表と裏
地下闘技場――
血と汗と酒の匂いが混じる、まさに“人の欲”が渦巻く空間。
だがそこに一つの嵐が吹き荒れた後、空気は完全に変わっていた。
勝負を終え、何事もなかったようにリングを降りるフレッド。
その無造作な足取りには圧倒的な余裕と風格が滲んでいた。
リング係も観客も、先ほどまでの試合――いや、“処刑劇”とも言うべき光景を前に声もない。
一人、二人とようやく歓声を上げる者が出てきたときには、フレッドはもう賭け屋から金を受け取っていた。
「…よ、40金貨、きっちりですね…」
そう言って、震える手で賭け屋の男が袋を差し出す。
フレッドはそれをヒョイとひったくると、その場で重さを確かめ、「……まあまあだな」とにやける。
そのまま、赤い絨毯を踏みしめ、豪奢なテーブル席へ戻る。
そこでは、酒と果物が並ぶ贅沢な空間に、ユキヒョウとベガが座っていた。
「…おっそろしいな…!」
思わず漏れ出るベガの本音。
その隣でワイングラスをくるくると回しながら、ユキヒョウが静かに笑う。
「君はまだ知らない…フレッドはこんなものじゃないよ。本気を出したら――“目で追うこともできなくなる”さ」
フレッドはテーブルの前に立ち、ぐいっと右手を差し出す。
「おい、チョビ髭。金よこせ」
護衛たちに囲まれ、身をすくめていたチョビ髭の男がビクンと肩を震わせる。
「ひゃ、ひゃいぃ!」
そのまま腰の袋から金貨を取り出そうとするも――手が震えてうまくいかない。
チャリンッ、チャリンッ――
10金貨がテーブルの上にこぼれ落ちる。
金の硬貨が跳ねて転がり、赤い布を敷いたテーブルクロスに無遠慮な音を立てた。
フレッドの顔から笑みがすっと消える。
声は低く、だが明確に。
「……お前、何のつもりだ…?」
その一言で、チョビ髭の顔色がみるみる蒼白になる。
「ち、違うんです! わ、わざとじゃないんです! け、決してそんなつもりは……っ!」
涙目になりながら、護衛の影に隠れそうになって懇願する。
そこでベガが苦笑しながら助け舟を出す。
「まあまあ、そう怒んなよ」
そう言って、テーブルにこぼれた金貨を一つずつ丁寧に拾い集め、フレッドに手渡す。
フレッドはそれを受け取り――
口元に広がるのは、先ほどの獣のような顔とは違う、少年のような茶目っ気のある笑み。
「それもそうだな!ワハハハハ!!」
酒を煽り、グラスをテーブルに置くと、グッと腰を伸ばして満面の笑みを浮かべる。
「な? だから言ったろ? ここは最高の遊び場だってよ!!よし、次!用意しろ!」
その一言に、場の空気が一瞬凍りつく。
チョビ髭が顔を引きつらせながら、汗だくで首を振った。
「ま、ままま待ってください! こ、これいじょう選手は…い、いません!」
「……あ゛?」
テーブルに足を放り出し、顎をしゃくるフレッドの姿はまるで王者。
「お前、この前も同じこと言ってたぞ……?」
目に光が宿る。
「いくら温厚な俺でもよ……毎回毎回同じこと言われてたら……怒っちゃうぞ?」
その緊迫感を一刀両断するように、チョビ髭があわてて声を上げた。
「ち、違うんです! こ、これには……ふ、深いわけがあるんです!」
フレッドが「へぇ?」と鼻を鳴らす。
「じ、じつは……い、いっか月前に……ザ、ザックさんが来られまして……っ!」
その名前にフレッドの目が見開かれる。
「……は?」
「は、八人を……戦闘不能にしてしまって……っ! そ、それで、ま、また選手をかき集めてこないと、こ、興行が……な、成り立ちません!」
フレッドは天を仰ぎ、大きく口を開けて――
「ハハハハ!! なんだ、あいつも来たのか!!」
と朗らかに笑った。
その背にあった、殺気と狂気は、霧のように散っていた。
一同が、安堵と戦慄の入り混じった空気の中、彼の笑い声だけが地下闘技場の奥に響き渡っていた。
地下闘技場からの帰り道――
