怒らない?!
ラドウの街の夕暮れは、赤銅色に染まった空と、城壁に反射する光が独特の美しさを放っていた。
日中の熱気をわずかに残しつつも、風は涼しく、夏の初めを思わせる爽やかさを運んでくる。
街の門前から少し外れた草地には、大小様々な商隊が既に幕を張っていた。
交易都市として知られるラドウの周辺は、旅人や商人にとって野営に適した場所で、焚火の煙がいくつも空へ立ち上っていた。
ギャラガ一行もまた、他の商隊から距離をとり、荷馬車を円形に配置して即席の防壁を作り出すと、馬を繋ぎ、火を起こし始めていた。
街へ入るには入場料を支払う必要があるため、彼らは外で夜を明かすことを選んだのだ。
荷馬車のそばで、ダミアンが言った。
「ギャラガ、悪いが馬車を見ててくれ。区長に顔を出してくる。ルドヴィカも一緒だ」
その口ぶりは当然のようで、断る余地はなかった。
「おう、気をつけろよ。用が済んだらすぐ戻ってこい」
ギャラガは腕を組み、短く答える。
残されたのはギャラガと四十数名の団員たちだった。
彼らは手分けして作業に取りかかる。
馬車の点検、荷物の確認、馬の世話、そして夕食の準備。
エッカルトが水樽を叩き、眉をひそめる。
「飲料はあと三日分は持つな。だが酒は……今日飲んだら空だぜ」
「なんだと、もう底か?」とルーカスが振り向く。
「ああ。ワインの樽は残してあるが、あれは手をつけられねえ。ヤコブさんと、エリカ嬢、ユキヒョウの奴が知ったら大騒ぎだ」
その場にいた全員が一瞬無言になり、やがて小さく笑いが広がった。
エリカの酔った時の大暴れや、ユキヒョウの冷ややかな説教を思い出したのだ。
ギャラガも口の端を上げる。
「確かに、あの面子を敵に回すくらいならワインを我慢したほうがいいな」
その間にも炊事班の三人が、ありあわせの食材を広げて確認していた。
干し肉、パン、乾燥野菜、ジャガイモ、乾燥果物、塩、胡椒、砂糖、油、小麦粉。
それを見比べながら、炊事班の一人が不安げにギャラガに声をかける。
「ギャラガさん、食材は切り詰めれば三日分は持ちそうですが……質素な食事になります。どうしますか?」
ギャラガは焚火にくべた薪のはぜる音を聞きながら腕を組み、短く考え込む。
そこへエッカルトが口を挟んだ。
「だったらマルク隊に買い出しに行かせようぜ。舌が肥えちまったからな……カチカチのパンに干し肉、味の薄いスープなんか出したら団員たちの不満が爆発するぞ」
その言葉にオズワルドも「確かにな」と苦笑する。
「昔なら考えられねえ。だが今じゃシマたちに慣らされちまったんだ。旨い飯が当たり前になっちまった」
ルーカスも頷きながら、ふと肩をすくめた。
「贅沢になったもんだ……まったく、良いんだか悪いんだか」
焚火を囲んだ面々が笑いを洩らす。
ふと、その場を和ませるようにエッカルトがニヤリと笑い、声を潜めて言った。
「なあ、どうせ買い出しに行かせるなら……小麦粉を大量に買ってこさせようぜ」
「小麦粉?」
ルーカスが眉を上げる。
「何に使うんだ?」
エッカルトは胸を張って答えた。
「お好み焼きだよ」
一瞬の沈黙のあと、周囲がどっと笑いに包まれる。
「いいな!」
真っ先に乗ったのはマルクだった。
「肉、野菜、卵と油も必要になるな。……それとやっぱり酒もいるだろ?」
ギャラガも焚火越しに笑みを浮かべ、懐から袋を取り出した。
「そうだな。マルク、果実酒を多めに頼む。こいつで足りるか?」
手渡された金を受け取ったマルクが「へい、責任者さん」と冗談めかして敬礼すると、仲間たちはまた笑った。
ルーカスが首を振りながら苦笑する。
「この中じゃ果実酒を飲むやつは少数派だろうが……」
エッカルトがニタリと笑って言葉を継ぐ。
