最高の遊び場2
アパパ宿、1階の酒場兼食堂。
薄明かりの灯る木造の広間に、酒とスープの香りが混じり合い、宿泊客のざわめきが程よく響いている。長い一日を終えたシャイン傭兵団の面々も、思い思いに席に着いて食事を摂っていた。
その中で、ロイドはスープをひと匙すくいながらも、どこか魂が抜けたような顔をしていた。
目の下には疲労の影が色濃く、日中の買い物巡りの余韻が完全に抜け切っていない。
「ロイド、金くれよ」
そんな彼に声をかけてきたのは、どこか元気そうな――いや、明らかに悪だくみの顔をしたフレッドだった。
ロイドが顔を上げて半眼のまま言う。
「……地下格闘技? 地下闘技場だっけ? そこに行くのかい?」
「そうだよ、金を稼いできてやるよ!」
ニヤニヤと笑うフレッド。
ロイドは深いため息をひとつついてから、皮袋から5枚の金貨を取り出し、音を立てぬよう静かにテーブルの上に置く。
「……後で返してもらうよ」
「了解だ!」
受け取るフレッドは上機嫌。
横からトーマスが椅子にもたれながら言う。
「朝までには帰って来いよ……こちらも、もうヘトヘトなんだからな……」
ノエルが続けるようにして言う。
「明日はカシウムを出立すること、忘れてないでしょうね?」
「遅れたら置いていくぞ」
ロッベンが鋭い一言。
「だーいじょうぶだって」
フレッドは軽く片手を振り、涼しい顔で返すと、手元の食事をガツガツとかき込んでいく。
「ふーっ、そんじゃ、行ってくるぜ!」
フォークを置くなり立ち上がり、マントを羽織ってそのまま食堂を後にした。
それを見ていたユキヒョウが、静かに立ち上がり、「面白そうだから僕も行くよ」
と、短く言い、フレッドの後を追う。
「おいおい、待てよ」
ベガも椅子を蹴って立ち上がり、金貨の報酬のことを思い出しながらニヤリと笑う。
3人が向かったのは、カシウム城東門の裏手。
日が落ちて闇が深まりつつある中、倉庫や廃材が立ち並ぶ薄暗い醸造所街の一角。
人通りは少なく、時折聞こえる猫の鳴き声や風に軋む木材の音が、不気味さを増幅させていた。
そこには古びた石造りの醸造所があった。
昼間はただの廃屋に見えるが、夜になると赤い提灯がひとつだけ灯される――それが“目印”だ。
フレッドがその扉に近づくなり、「ドゴンッ!!」と、勢いよく蹴りを入れる。
重い木の扉が震える。
中からガタリと物音がし、扉の小さなのぞき窓がカシュッと開く。
「……合言葉は?」と、くぐもった声。
「……忘れた」
悪びれずに言うフレッド。
代わって、ベガが前に出て、淡々と口にする。
「“血の匂いに誘われて”」
一瞬の沈黙の後、フレッドが「…それな!」と声を上げる。
ギイイ……と重い音を立てて扉がゆっくりと開かれる。
フレッドの後にユキヒョウは黙ってその奥へと足を踏み入れ、ベガも肩を竦めながら後に続いた。
闇の中に消えていく3人の背中を、扉がゴウン…と音を立てて閉じる――。
地下闘技場──そこは外の世界とは一線を画す、血と歓声、酒と欲望が渦巻くアンダーグラウンドの王国。
石造りの空間に、鉄と汗の匂いが濃密に漂っている。
周囲の空気はざわめきと熱気に満ちており、観客たちの歓声と怒号が地下の空間を反響していた。
だが、そんな荒々しい空間の奥には、一線を画す“特等席”が存在していた。
床には豪奢な深紅の絨毯が敷かれ、金縁のランプが柔らかな光を放つ。
テーブルの上には、彩り豊かな果物の盛り合わせ、高級そうな酒瓶が数本置かれ、他の観客席とはまったく異なる異質な空間となっていた。
そこへ、当然のような足取りで現れたのは、フレッドである。
くわっとした笑みを浮かべ、真っ直ぐとそのテーブルに歩み寄る。
「よう! チョビ髭! 試合に出るぞ!」
開口一番に言い放つ。
声をかけられた男──髪を撫でつけ、唇の下に滑稽なほど細い口髭を蓄えた男が、びくりと震えた。
