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光を求めて  作者: kotupon


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338/456

デシャン・ド・ホルダー男爵

応接間の扉が静かに開き、マルクたちはビリャフに導かれて一歩ずつ敷居を越えた。


夕陽が長い窓から差し込み、部屋の重厚なタペストリーや地図が薄紅色に染まる。

応接間は格式を保ちつつも、人の気配が溜まることで温かみを増している——

ここが領主の家であり、同時に街の命運を担う場所であることを静かに告げている。


中心に立つのはデシャン・ド・ホルダー男爵。

がっしりとした体躯は簡素な上着の下でも際立ち、長年の鍛錬を感じさせる。


頬を斜めに横切る古い剣傷が、その顔に男としての歴史と重みを刻んでいる。

彼の視線は温かく、かつて衰弱していた身を救われたという恩義が瞳の奥に静かに光っている。


来客を見るとき、威厳と礼節が混ざった立ち居振る舞いで、短く深い礼をする――

その一礼だけで彼の人物が伝わる。


隣に立つのは嫡子、マリウス・ホルダー。

細身に見えるが筋肉は確かで、その引き締まった姿勢と整った顔立ちは、王都騎士学校を次席で卒業したという評判に偽りはない。


だが、何より目立つのは内側から滲む成熟だ。

シマたちとの出会いを経て一皮も二皮も剥けたかのように、彼の佇まいには既に次期領主としての責務感が宿っている。


マルクたちに向ける礼は端正で、言葉には落ち着きと気遣いがある。

父に代わって政務の一端を担っていることが、態度の節々に表れている。


応接間の片隅には執事長クレメンスが整然と待ち構えている。

デシャンと幼馴染である彼は、細部に至るまで配慮を欠かさない。


書類や器を手早く配しながら、会話の進行を滑らかにする術を心得ている。

彼の所作は冷静で確実、領主館の空気を支える無言の力。


マリウスの側近ハインツと、先導役だったビリャフはともに控えめだが堅実な存在感を放つ。

幼少より側仕えし、かつては平民を軽んじる面もあった彼らだが、シマたちとの接触とマリウスの成長を目の当たりにし、自らを律してきた変化の跡が見て取れる。


言葉遣い、所作、武芸——磨かれたそれらは、ただの形式ではなく内面の改心と決意の表れだ。


部屋に漂う空気には、礼節と恩義が混在している。

デシャンは過去の出来事を胸に刻み

シマたちシャイン傭兵団(当時は灰の爪、氷の刃、鉄の掟といった別個の傭兵団が傘下に入る前の話)に対して深い感謝を抱いている。


それは単なる礼儀や報酬の話ではない――

命を救われ、街を守られたという事実が、領主として、父としての応対に重くのしかかっているのだ。


挨拶が交わされると、短い会話が始まる。

デシャンは端的に礼を述べ、マリウスは労をねぎらい、クレメンスは必要な手配について淡々と告げる。ハインツとビリャフは脇で細部の確認をし、状況に応じて身の回りを整える。


マルクたちは敬意を示して礼を返し、剣や荷物は一時的に脇へ置かれる。

会話の合間に交わされる視線や一瞬の間合いが、相互の立場と過去の因縁を物語る。


夕陽が傾き、応接間の影が長く伸びると、空気は少し柔らかくなる。

歓迎の膳や温かい茶が差し出され、会話はやや私的な色を帯びてくる。


ルーカスが腰のポーチに手を伸ばし、くしゃりと仕舞われた封書を取り出す。

封蝋はまだ形をとどめていて、差出人の匂いがかすかに残る。

彼は一礼してクレメンスへと差し出した。


クレメンスは丁寧に受け取り、立ち居振る舞いそのままに目礼してマリウスに渡す——

礼を尽くす簡潔な所作が、応接間の緊張をほどよく整えた。


マリウスは封を開き、ざっと目を走らせてから静かに読み始める。

文字はシマの普段の調子そのままに砕けていて、句読点の合間に人となりが透ける。


『よう、マリウス、元気か?