「まあまあ、いいじゃねえか。どうせなら俺たちで焼いてやろうぜ。腹一杯食わせてやる」
オズワルドも頷き、「それなら鉄板代わりの鍋底を磨いておかねえとな」と肩を叩く。
マルクは仲間に手を振り、「任せとけ」と言い残し、マルク隊を率いてラドウの街へ向かっていった。
焚火の炎に照らされ、残った団員たちはどこか浮き立つような笑みを交わす。
荒くれの傭兵団でありながら、誰もが「食事」を楽しみにできる――
それが、彼らがシャイン傭兵団の一員である証のように思えた。
やがて空は群青に変わり、星がちらほらと瞬き始めた。
焚火の炎が赤々と燃え、肉の焼ける匂いと香草の香りが漂う。
ギャラガ一行は、全員がそれぞれの役割を果たしながら夜を迎える準備を進めていった。
遠くからは、他の商隊の笑い声や、馬のいななき、楽器の音が風に乗って届いてくる。
街の外で過ごす一夜は、不便さと同時に独特の賑わいもあった。
香ばしい匂いが漂い、油が跳ねる音と、腹をすかせた団員たちの笑い声が混ざり合う。
「熱ッ!……ホフッ、ホフッ……ん、ゴクン」
ブルーノが怒鳴り声をあげる。
「馬鹿野郎! 出来たんならみんなに回せよ!」
エッカルトが、したり顔で肩をすくめる。
「へへっ、調理してる者の特権ってやつだな……」
そう言いながら木のコップを傾け、エールを一気に流し込む。
「ゴクゴク……ゴキュ……クゥ~ッ! 美味い!」
豪快な飲みっぷりに、周囲の仲間たちがどっと笑った。
少し離れた鍋の方から声がかかる。
「揚げパン、フライドポテトできましたよー!」
油の香りと共に炊事班の一人が皿を掲げると、次々と手が伸びた。
「こっちは肉野菜の炒め物、仕上がったぞ!」
「スープもいい具合だ。灰汁をしっかり取ったから、コクがあるぞ」
熱々の具材が鉄板から大皿に移されるたび、空気は一層賑やかになる。
固くなったパンも、スープに浸せば柔らかく、また違った味わいを見せる。
「これで冷えたエールでもあれば最高なんだがな……」
ルーカスが、スープにパンを浸しながらしみじみ呟いた。
「馬鹿言え。冷えた果実酒の方が美味いだろうが」
ギャラガが豪快に笑いながら杯を掲げる。
「人の好みにケチつけんなよ……サーシャ嬢に知られたら……」
マルクが言いかけて、ふとブルッと肩を震わせた。
目を見開いて仲間に向き直り、声を潜める。
「……わかるだろ?」
「……あ、ああ、そうだな」
一瞬で青ざめたギャラガは、慌てて話題を逸らすようにルーカスに酒を差し出した。
「ルーカス、乾杯だ!」
「お、おう……酒は楽しく飲まねぇとな」
ルーカスも同じく額に薄く汗を浮かべ、乾いた笑いを浮かべる。
焚火を囲んで笑いが弾け、油の音と歓声、酒杯のぶつかる音が重なり、荒くれ者の一夜は華やいでいった。
そこへ――。
「ただいま戻った」
ダミアンの声が闇を裂いた。
続いてルドヴィカと、見慣れぬ五人の影が焚火の明かりに照らされる。
「お、帰ってきたか!」
ブルーノが声を上げるが、見知らぬ顔ぶれを認めて怪訝な表情をする。
ルドヴィカは腰に手を当て、呆れたように言った。
「……また豪勢な食事ね、あなたたちは」
その背後から、壮年の男が二人、慌てたように進み出る。
上質な衣を纏ったその男が声を震わせて名乗った。
「わ、わたくしはハドラマウド自治区区長、ワイルジ・モコノと申します! こちらはコイタチモ議員、クシツアー議員!」
両脇にいた二人の壮年も、慌てて深々と頭を下げた。
さらに後ろには、腰に剣を帯びた護衛二名が控えている。
「も、申し訳ございません! シャイン傭兵団の皆様を、このような街道端にとどまらせるなど……!」
ワイルジ区長は額に脂汗を浮かべ、必死に弁明する。
