リズの才能
朝の柔らかな陽射しがアパパ宿の窓を染める中、シャイン傭兵団とワーレンの家族たちは食後のくつろぎの時間を過ごしていた。
湯気を立てるカップからは香ばしいハーブ茶の香りが漂い、まったりとした空気が宿を包んでいた。
その時だった――。
宿の前に、黒と金を基調にした美しく磨かれた馬車が音も高らかに止まる。
扉にはブランゲル侯爵家の家紋が誇らしげに刻まれていた。通りすがりの人々が思わず足を止めて目を見張る中、宿の扉が開く。
「お、おい、来たぞ……!」と、団員の一人が呟いたその瞬間。
優雅な身のこなしでエリジェが姿を現した。
ネリ・シュミッツ、侍女2名、そして精悍な護衛兵4名を引き連れた一団が、アパパ宿に堂々と入ってくる。
その登場は、まるで貴族劇の一幕のような華やかさだった。
「リズ、ノエル! さあ、行きましょう!」
エリジェが声を弾ませて呼びかけると、リズとノエルが立ち上がり、すぐにロイドとトーマスも付き添う形で支度を整える。
「ここからは歩いて参りましょう。市場通りを抜けた先に素晴らしい店があるのよ!」
そう言って、エリジェはご機嫌に先頭を歩き出す。
馬車はそのまま残され、主従一行は徒歩で街中へ向かって行った。
その様子を窓から見送りながら、フレッドが大きく肩を落として溜息を漏らす。
「……ふぅ~、危ねぇ」
「何が危ないの?」とメリンダが首を傾げて問う。
「荷物持ちは当然として……とにかく長ぇんだよ! 試着してあれこれと悩んで、お茶して笑って……って、待たされるこっちの身にもなってくれっての!」
フレッドが嘆くと、傍らでユキヒョウが静かに頷きながら言った。
「だけど直接文句は言えないと……?」
「倍になって返ってくるな、確実に」
ロッベンが口を挟む。
「俺はそれ以上だと思うけどな」
シオンが続けると、傍らの団員がハイドにぽんと肩を叩いて、「よく覚えとけよ、ハイド。女の買い物ってのは戦場より体力を削られるもんだ」
と言って笑った。
そんな中、マリアがふと問いかける。
「私たちは今日は買い出し?」
「ああ、俺たちが担当するぜ。食材、酒の調達と備品補充は任せな」
シオンが応じ、ロッベンがうなずく。
メリンダは一瞬考えたのち、フレッドの元へ近づいた。
「時間が空くわね……それじゃあフレッド、この都市を案内して! いろいろ見て回りましょう!」
「……そうだな。……その前に、ベガ、一つ頼まれちゃくれねえか?」
「何だ。」
「地下格闘技が今日の夜、開催されるのかどうか調べてくれ」
「報酬は?」と目を細めて問うベガ。
「開催されるってんなら1金貨やるよ。なけりゃ無しだ」
「…ま、いいぜ。直ぐにわかるしな」
気楽に応じてベガは立ち上がった。
それを聞いていたユキヒョウが、興味津々な目を向ける。
「地下格闘技……面白そうだね」
「最高の遊び場だぜ」とフレッドが笑う。
「参加すれば金ががっぽり手に入るしな! 」
メリンダは小さく眉をひそめたが、同時にどこか楽しげに、「あなたって本当に戦うのが好きよね……」
呆れたように笑った。
こうしてそれぞれの思惑を胸に、カシウムの一日は賑やかに始まった。
朝の陽が高く昇り始めた頃、シャイン傭兵団とブランゲル侯爵家の一行――エリジェ、ネリ、侍女たち、そして護衛たちは、城塞都市カシウムの露店市へと足を踏み入れた。
石畳の通りにずらりと並ぶ屋台は、香ばしい匂いと人々の活気に満ちており、旅人や地元の住民でごった返している。
その中で、ひときわ異彩を放つ集団があった。
微笑みながら歩くエリジェ。
背筋を正しつつも柔らかい笑顔を浮かべるネリ。
両脇には揃いの制服に身を包んだ若い侍女たち、そしてその周囲を取り囲むように、黒革の軽甲冑に身を包んだ護衛兵たち——