マルクたちにブラウンクラウンを持たせた。親父さんに食わせてやってくれ。

親父さんが全快して暇ができたら、俺たちの町に遊びに来いよ。

これから月一で城塞都市に商品を卸すようになる。

お前の所でも何か欲しいものがあれば持っていくぞ。

詳細はマルクたちに聞いてくれ。

会える日を楽しみにしてるぜ。』


読み進めた直後、マリウスが思わず顔を崩して――声にならない小さな息と共に、豪快に吹き出した。

「ブㇷホォッ!」

その音が、一瞬応接間の静けさを切った。

驚きと喜びの混ざった笑いに、周囲の顔がほころぶ。


マリウスは膝に手をつき、ふう、と深く息を二度三度吐いてから続けて読み上げる。

彼の読む声に、皆が耳を傾ける。


文面に添えられた「ブラウンクラウン」という語が、部屋の空気を一変させる理由は明白だった——

その名は美食家たちの垂涎の的であり、かつては“幻の茸”と呼ばれ、今ではどれほどの金を積んでも手に入らぬ希少種である。

噂される効果は事実上の万能薬めいて、養強壮、健康促進、成長促進、そして鍛錬により強靭な肉体を作る助けとなると伝わっている。


読み終えたマリウスは、文字を額に押しつけるようにして深い溜息をついた。

肩から力が抜けるというより、言葉の重さを噛みしめるための息だ。

目は少し潤み、けれど笑みを伴った輪郭が残る。


「相変わらず、シマは想像の斜め上を行く……いや、さらにその上だね」

言葉は軽口にも聞こえるが、その背後には敬意と驚嘆が確かにある。


マリウスは立ち上がり、ふっと落ち着いた表情で父——デシャンへと手紙を差し出した。

デシャンはゆっくりと受け取り、皺の寄った指で封を割ってから読む。

彼の顔は最初は硬く、次第に柔らかさを帯びていく。

剣傷のある頬が緩んで、かすかな笑いが漏れた。

読み終えると、デシャンは目を上げ、マルクたちをじっと見据えた。


クレメンスはそっとメモ帳に短く目を落とし、ハインツはわずかに前のめりになって耳を澄ます。

ビリャフは控えめに一歩引き、表情を崩さずに状況を整理する。


マルクは胸の奥でほっと息をつき、ルーカスは軽く肩の力を抜いたそぶりを見せる。

ブルーノとエッカルトも、安堵と緊張の混ざった複雑な面持ちだ。


デシャンは手を置き、低くて重い声で言った。

「シマの…シャイン傭兵団の恩は決して忘れぬ。ブラウンクラウンのこと、ありがたく受け取ろう。お前たちもよく来てくれた。心から歓迎する」


その一言に、応接間にあった緊張がほのかに溶け、座席からは小さく安堵の息が漏れた。

夜の光が窓辺で揺れ、紙の上の文字は静かに影を落としている——

手紙一通が、人と人の距離を縮め、これから交わされる約束の種を撒いた瞬間だった。


マリウスはマルクたちに向けて軽く肩を揺らすように笑い

「堅苦しい言葉遣いはいらないよ、いつも通りに話してくれていいから…よろしいですか、父上?」

と穏やかに促した。


応接間に一陣の風が通ったように、固かった空気がふっと和らぐ。

マリウスの目には、若さと責任の両方が同居しており、その口調の柔らかさは来客を包む配慮そのものだった。


デシャンは大きく腰を下ろし、豪快に声をあげて笑った。

「ワハハハ!もちろんだ。俺も堅苦しいのは性に合わん。聞いているがどうか知らんが、俺は侯爵閣下について戦場で暴れ回っていたら、いつの間にか貴族になっちまっただけの成り上がりだ」

