モレム街に着く
ロイドとシマは無言のまま疾走していた。
夕焼けが沈み、空が次第に暗くなり始める。
ダミアンの話によれば、ここからおよそ一日歩いた先に「チュキ村」があるという。
「ロイド、急ごう。」
シマがそう言うと、ロイドは黙って頷いた。
すでに街道を行き交う者はいない。
夕方を過ぎれば、人々は旅を避けるのが常である。
シマは背負った袋の中に入ったジャムの甕を割らないように気を配りながら走る。
風を切る音、流れる景色。しかし、警戒は怠らない。
陽が完全に沈めば、周囲は闇に包まれる。
夜目が効くシマでさえ、遠くまではっきりと見ることはできない。
ましてや初めて通る道、土地勘もない場所だ。
街道を外れてしまえば、自分たちがどこへ向かっているのかも分からなくなる。
走り続けるうちに足がやや重くなってきたが、息はまだ上がらない。
シマはハンドサインでロイドに「ペースを上げる、大丈夫か?」と合図を送る。
ロイドは頷き、親指を立てて返した。問題ないようだ。
(……結構な距離を走ったな。)
シマはふと前世の記憶を思い出した。
「マラソン」という競技があったことを思い出し、もし出場していたら記録を打ち立てていたのではないか、などと考える余裕があった。
体感では二時間ほど走った頃、前方に灯りが見えた。「チュキ村」だ。
村の周囲は簡素な柵と板塀のようなフェンスで囲まれていた。
入り口には二人の男が立っている。
彼らが警備兵なのか、自警団なのか、それともただの村人なのかは分からない。
「入村料、一人、二銅貨だ。」
無骨な男の声が響く。
シマは腰の小袋から金貨を取り出し、一枚を渡した。
「……細かいのはないのか?」
男は渋い顔をする。
「すまない。あいにく持ち合わせがこれしかない。」
シマが答えると、男は溜息をつき、「待ってろ」と言いながら村の中へ駆け出していった。
シマとロイドは門の前で待たされた。
二人とも疲れはあったが、無駄口は叩かない。
何かあったとき、すぐに対応できるように集中していた。
五分後、男が戻ってきた。
「ほらよ、お釣りだ。」
男はシマに九銀貨と六銅貨を手渡した。
「すまないな。少ないけど、仕事が終わったらこれで一杯やってくれ。」
シマは二人にそれぞれ一銅貨を渡した。
「おお、若ぇのに気が利くじゃねぇか!」
男たちは喜色満面の笑みを浮かべた。
「それじゃあ、入らせてもらうぞ。」
シマとロイドは村の中へと足を踏み入れた。
チュキ村は決して大きくはないが、活気があった。
農作業を終えた人々が道端で談笑し、酒場の明かりが漏れている。
食事のいい匂いが漂い、どこからか音楽が聞こえてくる。
「とりあえず、宿を探そうか。」
ロイドが言い、シマは頷いた。
「無駄遣いはできないが、ちゃんと休める場所がいいな。」
二人は村の中心部へと向かった。
村の中には宿屋は一軒しかなかった。
その名も「ライム宿」。
ここチュキ村はノーレム街とモレム街の間に位置し、多くの旅人や商人が行き交う。
宿泊施設が一軒しかないということもあり、規模はそれなりに大きく、客室数も多そうだ。
シマは宿の受付へと足を運び、手短に尋ねた。
「二人部屋の個室は空いているか?」
受付の女性は手元の帳簿を確認し、「ありますよ。素泊まりなら六銅貨、夕飯付きなら八銅貨だけど、どうする?」と答えた。
「飯付きで頼む」とシマは迷わず答え、一銀貨を受付の女性に渡した。
「夕飯はすぐに用意できるけど、今食べる?」
「ああ、今食べるよ」
受付の女性はシマに木の札を渡した。そこには「20」と刻まれている。
「その札を厨房に出せば食事を受け取れるよ。食べ終わったらお盆を返してくれれば札を返却するから。これは部屋番号でもあるから、失くさないようにね」
「わかった」
二人は宿の食堂へと向かった。
厨房のカウンターで札を渡し、用意された食事を受け取る。
メニューは硬い黒パン、香草とくず切りのスープ、そして少量の肉を使った炒め物だった。
席に着き、スープを一口啜る。
香草の風味はするが、特に美味というほどではない。
「なあ、シマ」ロイドが小声で話しかけた。
「ここ、ちょっと高くないか?」
「確証はないが、訪れた時間帯が影響してるんじゃないか?」
シマはパンをちぎりながら答える。
「部屋もかなり埋まってるし、遅い時間に来たせいで足元を見られたのかもな」
「なるほどねえ…」ロイドは苦笑しながら炒め物を口に運んだ。
「それにしても、あんまり美味しくないね、これ」
「だな」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。文句を言っても仕方ない。
今日の目的は食事ではなく、休息だ。
