城塞都市カシウム2
二日後の夕方前
砂塵に包まれた道の果て、地平線に瓦屋根と白壁の連なる街影が現れる。
馬蹄の音、車輪の軋み、規則的な足取り――シャイン傭兵団とエイト商会の一行、馬車15台が整然と連なって、ズライ自治区のタイズの街へと入っていく。
前後を囲むのは傭兵団の馬車、中央にエイト商会の馬車5台。
それぞれの幌には商会の印と団旗が掲げられ、隊列全体がひとつの「移動する隊商」のような風格を見せていた。
街門を通り抜けると、タイズ特有の乾いた空気と、甘く濃い香辛料の匂いが風に混ざる。
石畳を進む馬車の列に、道行く住人が振り返り、珍しげな視線を向けていた。
馬車の一台、エイト商会の三番車。
御者席に腰かけたディープが、前を歩いていたギャラガに声をかける。
「ギャラガ。お前ら――泊まる宿は決まってるのか?」
ギャラガは歩調を緩めず、静かに腰のカバンに手を入れた。
くしゃくしゃになった紙を引き抜き、陽の光にかざして目を細める。
「えーっと……」
少し読みづらそうに文字を追いながら、口にした。
「ワトソン宿ってとこに泊まるって書いてあるな……シマからの指示だ」
「……へえ」
ディープが短く鼻を鳴らす。
「そこそこ高い宿だぜ。清潔で飯もうまいが…足が出るぞ。こっちから出す宿代の上限は決まってるからな。その分、馬の世話と馬車の管理はしっかりしてるけどよ……」
隣を歩いていたオズワルドが、ギャラガの肩越しに紙を覗き込みながら言う。
「シマがワトソン宿に泊まれってんなら、そこでいいだろ。それが一番手間がねえ」
ギャラガは小さく頷き、「ああ、俺もそう思う」と応じる。
馬車の上から聞いていたディープが、腕を組みながらため息をついた。
「俺たちも同じ宿に泊まるか……?できればもうちょっと節約したかったんだがな……街の中の護衛までは契約に含まれてねえからな」
彼の言葉には、どこか冗談めいた調子もあるが、職務の線引きはきっちりしている。
石畳を進む馬車列は、やがて街の中心通りに入り、夕方の喧騒の中、ワトソン宿の立派な門構えが視界に入ってくる。
白壁に青い屋根瓦、三階建ての石造り。
馬車は裏手へ回し、宿のスタッフに引き渡されるも流石に15台は停められず、別料金で提携している宿屋に分散する事に。
ディープとギャラガは一歩前へ出て、宿の主人と短く挨拶を交わす。
今日の宿が決まり、隊商の一行にはひとまずの安堵が広がった。
夕食を済ませたシャイン傭兵団の面々は、思い思いに夜を過ごしていた。
街の散策に繰り出す者、繫華街に遊びに行く者、早めに部屋に引き上げる者……。
その中で、宿の一階奥――灯りの落ち着いた酒場には、ひときわ静かな時間が流れていた。
ギャラガ、オズワルド、マルク、ルーカスの四人が、丸い木製の卓を囲み、素焼きの杯を傾けていた。
テーブルの上には、蒸し料理の残りと、酒壺から注がれた常温の酒。
壁際の油ランプが揺れ、微かに焦げた麦の匂いが漂っていた。
ギャラガが杯をひと口傾け、渋い顔で鼻を鳴らす。
「……ぬるいな」
「美味くねえな……やっぱ、冷えてねえと」と言ったのはルーカス。
「あの味を知っちまうと……物足りねえな」
マルクが肩をすくめる。
目を細めて、思い出すのは――チョウコ町の冷や酒。
「……悪いことばかりじゃねえよ」
静かに杯を回しながら言うオズワルド。
「冷えてないぶん、深酒はしねえ。酔い潰れも減る」
「……任務に集中できるってな」
ギャラガが頷きながら応じた。
しばしの沈黙のあと、プッ…ククッ…ハハハ……
卓を囲む四人から、低く穏やかな笑い声が漏れる。
酔いではなく、仲間との語らいがもたらす、柔らかな温度。
そのとき、木の床を軋ませて近づいてくる足音があった。
「……ここ、いいか?」
声の主はディープ。
旅装のまま、杯を片手にしていた。
ギャラガが頷き、五人目の椅子が音を立てて引かれた。
ディープが腰を下ろすと、再び静かな時間が流れる。
酒壺が回され、杯が満たされる。
五人の男たちは、言葉少なに、だが確かに酒を酌み交わした。
少しして、オズワルドが問いかける。
「お前たちは結構付き合いが長いんだろう?」
目線を向けたのは、マルク、ルーカス、ディープの三人。
「……そうだな」
マルクが一拍置いて応じた。
「もう十年以上の付き合いになるな」
