。
「……だが、この町の未来を考えると、まだ課題は山ほどある」
彼の言葉に、場の空気が引き締まった。
「これだけの町に鍛冶師がキョウカ一人では、とてもじゃないが手が足りない。彼女はこれから新しい製法や技法を試し、武具を一から作り出す予定だ。日常の修理や雑務を一人で抱えさせるのは無理がある」
キョウカの名が出ると、周囲の団員や住人が頷き合い、彼女の背中に自然と視線が集まる。
「産婆や彫金師も同じだ。若い者が育っていない。次に繋ぐ人材を育てなければ、町はすぐに立ち行かなくなる」
重々しい指摘にうなずく仲間たち。
だが、シマの言葉はさらに続いた。
「それだけじゃない。紙の製法を試す予定もあるし、宿や娯楽施設の運用も始める予定だし。奥方たちだって決して暇ではない。掃除に洗濯、炊事に裁縫、蜜蝋塗りの作業……みな率先して働いてくれている。勉強会にも顔を出しているだろう。子供たちも一緒だ。読み書きや計算は、この町ではもはや必須になっている」
シマの目には、真剣に帳簿に向き合う主婦たちの姿や
子どもたちが一心に用紙へ字を書く様子が浮かんでいた。
「ヤコブの持つ知識もそうだ。生態学、生物学、鉱物学、医学……数人の奥さんや子供たちが熱心に聞きに来るそうだ。暇を見つけては、お茶を飲みながら、おしゃべりを楽しんだり、ちょっとしたオシャレをしたり、乗馬をして心を和ませている…もっと自由な時間を与えてあげたいな…」
「…こうして考えるほどに思い知らされる。……まだまだ人が足りない」
集会所の空気が、シマの真剣な言葉でぐっと引き締まったあと――
ふいに柔らかな声が場を和ませた。
「……あの、ちょっといいかしら?」
声を発したのはハンナだった。
場の視線が一斉に彼女へ向けられる。
ハンナは少し恥ずかしそうに、それでいて遠慮のない調子で続けた。
「さっき団長さんが言ってたでしょう?『お茶を飲みながらおしゃべりを楽しんだり、ちょっとしたオシャレをしたり、乗馬をして心を和ませている』って。……あれね、本当にものすごい贅沢なのよ」
「そうよねぇ」
隣に座っていたカミラが深く同意するように声をあげる。
「結婚したら、女性は家庭に入るのが当たり前。仕事や趣味どころじゃないわ。朝から晩まで働き詰めよ。ご飯の支度に掃除、洗濯、洗い物、水汲み……買い物だって外に出ないといけないし。休む暇なんてほとんどないんだから」
その言葉には生活の重みがにじんでいた。
「でもここでは炊事班が大体の食事を用意してくれるでしょう?」
ハンナが言葉を継ぐ。
「だから私たちが家でやることなんて、ちょっとした裁縫とせいぜいお菓子を作ったり、たまにパンを焼いたりするくらい。以前に比べれば本当に楽なものよ」
「そうそう。しかも勉強までできるなんて……ありがたいことだわ」
カミラがしみじみと笑みを浮かべた。
文字の読み書き、計算を学べる環境など、庶民の女性が手に入れるには夢のような機会だった。
その言葉に耳を傾けていた男たちの間から、やや間の抜けた声が漏れた。
「……確かに言われてみれば、そうだなあ」
発したのはトーマスだった。
そこへケイトが目を瞬かせながら言葉を挟んだ。
「……この中にはハンナさん、カミラさん以外に主婦の人が…シャロンさんしかいないから気づかなかったわ」
言われたシャロンは一瞬驚いたように肩を揺らしたが、すぐに落ち着いた笑みを浮かべる。
すると、メグが興味津々といった調子で身を乗り出した。
「そういえば、シャロンさんって鉄の掟傭兵団でも会計をされてたんですよね? ご飯はどうしてたんですか?」
「ご飯?」
シャロンは小さく首を傾げ、あっけらかんと答える。
「……適当に屋台で買ったものを家に持ち帰って、そのまま出してたわ」
その瞬間、グーリスががばっと立ち上がり、目を見開いた。
「お、お前、やっぱり……!」
彼の狼狽ぶりに皆がくすりと笑いかける中、ライアンが慌ててフォローを入れた。
「ま、待て! シャロンはちゃんと朝は温かい飯を出してくれたぞ!」
ライアンの必死な声に、シャロンが少しだけ頬を膨らませ、肩をすくめた。
「当たり前じゃない。ちゃんと焼いて出したわよ。……昨夜の残り物なんだから」
一拍の静寂――次の瞬間、ダグが椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。
「お前……今まで気づかなかったのかよ!!」
会場がどっと笑いに包まれた。
ライアンは耳まで赤くなりながら弁明しようとするが、その声は笑い声にかき消される。