まだ夜の帳が厚く街を覆っており、人気のない倉庫街の通りにフレッド、ベガ、ユキヒョウの三人の足音が響いていた。
先ほどの戦いで血と汗にまみれた空気も、今はどこか穏やかな興奮に変わっている。
フレッドは、肩をぐるっと回すと
「よっしゃ! 娼館に行こうぜ! おごってやるよ!」と豪快に言い放った。
その声には疲れも迷いも一切なく、ただ一人の男としての欲望に忠実でいる清々しさすらあった。
ベガがニヤリと笑い、「お、いいのか? その前に――情報料な?」
と指を一本立てる。
「おう」
素直にうなずいたフレッドは、皮袋をしゃらんと鳴らし、1金貨をベガに放って渡す。
ベガは空中でそれをキャッチし、「悪くないな」と満足げに呟く。
だが、その隣で静かに歩いていたユキヒョウは、首を横に振って笑うように言った。
「僕は遠慮しておくよ」
「お?」
少し驚いたようなフレッドは、それでもすぐにうなずき
「んじゃ、帰ったらロイドに5金貨を渡してくれ」
と、ユキヒョウに5金貨を差し出す。
だが――
ユキヒョウは手を引っ込めない。
どこか無言でフレッドを見つめている。
「……なんだよ、その顔」
フレッドが怪訝な顔をすると、ユキヒョウはにっこりと微笑んだ。
「メリンダには、娼館に行ったことを知られたくないだろう?」
その言葉に、フレッドの表情がピクリと動き、「チッ……」と舌打ちをする。
「くっそ……これで黙ってろ」
1金貨を渡す。
しかし――ユキヒョウの手は動かない。
そのまま、穏やかな笑顔でフレッドを見つめるだけ。
「……これでどうだ」
と2金貨。
しかし、ユキヒョウの手はまだ沈黙を保っている。
「……絶対に言うんじゃねえぞ!!」
ついに根負けしたフレッドが、3金貨目を握らせると――
ようやく、ユキヒョウはにっこりと笑って手を引っ込めた。
「了解だよ」
分かれ道に差しかかり、ユキヒョウはアパパ宿の方へ、フレッドとベガは繁華街へとそれぞれ進路を分ける。
街灯の影の中に歩を進めながら、ユキヒョウはポケットの中の金貨を確かめる。
「……馬鹿だなぁ、フレッド……」
誰に語るでもないような、独り言のように。
そして、クスクスと喉の奥で笑った。
「僕が言わなくても、皆にはバレバレなのに――フフフ」
メリンダもまた察していることは間違いない。
そんな関係を、ユキヒョウはどこか微笑ましく思っていた。
夜風が少し冷たくなり始めたカシウムの夜、彼の背はアパパ宿へと消えていった。
アパパ宿の一階、酒場兼食堂――
夜も更け、店の客はほぼシャイン傭兵団とワーレンたちのみとなり、程よく熱気を帯びた空気の中で、談笑の声とグラスの音が響いていた。
木製の椅子に身体を預け、ユキヒョウは長い脚を組んで腰かけていた。
その手には琥珀色の酒が注がれたグラス。
ひと口含んで、喉を潤したあと――
「ユキヒョウ隊長、地下闘技場とやらはどんな感じだったんですか?」
声をかけたのはシオンだった。肘をつき、こちらに身を乗り出している。
「なかなかに楽しめたよ…」
ユキヒョウは静かに笑った。
「手配書で見た男たちもいたりしてね。」
「…このカシウム領で見逃したらヤバくねえか?」
ロッベンが眉をひそめる。
「観客の中に? それとも選手として?」
問いかけたのはマリアだ。
彼女もまたグラスを手にしつつ、瞳だけが鋭く光っている。
「選手としてだよ。」
ユキヒョウは答える。
「フレッドが出場して瞬殺されたよ……永遠に、彼等の顔を見ることはなくなったよ。」
場が一瞬、しんと静まり返った。
「どんな形式で戦ったんだ?」
と聞いたのはワーレン。
かすかに眼を細めて、グラスを置く。
「フレッド一人対六人。相手は全員武器持ち、フレッドは無手で。」
「それで瞬殺かよ…相変わらず規格外だなあ…」
ロッベンが呆れ半分、感嘆半分で呟いた。
ユキヒョウはふと真顔になり、ワーレンに視線を向ける。