「俺たち、鉄の掟、お前たちエイト商会も、同じ街に拠点を構えて。……お互い、駆け出しのころからの顔見知りだった」
ルーカスが静かに語り出す。
「小さかったよなあ……」
ディープが懐かしそうに笑みを浮かべる。
「こっちは露店や行商から始めて……荷台一台、馬一頭がやっとだった。お前たちも、最初は十人に満たなかったろ?」
「……そうだったな」
ルーカスがうなずく。
「それが今や、エイト商会はギザ自治区一の大店に。鉄の掟も――今はシャイン傭兵団の傘下に入ったとはいえ、名は知られていた」
オズワルドも杯を傾けながら頷いた。
「ゼルヴァリアでも名の知れた傭兵団だったな、鉄の掟は」
その言葉に、三人は照れくさそうに笑いながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべる。
会話が途切れても、気まずさはなかった。
過ぎ去った年月が、そこに座るだけで語ってくれる。
酒場の片隅、灯りの揺れる静かな夜。
剣も秤も今は脇に置き、五人の男たちは、かつての日々に思いを馳せながら、
互いの健在を、そしてこれからを、黙って杯で祝していた。
翌朝――
タイズの街門を抜け、馬車十五台の列は再び街道へと繰り出した。
朝の空気は澄み、薄い靄がまだ地表に残っている。
車輪が砂利を噛む音、馬の鼻息、そして時折交わされる短い会話だけが耳に届く。
先頭を行く御者たちも、今日は気持ちに余裕がある。
城塞都市までは半日の行程、昼前には到着できる距離だ。
やがて、街道の先に緩やかな丘陵が現れ、その向こうに城壁らしき影が見え隠れする。
――国境が近い。
だが、丘の下に差しかかったとき、前方に規律正しく並ぶ人影の列が視界に入った。
槍の穂先が朝日を反射し、鈍く光る。
「……おい、あれは……」
御者席から後方を振り返る者もいれば、馬車の横を歩く傭兵たちが手をかけていた武器の柄を握り直す。
「カシウム領軍か……? いや、確証はねえな」
ギャラガが鋭い目で前方を見据え、声を張った。
「――シャイン傭兵団! 警戒体制!」
その一言で空気が一変する。
荷馬車の周囲を歩いていた団員たちは間隔を詰め、盾持ちは半歩前に出る。
御者も手綱を締め、馬を落ち着かせる。
やがて、整列した兵の列から一騎の馬がゆっくりと進み出た。
陽光を受けて、黒と銀を基調とした軍装が鈍く輝く。
鍛え上げられた長身の男が馬上で背筋を伸ばし、堂々とした気配を放っていた。
その男は馬を止めると、落ち着いた声で告げる。
「……馬上から失礼します。ネリ・シュミッツと申します」
声は低く響き、はっきりとした抑揚が耳に残る。
そして、穏やかな眼差しをギャラガに向けた。
「……シャイン傭兵団とお見受けします。間違いないでしょうか?」
ギャラガは片眉を上げ、口元だけで笑った。
「ああ、間違いない。――シャイン傭兵団、灰の爪隊隊長ギャラガだ。この商隊の責任者でもある」
ネリは深く頷き、礼を崩さずに続けた。
「これはご丁寧に……カシウム城まで、私がご案内いたします。――よろしいでしょうか?」
ほんの数秒の間を置き、ギャラガが短く返す。
「ああ、頼む」
その合図で、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
ネリが手綱を引き、馬首を城塞都市の方向へ向けた。
兵士たちは道の脇に整列し、馬車列を通すために道を空ける。
国境線の向こうには、灰色の巨大な城壁と、カシウムの街並みが朝日に浮かび上がっていた。
そのまま一行は国境線を越えた。
カシウム領に入るや、巨壁がますます迫力を増す。
城塞都市カシウムの外壁は、近づくにつれ視界いっぱいに広がり、陽光を受けて淡く白んだ石肌が鈍く輝く。
馬車列の後方から、遠慮がちに声が上がった。
「……ネリ様? ……ネリ殿?」
振り向いたネリは、柔らかく笑って首を横に振った。
「私のことは、ネリとお呼びください」
「……い、いいのか……?」
小声で交わされるやり取りに、緊張の糸が少しだけ緩む。
そのとき、ギャラガが喉を鳴らし、ひとつ咳払いをした。
「コホン……ネリ、一つ聞きたい。なぜ俺たちがシャイン傭兵団だとわかった?……団旗はそれほど知られていないはずだ」
ネリは手綱を軽く操りながら、落ち着いた口調で答える。
「ブランゲル侯爵家では情報にも力を入れております……シマ殿の助言もありまして」