彼の周囲には数人の屈強な護衛たちが付き従っている。
「……ま、また……あ、あんたらか……?!」
声を裏返らせながら、顔面を蒼白にして言うチョビ髭。
「い、いや……ふ、フレッドさん、ちょ、ちょっと、じ、時間をください……!」
明らかに嫌な汗を浮かべながら護衛たちに目配せし、小声で何やらごにょごにょと相談を始める。
その間にフレッドはお構いなしにドカッと豪奢なソファに腰を下ろし、豪勢なグラスに琥珀色の酒を注ぎ込んで一気にあおる。
「くはぁ~~、これだよこれ!」
隣に腰掛けたのはユキヒョウ。
グラスを傾け、酒の香りを一嗅ぎして目を細める。
「これはなかなか……いいお酒だね。地下にしては上出来じゃないか」
「……コイツら、どういう神経してんだ……」
苦々しく呟きながらも、ベガも結局酒に口をつける。
やがてチョビ髭が、おずおずと戻ってきた。
明らかに何かを飲み込んだような顔をしながら、恐る恐る口を開く。
「フ、フレッドさん……た、対戦相手は……ろ、ろくにんで……どうでしょうか……?」
フレッドは、椅子にふんぞり返ったまま、涼しい顔で問い返す。
「金はいくらくれるんだ?」
「ご、5金貨で……で、ですが……ぶ、武器ありでも良ければ……10金貨を……
ただし……フ、フレッドさんは……無手って条件で……い、いかがでしょうか……?」
テーブルの果物を一つ口に放り込みながら、フレッドはにやりと笑う。
「おう、いいぞ!」
チョビ髭が一瞬安堵の息を吐く。が、すかさずフレッドが問う。
「で、倍率は?」
「……5倍……で……」
「前はもっと高くなかったか?」
その一言に、チョビ髭が青ざめて小刻みに頭を振る。
「は、はいっ……では、8倍でどうでしょうか!?」
フレッドはひとつ頷き、グラスを置いた。
「8倍か……? ま、悪くねえな。それでいいぞ」
「ありがとうございます……っ!」
チョビ髭は何度も頭を下げながら、急いでその場を離れていく。
背後では、チョビ髭とその配下たちが、慌てた様子で“六人の刺客”の準備に取りかかっていた──。
地下闘技場の中心――鉄と血と栄光が交差する檻、金網に囲まれたリングに、六人の男たちが次々に上がっていく。
場内の空気がじわりと変わる。
酔いと興奮の喧騒の中に、何かが起きる“気配”が静かに染み込んでいく。
最初に現れたのは拳に分厚い鉄製のメリケンサックをはめた、全身を重装備で固めた男。
鉄の装甲の継ぎ目からは筋肉が盛り上がり、眼光は狂気に濁っている。
その足取りは遅く、しかし確実で、まるで戦場を歩む重戦車のようだった。
次に上がったのは、腰と両腕に無数のナイフを吊るした男。
目を細め、笑みを浮かべているその顔には、感情がまるで感じられない。
「……あの男、快楽殺人者ゲドオだな」
と、ユキヒョウの隣でベガが冷静に呟く。
「短槍を持ってるのは……野盗団の頭領だった奴さ。随分昔に手配書で見た」
もう一人の短槍使いと並び、静かに間合いを見つめるその様は、訓練された傭兵というより、生存本能に特化した狩人のようだった。
残る二人は剣と盾を構えた男たち。
一人は背丈のある剣を軽々と持ち、盾を構えたままリズムをとっている。
もう一人はより小柄だが、瞳の奥に知性と戦術の匂いを漂わせていた。
「……見たことあるね」と呟くユキヒョウに、ベガが軽く頷く。
「ゲドオと、短槍の野盗。どっちも……人を殺すのが生業の連中だ。」
ユキヒョウは、やや眉をひそめながらチョビ髭へと振り向く。
「……ブランゲル侯爵様がこの事を知ったら、君たち、ただじゃ済まないよ?」
チョビ髭は脂汗を浮かべてしどろもどろになる。
「い、いえっ……じ、実は、彼らは隔離されていて、ほ、ほら、しっかり拘束もしてますしっ……!」
「ふーん?」
肩をすくめながらベガが護衛の一人を見る。