「ワーレン、君に聞きたい。侯爵様はこの城塞都市カシウムに、地下闘技場が開催されていることや、いわゆる堅気ではない者の存在がいることを知っていると思うかい?」
少しの間をおいて、ワーレンは頷いた。
「知っているさ。知っていなければ侯爵などという地位にはいられない。」
と、彼は断言する。
「表と裏、どちらも見据えて、制御できる者だけがこの地を治められる。」
「秩序を乱させず、裏の組織を拡大も暴走もさせない…」
マリアが言う。
「それだけの手腕が、ブランゲル侯爵様にはあるということね。」
「…今日のことも、侯爵様には筒抜けかもね。」
ユキヒョウが言うと、マリアも苦笑してうなずく。
「ええ。今日お会いした印象では、あの方は武力だけじゃない…謀略もかなりのものよ。知略に富み、冷静で、しかも人を見る目もある。」
それを聞いたロッベンが思わず笑い、
「…ハハ、マリア隊長も随分と変わったものですね。」
「そりゃね。」
マリアはグラスを傾け、肩をすくめる。
「サーシャたちといつも一緒にいれば、自然とそういう話題もあがるわ。いつまでも付いていけないんじゃ、かっこ悪いでしょ?」
その様子にユキヒョウが軽く笑みを浮かべ、
「マリアの方が年上だしね。」
「……何よそれ。年の話は反則よ?」
場の空気がふっと和らぐ。
テーブルの上では酒瓶が軽く傾き、新たなグラスが満たされていく。
笑い声と酒の香りがゆっくりと夜に溶け、語らいの時間が続いていった。
まだ空に淡い青と金の光が交じる頃――アパパ宿の一階では、すでにシャイン傭兵団とワーレン家の家族たちが手早く朝食を済ませ、出立の準備を進めていた。
窓から差し込む朝の光が、パンの焼ける香ばしい匂いとともに漂う食堂。
各々が旅支度を整え、背負い袋を肩に掛けたり、腰のベルトを締めたりしながら、最後の食事を楽しんでいるその中に、遅れてひょっこりと姿を現したのが――
「おはようさん……っと」
ボサボサの髪に軽く寝ぐせのついたフレッドと、どこか涼しい顔をしたベガだった。
ふらりと入ってきたその姿を見て
「……」
メリンダが、スプーンの手を止めたまま、ジト目でフレッドを見つめる。
一瞬で空気がピンと張り詰めた。
団員の誰もが何も言わないが、内心では「来たな…」という顔をしている。
ロイドがパンをかじりながらフッと吹き出すのをこらえ、ノエルがコップを持ったままそっぽを向いた。
フレッドはその視線に気づくなり、ビクッと肩をすくめ、愛想笑いを浮かべて片手を上げた。
「あー……その、昨日はな、あれだ、ほら……ベガと一緒に繫華街の方で飲んでな…」
だが、メリンダの視線は微動だにしない。
まるで冷気を帯びた矢が額に刺さるような感覚に、フレッドは一歩後ずさり、何も言えなくなる。
「……ちょ、ちょっとまだ眠いかも…」
逃げるように足早に馬車の方へ向かっていくフレッド。
その背中に、何か言いかけたメリンダだったが――結局、ふうっとため息をついて黙って朝食に戻った。
馬車に乗り込んだフレッドは、荷物の陰から厚手の布を引っ張り出し、乱暴に頭からかぶる。
「……ぜってえ見つめ返したら、殺られてた……」
小声でぼやいたあと、ごろりと横になり、まるで何事もなかったかのように寝息を立て始めた。
その様子を追いかけてきたベガが、馬車の外から顔をのぞかせ、呆れたように笑う。
「お前なあ……自業自得だろ。俺をまきこむのはやめてくれよ。」
遠くで荷馬車の準備をしていたトーマスが、ボソッと呟いた。
「朝帰りして朝食まで食ってるんだから、大したもんだよな……。」
ほどなくして、シャイン傭兵団とワーレン一家を乗せた馬車の列が、ゆっくりとカシウムの城門を後にし、ノルダラン方面、チョウコ村へと旅路を進めていく。
澄んだ朝の空に、車輪の音と蹄の響きがリズムを刻みながら消えていった。