シャロンはどこ吹く風といった様子で涼しい顔をしており、かえって彼女の肝の据わりようが際立って見えた。
笑いが落ち着くと、再び話題は自然と女性たちの暮らしに戻る。
ハンナとカミラは、改めて今の町の仕組みがいかに異例で、いかに恵まれているかを語った。
炊事、洗濯、掃除といった重労働を分担し、娯楽や勉学に時間を割ける環境は、彼女たちからすれば夢のような世界だったのだ。
その言葉に若い女性団員たちは「なるほど」と素直に耳を傾け、男たちは「本当にそうなのか……」と自分たちがいかに家庭の内情に疎いかを痛感する。
結局、この夜の集会はシマの言葉から始まり、思わぬところで「暮らしの常識」という話題に広がった。
男たちにとっては新しい気づきとなり、女性たちにとっては胸を張れる誇らしい瞬間となった。
そして――シャロンの「屋台飯事件」は、後にもしばらく団内で笑い話として語り継がれることになるのだった。
シマに向かって、スタインウェイが少し居住まいを正して声をかけた。
「シマ殿、ちといいか?……実はな、義息子や義娘たちが“ワシについていきたい”と言っておったのだ。しかし……置いてきた。だが、この町で十数日間、暮らしてみて、ようやく分かった。安心して呼び寄せることができる、と」
真っ直ぐに放たれた言葉に場が少し張りつめる。
スタインウェイの瞳は真剣で、単なる思いつきや気まぐれで言っているのではないことを誰もが悟った。
だが、真面目な空気をそのままにしておけないのがスタインウェイの息子、ダグである。
「だから何度も俺が説明したじゃねえか。オヤジだって前回、前々回来たとき“いい町だ”って言ってたろ? お袋だって前回来たとき、風呂がすげえ気に入ってたじゃねえか」
「立場が違うだろうが!」
スタインウェイが声を荒げる。
「客として訪れるのと、この町の住人として腰を据えるのとでは意味が違う」
そこで割り込むのがフレッドだ。ニヤリと笑いながら大げさに叫ぶ。
「お? オヤジがなんかすげえ、まともなこと言ってるぞ!」
ザックが腕を組み、顎をしゃくって得意げに続けた。
「驚天動地ってやつだな」
「……」
一瞬、場が静まり、次にざわめきが広がる。
「……あのザックが……?」
「きょーてんどうち……?ザックが知ってて俺が知らねえ……こんなことってあるのか?」
フレッドが頭を抱える。
「お前……もしかしてだけど……馬鹿なのか?」とダグが半眼で突っ込む。
「そういうお前は意味を当然知ってるんだろうな?」
フレッドが挑発するように返す。
「……知らねえ」
ダグが苦い顔で白状する。
周囲がどっと笑いに包まれる。
あまりの緩急に、スタインウェイが先ほどの真剣さを取り戻すのに苦労するほどだった。
その中でマリアが目を丸くしながら問いかけた。
「よくそんな難しい言葉を知ってるわね? ザック」
ザックは鼻を鳴らし、胸を張る。
「へへ……まあな」
得意げに言うその様子に、またもや笑いが起き、真剣さと軽妙さが絶妙に入り混じったひとときとなった。
「悪いな、オヤジさん」
シマが手を軽く上げて場を収める。
「これがシャイン傭兵団なんだ……続けてくれ」
スタインウェイは「ふむ」とひとつ頷くと、先ほどの騒ぎをものともせず、再び真剣な眼差しを向けた。
「義息子や義娘たちの家族も合わせて……およそ四十人ほどを、この町に呼び寄せるつもりだ」
数を聞いて、周囲が一瞬どよめく。
サーシャが思い当たったように口を開いた。
「……オリビアさんやレベッカさんたちのことですね」
ダグもすぐに補足する。
「カスパルやフィンたちもだろ、オヤジ?」
「そうだ!」とスタインウェイが力強く頷く。
途端に胸を張り、得意げに言った。
「これもワシの人徳によるものだ。いやあ、人気者は辛いな!」
どこからそんな自信が湧いてくるのか。
義息子のダグでさえ、頭を抱えたくなるほどの思い上がりである。
そこで涼しい顔のまま、エイラが小さく笑みを浮かべて口を挟んだ。
「……“心配で目が離せない”って、皆さん言ってましたけどね」
スタインウェイの笑顔が一瞬固まる。
だが本人は意に介さぬふりをして咳払いをする。
傍で聞いていたハンナが呆れたように肩をすくめた。
「これじゃあ、どっちが親で、どっちが子供か分からないわね」
その一言に、周囲はまたもやクスクスと笑いに包まれた。
スタインウェイは「む、むぅ……」
唸りつつも、結局はどこか照れくさそうに顎を撫で、苦笑するしかなかった。