「ど、どうかシマ殿にはお伝えください!わ、私どもに悪意はなく……!」
「ま、待て! どういうことだ、ダミアン?」
ギャラガが怪訝な顔をしてダミアンに視線を送る。
ダミアンは肩を竦めて答える。
「……彼らがどうしてもと。お前たちを街の外に留めておくなど、不敬だと恐れているのだ」
「わ、私の方から申し上げます!」
区長ワイルジが慌てて前に進み出た。
「シマ殿率いるシャイン傭兵団に睨まれれば……わが自治区には抗う術がございません。どうかお怒りを買うような真似は避けたく……な、何卒穏便に……」
彼は必死に続ける。
「宿の手配はすでに済ませております! どうか、街へお入りいただき、ゆっくりとお休みください!」
頭を深く下げる。
背後で護衛兵たちも硬い表情で控え、焚火の明かりに照らされたその姿は震えて見えるほどだ。
団員たちは目を丸くし、互いに顔を見合わせる。
先ほどまでお好み焼きや揚げパンに夢中だった荒くれ者たちの手が、思わず止まった。
エッカルトが口を尖らせ、ルーカスがひそひそと呟く。
「おい……なんか、とんでもねえ存在に祭り上げられてねえか、あいつら…?」
「……シマの名前が出ただけで、区長が震えてやがる」
「めっちゃ怖がられてんのか……」
ギャラガは杯を置き、鼻で笑う。
「……そういうことらしいな」
ギャラガは腕を組みながら肩をすくめた。
「今から片付けて街に入るってのもなあ……まあ安心しろ、シマにはちゃんと説明しておく。あいつはこんなことで怒らねえからよ」
その言葉にワイルジ区長は安堵の息をつきかけたが、すぐに顔を曇らせて声を潜める。
「た、確かにシマ殿はお話の分かる御方です……ですが、フ、フレッドさんは怒りませんか……?」
隣に立つコイタチモ議員も蒼白な顔で身を乗り出す。
「ク、クリフさんは……怒りませんか?! 大丈夫ですよね!」
「ザ、ザックさんは?!お願いです、あの人が怒ったら止めてください!ま、まじで頼む!い、いや……頼みます!」
クシツアー議員は半ば泣きそうになって両手を合わせる。
ギャラガは思わず目を瞬かせ、仲間と顔を見合わせた。
「……あ、ああ。シマなら止められるから、そのこともちゃんと言っておくよ」
「ありがとうございます!!」
三人は深々と頭を下げ、護衛を従えて足早に去っていった。
しんとした沈黙が場を包む。焚き火のはぜる音だけが聞こえる中、ダミアンが呟いた。
「……なぁ? あいつら(シマたち)、何をしたんだ?」
「……さあ?」
ギャラガを含むシャイン傭兵団は、首を傾げて顔を見合わせるだけだった。
「まあ、いいじゃない。それよりもお腹がすいたわ」
ルドヴィカがさらりと言葉を切り替える。
その視線が、香ばしい香りを放つ鉄板の上へと注がれた。
「……何その食べ物?」
「これか? お好み焼きって言うんだ。美味ぇぜ! 食ってみるか?」
エッカルトが豪快に笑いながら返す。
「俺の分もな……お?フライドポテトじゃねぇか!」
ダミアンが目を輝かせて皿を手に取る。
「わざわざ俺のために作ってくれたのか、気が利くじゃねぇか!エールくれ!」
「お前のために作ったわけじゃねぇよ!金取るぞ!」
ブルーノが即座に噛みつく。
「ケチくせぇこと言うなよ。俺とお前らの仲じゃねぇか!」
ダミアンは豪快に笑いながらポテトを頬張る。
ルドヴィカもお好み焼きを一口食べ、目を見開いた。
「……なにこれ! 本当に美味しい!」
彼女が驚きと共に声を上げると、ダミアンも負けじと口を開ける。
「おおおっ……うめえ! こりゃたまらん!」
二人の大きな声が野営地に響き渡り、他の商隊や旅人たちまで羨望の眼差しを送ってくるのだった。