その言葉に場が一層和む。

荒々しい笑いの後、彼は掌で膝を軽く叩き、懐の深さと人間味をあらためて示した。

「……そんなわけでな、普段通りでいいぞ」


マルクは少し緊張を解いた表情で頷き、脇に下ろしていた背負い袋の紐を外してゆっくりと甕を取り出した。

布の包みを丁寧に解く指先は震えているようにも見えるが、仕草は確かで、甕の陶肌が燭光を受けて鈍く艶めいた。


周囲の者たちが覗き込む。

クレメンスは執事としての礼節を崩さずに前に進み、だが目の奥には興味と少しの驚きが見えた。

ハインツやビリャフも顔を寄せ、マリウスは軽く前屈みになって口元に微笑を湛えた。


甕からはほのかな土と湿り気を含んだ匂いが漂い、見た目だけでも只事ではないことを告げている。


「父上、これが……幻の茸、ブラウンクラウン、ですか?」

マリウスが慎重に尋ねる。声には畏敬が混ざる。


デシャンは甕を一瞥して、肩をすくめるように意味ありげに答えた。

「おれに聞かれてもな、食ったことねえし……クレメンス、夕食に出してくれ」


「畏まりました」クレメンスはすっと背筋を伸ばし、応接間の片隅で既に動き始める従者たちへ指示を飛ばす。

燭台の光が揺らめき、給仕たちがそそくさと準備に取りかかる。

帳簿や封蝋が置かれた机の傍らで、小さな忙しさがさっと広がる。


その場の空気が一層和んだところで、マリウスがふと真面目な顔に戻り、訪問の根本を確認するように訊ねた。

「君たち、宿の手配は済んでいるのかい?」


マルクは首を振り、率直に答えた。

「いえ、まだです」


マリウスはにっこりと笑い、父に目をやる。

デシャンは短く頷くと、低く重い声で告げた。

「それなら今日はここに泊まれ。俺もシャイン傭兵団に興味があるし、話が聞きたい」


マリウスもすぐに付け加えた。

「今夜は楽しくなりそうですね。私も聞きたいことがたくさんありますから」


その言葉に、マルクたちの肩の力がすっと抜ける。

館内はこれから交わされる酒と談笑の時間への期待で満たされていった。


ランタンの灯が揺らめき、長テーブルに並んだ皿から湯気が立ちのぼる頃、応接間はすっかり夜の顔を見せていた。

酒が回り始め、硬さが取れた会話の端々に笑いが混じる──

それでも、礼節の骨格は誰も忘れてはいない。


椅子の背を立て直す、小さく頭下げ、口元に差し出される杯を両手で受ける所作、そのどれもが“礼を尽くした上での親しさ”を示していた。


「へえ、それじゃあデシャン様は一兵卒から貴族になっちまったんですか?」

エッカルトが軽く身を乗り出し、からかうように問いかける。

表情には純粋な好奇と、いささかの羨望が混じっている。


「一体どんな武勲を上げれば男爵になれるんだろうな?」

ブルーノが大きく笑いながら続ける。

周囲の者たちも興味深げに耳を傾ける。


デシャンは杯を掲げ、豪快に笑ってから肩をすくめた。

「俺には将としての器はなかったんだよ。侯爵閣下が『行け』といえば行き、『突っ込め』といえば突っ込み、『足止めしろ』といえば足止めしただけ。その中に、たまたま敵将の首があったりしてな……」