彼の視線が御者席の一角に向く。
「そちらの御者席にいる方も、シャイン傭兵団の方でしょうか?」
突然声をかけられ、ディープは肩を跳ねさせた。
「あっ、私はエイト商会の者でして……シャイン傭兵団に護衛の依頼をお願いしまして」
「そうですか……先ほどの話は言い振らないでいてくれると助かります」
ネリは声を少し落とし、柔らかい笑みを浮かべる。
「エイト商会といえば、シャイン傭兵団と協力関係だと聞き及んでおります。私どもがお力添えできることがあれば、何なりとお申し付けください」
巨壁が目前に迫り、その向こうにはまだ見ぬ城塞都市の息吹が感じられた。
城門の目前には、荷車や旅人がぎっしりと連なる長蛇の列が続き、検査官たちが鋭い視線と確かな手つきで荷を改めていた。
列の脇を、ギャラガたち一行はネリの先導でゆったりと進み、周囲の兵士たちは無言で敬礼しつつ道を開ける。
その動きは無駄がなく、鍛えられた規律が一目でわかるほどだった。
「ギャラガ殿、アパパ宿にお泊まりになるのでしょうか?」
馬上のネリが軽く振り返る。
「……確かそんな名前だったな?」
オズワルドに視線を向けるギャラガ。
オズワルドは無言で頷き、ネリは二人の兵士を呼び寄せ、手短に何事か指示を出す。
「シャイン傭兵団とエイト商会の滞在費は、すべてブランゲル侯爵家が持ちます。……よろしいでしょうか?」
「……いいのか?」
目を細めるギャラガ。
「勿論です」
ネリは柔らかく微笑み、再び馬首を進めた。
城門を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。
眼前には幅広い石畳の大通りがまっすぐ街の中心へと延び、その両脇には高低様々な建物が途切れることなく並び立っていた。
香ばしいパンの匂いが漂うパン屋、陽気な笑い声が響く酒場、火花を散らす鍛冶屋の炉、威勢のいい声を張り上げる露天商――色も音も匂いも、まるで渦を巻くように押し寄せてくる。
往来を行き交う人の波は絶えず、奥行きが見えないほど広大で、ギャラガたちはその規模と活気にしばし言葉を失った。
一方、ディープらエイト商会の面々は慣れた様子で周囲を見回す。
何度も訪れてきた景色に、驚きではなく、土地勘に裏打ちされた余裕を漂わせていた。
城門を抜け、喧騒と活気に包まれた大通りを進む中、ディープが歩みを緩めてネリへと向き直った。
「ネリ様、このたびは滞在費をご負担いただけるとのこと、誠に感謝申し上げます。我々はここで…」
深々と頭を下げるその声には、感謝と同時に遠慮の色もにじんでいる。
「アパパ宿の場所はご存じですか?」
ネリが穏やかに問いかける。
「申し訳ありません、わかりません」
即座に返すディープに、ネリは軽く顎を引き、背後の兵士へと視線を送った。
「キース、エイト商会の方々をご案内なさい」
「ハッ!」と声が響き、呼ばれた兵士が一歩前へ進み出る。
年若くも精悍な顔立ちの男は、胸を張って名乗った。
「カシウム領、領軍第八隊所属、キースと申します! エイト商会の皆様をアパパ宿へご案内いたします!」
その姿勢は凛としており、胸甲の金具が陽光を反射して輝いた。
アパパ宿に到着したディープたちエイト商会一行は、キースに礼を述べてから、まずは1階の食堂兼酒場へと足を運んだ。
木の梁がむき出しになった天井、壁際には大きな樽がいくつも並び、香ばしい肉の匂いと焼きたてのパンの香りが漂っている。
昼時で客も多く、賑やかな笑い声や食器の触れ合う音が絶えないが、広々とした造りのため窮屈さはない。
丸テーブルに腰を下ろすと、給仕の娘が水差しとメニュー板を持ってきた。
ディープは軽く会釈しつつ注文を済ませ、背もたれに体を預ける。
やがて運ばれてきたのは、厚切りのロースト肉に香草を添えた皿、湯気を立てる野菜スープ、焼きたてのパン。
向かいの若い商会員が、肉を切り分けながらぽつりと口を開いた。
「ディープさん…なんだか、ものすごい好待遇ですね…それに城門をフリーパスだなんて…」
「…ああ、驚きだ」
フォークを置き、ディープは低く答える。
「ブランゲル侯爵家とシャイン傭兵団が昵懇の仲だとは聞いていたが…こうして実際に目にすると、言葉以上のものがあるな」
窓の外を行き交う人々を眺めながら、ゆっくりとワインを口に含むディープだった。