「侯爵様の足元で、こいつらの素性を“知ってて”野放しにしてたとなれば……親兄弟はおろか親戚縁者…縛り首で済めばいい方だな?」
「ひぃっ……し、承知してます……!ご、誤解なきよう……!」
チョビ髭が必死で頭を下げる。
護衛たちも顔色を変え、こくこくと頷くばかりだ。
ユキヒョウは飄々とした笑みで肩をすくめた。
「ま、いいや。どうせすぐ終わる」
フレッドがゆっくりと席を立つ。
ゴクン、と観客の誰かが唾を呑む音が響く。
彼はポケットから5金貨を取り出すと、賭け屋の男に放り投げる。
「俺に賭けとけ。」
賭け屋の男は慌てて金を受け取り、青い布の札に「5k」と染められた賭札を手渡した。
フレッドはその札を懐に突っ込みながらゆっくりと金網のリングへと歩いていく。
金属製の扉がギィ……と音を立てて開かれた。
フレッドが一歩踏み出すと、観客席がどよめく。
「おい、アイツ無手だぞ……!」
「まじかよ……六人相手にか!?」
「…こいつ、見たことがあるぞ…また来やがった……!」
次々と声が上がる中、金網の中へと足を踏み入れるフレッド。
照明が上から降り注ぎ、彼の影を床に落とす。
リング係が近づき、青い布を腕に巻きつける。
そして、金網の外――酒を手にしたユキヒョウとベガは、笑みを浮かべながら見つめていた。
地鳴りのような歓声が響き渡る。
リング係がまだ試合開始の合図を出していない――その刹那。
「死ね!」とばかりに、ナイフ男が一歩先に仕掛けた。
ナイフが宙を裂いた。
銀の閃光が、フレッドの胸元を狙って走る。
その直後――フレッドの姿が“かき消えた”。
まるで蜃気楼のように、その場から音もなく姿が消える。
「――あ?」
ナイフの男が、振り返る間もなかった。
ゴギャッ!!
豪快な音とともに、フレッドの右足が男の首元に炸裂する。
骨が砕ける、明確な音。
男の目が見開かれたまま、背中から崩れ落ちた。
首はまるで蛇のように折れ曲がり、その場で痙攣し動かなくなった。
同時に、リングを軋ませながら重装備の男が突進してくる。
まるで鋼鉄の塊のように突っ込んでくる巨体。
が――次の瞬間。
フレッドはまるで“弾丸”のように跳ね上がり、その死角へと回り込んでいた。
「ッ!?ぐぁああああッ!!」
ズバァァッ!!!
眉間に、貫き手が突き刺さる。
装甲の隙間を正確に見極めた一撃。
フレッドの指が男の脳髄を抉るように突き抜け、瞬時に絶命させる。
一瞬の静寂。
すぐに血が溢れ、男の体がどすんと崩れ落ちる。
それでもスピードは止まらない。
貫き手を抜いたフレッドが身を翻すと、同時に振り向きざま裏拳一閃。
グシャアッ!!!
乾いた、だが凄惨な音。
その側頭部が抉れるように変形し、血と脳漿が霧のように弾け飛んだ。
元野盗の頭領は一言も発せずに崩れ落ちる。
短槍を持った男が何かを言おうとした時、視界が反転した。
残る二人。剣と盾を持った戦士たち。
そのどちらも、戦場を渡り歩いてきたような構え。
だが――彼らは“フレッドの動きを目で捉えられていなかった”。
一人が身構えた直後、その首に見えない衝撃が走る。
瞬間、体の力が抜け――糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
もう一人が、盾を構え叫ぼうとした瞬間――ドガァアアアンッ!!!
まるでトラックにはねられたかのような衝撃音。
フレッドの体当たりがその男の胴をぶち抜く勢いで金網に叩きつけた。
金網が激しく揺れ歪み、観客席から悲鳴が上がる。
男の体はぐにゃりと曲がり、盾が粉砕される。
そのまま彼は意識を失い、リングの端に崩れた。
リング係は……動けなかった。
彼は驚愕のあまり、逃げることすら忘れ、リングの端に突っ立ったまま――まるで夢の中にいるような顔で。
会場に一陣の風が吹いた。
それはまさに――疾風の如き死神の舞い。