言い終え、彼はわざとらしく胸を張ってみせ、席の端で小さな自慢話のように肩を震わせる。


デシャンは目を細め、少し真面目な顔に戻る。

「いや……違うな。たまたまじゃねえ。閣下は見越して、俺に武勲を上げさせていたのかもしれん」

彼の声には憶測と感謝とが混ざる。

酒がその輪郭を和らげ、真実味を帯びさせる。


マリウスがそっと差し出されたパンに手を伸ばしながら、静かに言葉を継いだ。

「恐らくそうでしょうね。父上がここの領地を賜ったのも、侯爵様のご意向が反映されているのではないかと」

その視線は父に向けられ、父の額の皺がふっと緩むのを誰もが見逃さなかった。


デシャンは一瞬、窓の外を見やり、遠くの町並みを思い浮かべるような表情を見せた。

「何もなかったこの街に随分と援助してくれた。人が来るようになり、店が増え、道が整った。あれはありがたい話だ」

言葉に込められたのは単なる恩寵の話ではなく、街を託す責務を受けた者としての重みだ。


ルーカスが頷き、グラスの縁に指を当ててから微笑む。

「侯爵様のお気に入りということですね」

その軽い冗談に、テーブルの空気は再び弾みを取り戻す。


誰もがそれぞれの位置で笑い、杯を交わす――

だがその笑いの背後には、相互に支え合う関係性と、名を借りて成り上がる者とそれを見守る者の奇妙な均衡が確かに存在していた。


ランタンの揺らぎとともに話題は次へ移り、食事と酒はゆっくりと胃に落ち着いていく。

だが、その合間に交わされた言葉は、聴いた者の胸に小さな確信を残した――

この街の変化は偶然ではなく、誰かの意志と誰かの行動の積み重ねの結果なのだ、と。

応接間の夜は、親しみと敬意とが混ざり合った静かな余韻を抱えて深まっていった。


応接間の戸が静かに開き、料理長自らが小さなカートを押して現れた。

木製の車輪が床を擦るかすかな音、蓋をそっとめくると、湯気がゆらりと立ちのぼる。

香りが一斉に拡がり、応接間の会話が自然と途切れた。


深めの碗が五つ、黄金色のスープが満ち、中央には幅のある身が一つ。

給仕が慎重に配膳すると、応接間のざわめきが一瞬にして静まった。


「お運びしました。ブラウンクラウンのスープでございます。どうぞご賞味くださいませ。」


マリウス、クレメンス、ハインツ、ビリャフにはスープが差し出され、デシャンには身とスープが分けられた。


デシャンはゆっくりとフォークとナイフを取り、身の表面を一瞥してから一切れ切り取る。

「……香りが違うな。」


マリウスがそっと鼻を寄せ、目を細める。

湯気の向こうから、茸の深い香りと、焦がしバターの甘さ、薬草の爽やかさが広がる。

「これは……深い。言葉にしづらい香りです。」


――そして、デシャンが身を口に運んだ瞬間、場の空気が変わる。

「……っはぁ……うんっ……こ、これは……!胸に、じんわりと入ってくるな。体の芯から温まる。まるで抜けていた力が戻るようだ……」


次の瞬間、彼の表情にわずかな紅潮が差し、背筋がわずかに伸びる。

それはまるで、疲れた心身が一気に蘇ったかのようだった。


その仕草に、場の誰もが気づいた。

デシャンの肩がすっと伸び、背筋に力が戻ったように見える。


彼の表情は、言葉にしなくとも満足と感謝が胸中から溢れ出しているのが分かった。



誰もがそっと顔を近づけ、匙を唇へ運ぶ。


スープは舌の上で瞬く間に広がり、深い旨味がごく短い時間に幾重にも重なって襲ってくる。

茸のうま味とコクが溶け合い、微かな甘みとほろ苦さが後味を整える。


塩気は抑えめで、香草の余韻が喉の奥まできれいに流れていく。

舌先から胸へ、温度とともに満ちてゆく感覚に、誰もが一瞬、言葉を失った。


ただのスープではない――茸だけが持つ複層的な旨味と舌触りが、満足感を与え、胃にも心にも効くように感じられた。


マリウスたちも、また、ひと口ごとに驚嘆の色を深めていく。

スープを飲むごとにつれて、身体の内側からじわりと温かさが広がる感覚が各人に及んだ。

力が湧き上がる、という比喩が正鵠を射ているかのように。


その夜の応接間は、香りと温度と静かな感嘆に満ち

ブラウンクラウンがもたらした一瞬の奇跡が、言葉を超えて人々を繋げていた。

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