「なんにせよ、今日は早く休もうぜ」シマが言う。
「ああ、そうだね」
食事を終えた二人は厨房にお盆を返し、二階へと向かった。
渡された木札には「20」と刻まれている。廊下を進みながら部屋を探す。
「18……19……おっ、ここだな」
シマが扉を押し開けると、意外にも中は清潔だった。
二つのベッド、木製のテーブルと椅子が二脚。
無駄のないシンプルな作りだが、悪くはない。
「思ったより綺麗だね」
ロイドが感心したように言う。
「確かに、これで飯がウマけりゃもっとよかったんだが。」
シマは荷物をベッド脇に置きながら答えた。
二人は上半身の服を脱ぎ、ベッドに横たわる。
長旅の疲れが一気に押し寄せてくる。
「汗でベトベトだよ。水浴びしたいね」
ロイドがぼやく。
「全くだ…」シマは軽くため息をついた。
「なあロイド、…風呂ってあるのか?」
「フロ?」ロイドは首をかしげる。
「聞いたことがあるような、ないような……どういったものなんだい?」
「簡単に言えば、温かい湯で水浴びするようなものだ」
「へえ、そんな贅沢なことができるのか?」
「贅沢か……まあ、噂に聞いた程度だが、出来たら気持ちいいんじゃねえのかと思って聞いただけだ」
シマは、前世の記憶を思い出しながら答えた。
湯船に浸かり、体の芯まで温まる。そんな当たり前の習慣が、この世界では特別なものなのかもしれない。
「さあ、もう寝ようぜ」シマは目を閉じた。
「そうだね」
ロイドもそれに倣い、静かに目を閉じる。
翌朝。シマは目を覚ますと、軽く体を動かしてみる。体調は万全だ。
やはり、見張りに立たずに横になって寝ると疲れの取れ方が違う。
そんなことを考えながら、隣のベッドに目を向ける。
「ロイド、体調はどうだ?」
シマの問いかけに、ロイドは満面の笑みで答えた。
「ばっちりだね!」
この世界では日の出とともに人々が動き出す。
シマたちも例外ではない。
支度を済ませ、村の中を見て回ることにした。
宿の受付で木札を返却し、外へ出ると、村はすでに活気づいていた。
チュキ村は小規模ながら市場が開かれており、いくつかの屋台も並んでいる。
道端には農作物を売る農夫たちの姿があり、鶏やヤギを引き連れた村人も行き交っていた。
そんな中、シマの鼻をくすぐる香ばしい香りが漂ってくる。
肉の焼ける匂いだ。シマはロイドとともに匂いの元を探し、やがて一軒の屋台を見つけた。
「いくらだ?」
屋台の主人に尋ねると、陽に焼けた顔の男が笑いながら答えた。
「一本、1銅貨だよ」
シマは4本を注文し、ロイドに2本を手渡す。
串に刺された肉は、焼き加減が絶妙で、表面が香ばしく焦げ目がついている。
かぶりつくと、程よく噛み応えのある肉とともに、間に挟まれた香草の風味が口の中に広がった。
「…! 美味しいね!」
ロイドが目を輝かせながら言う。
「この肉の間に挟んであるのは……ミントの葉かな?」
「おっ、兄ちゃん、わかるかい!」
屋台の主人は嬉しそうに笑った。
「これはな、特別な調合で味を引き立ててるんだ。塩と胡椒の加減も工夫してるんだぜ」
「塩、胡椒の加減が絶妙だな」
シマも感心しながら言うと、主人はさらに満足げな表情を浮かべた。
「兄ちゃんたち、味がわかるねぇ!」
屋台の前には、これから畑仕事に向かう農夫たちが集まり始めていた。
どうやら、この屋台は村でも人気のある店らしい。
朝食代わりに肉串を食べ終えたシマとロイドは、市場を後にし、歩きながら村の中を散策する。
すると、村の中心部に井戸場を見つけた。
そこでは数人の村人が体を拭いたり、皮袋に水を詰めたりしている。
シマたちも近づき、簡単に体を拭いた後、水袋に新鮮な水を補給した。
「さて、そろそろ出発しようか」
シマの言葉に、ロイドが頷く。
二人は村を出て、次の目的地であるモレム街へと向かった。
シマたちは「のんびり歩くつもり」だったが、その歩調は並の人よりやや速い。
太陽が西へと傾き始めた頃、モレム街が見えてきた。
簡素な柵が街を囲み、入り口には4人の警備兵が立っている。
すでに入場を待つ行列ができており、シマたちも列に並ぶ。
しばらく待ち、ようやく順番が回ってきた。
「身分証は持っているか?」
警備兵の問いに、シマは正直に答える。
「いや、持っていない」
「ならば、入場料が必要だ。一人につき1銀貨だ」
シマとロイドはそれぞれ1銀貨を支払い、モレム街へと足を踏み入れた。
街の中は、チュキ村とは比べ物にならないほど活気に満ちていた。
市場の規模も大きく、露店や商店が立ち並び、人々が行き交っている。
「結構な賑わいだね……」
ロイドが周囲を見渡しながら呟く。
「そうだな。とりあえず、宿を探そう」
二人はまず今夜の宿を確保するため、街の中へと歩を進めた。