あまりに異様で、あまりに上等で、にもかかわらず、人々はなぜか距離を取ろうとはせず、むしろ温かい目でその一団を見守っていた。
それは――屈託のない笑顔で「こういった場所って初めてかも!」とはしゃぐエリジェの姿によるものだった。
明るく、誰にも垣根を作らず、物怖じせずに「リズ、アレは何かしら?」「ノエル、これは何に使うのかしら?」「あら、この淡いピンクの髪留め、シンシアの髪に似合いそうね!」と無邪気に語りかける様子に、人々は心を許し、つい笑みを返してしまうのだった。
その一方で、護衛たちの目は鋭く光り、周囲の動きに神経を張り詰めている。
「シャイン傭兵団のロイド殿たちがいれば安心だが……油断は禁物だよ」
ネリが小声で声をかけると、護衛や侍女たちは真剣にうなずいた。
屋台通りでは、初めての買い食い、食べ歩きが行われた。
焼きたての薄皮パイ、蜜を垂らした菓子パン、香ばしい串焼き肉……。
エリジェは一口ごとに目を輝かせ、「まあ!これ美味しいわね!」「なんて香りなのかしら!」と感嘆の声を上げる。
「ふふ、奥様、口元が……」と侍女がハンカチを差し出すと、「あら、恥ずかしいわね!」と笑い合う――そんな光景に、周囲の店主や市民もつられて笑っていた。
その後立ち寄った古着屋や布の商店では、リズやノエル、侍女たちが次々とエリジェに着せ替えられることに。
「これはどう?」「うーん、ノエルにはこっちの色の方が映えるわ!」
「ちょっとリズ、こっちも着てみて!もう一着だけ、ね?」
試着のたびに笑い声が上がり、侍女たちもいつしか輪に入って微笑ましい空気が広がる。
結局何も買わなかったが、「見るだけで楽しいのよ、こういうのって!」とエリジェは上機嫌だった。
付き添っていたロイドとトーマス、ネリ、護衛たちは、笑顔ながらもやや疲れ気味。
だが誰一人、文句をこぼす者はいなかった。
彼らはわかっていたのだ。
エリジェの笑顔が、どれほど周囲を明るくするかを。
場所を移して向かったのは、高級住宅街。
ここは露店市とは打って変わって、静かで整然とした石畳の道。
そこで立ち寄ったのは、品の良いティーサロン。
内装は落ち着いた木調に香木の香りが漂い、食器は全て銀縁の磁器製。軽食として出されたのは、野菜のキッシュ、甘く煮詰めた果実のタルト、小さなハーブサンド――いずれも丁寧な手仕事が光る逸品。
「やっぱり、ここは裏切らない味ね」
満足そうに頷いたエリジェがカップを置いて告げる。
「次は、侯爵家御用達のお店に行くわよ!チャネル、グッミ、プハダの三店をまわるわ!」
その歩みに迷いはない。
道行く人々が再び振り返り、彼女の笑顔を目にしてまた笑みを浮かべる。
まるで、花が歩いているかのように。
「チャネル」――それはカシウムでも指折りの高級ブティックであり、侯爵家御用達の名を冠するにふさわしい、重厚かつ華麗な内装を誇っていた。
高い天井からはクリスタルのシャンデリアが煌めき、壁一面には季節ごとのドレスラインが丁寧に飾られている。
中には一着で下級貴族の年収に相当する価格がつけられているものもある。
一歩足を踏み入れた瞬間に、誰もが息をのむ――それほどの威厳と格がこの空間にはあった。
だが、エリジェの姿勢はまるで揺るがなかった。
露店市での無邪気な笑顔は消え、侯爵夫人としての毅然とした態度に切り替わっていた。
「夫、子供たちのスーツを仕立てるわ。もちろん、私のドレスも。そして……エリカの分もね」
凛とした口調に、支配人はすぐさま頭を垂れる。
「かしこまりました。直ちに手配いたします」
支配人が奥へと消えると、エリジェはふっと息をついて微笑み、リズの方を向く。
「エリカの分も仕立てておかないと……すねちゃうものね。リズ、負担にならない?」
その口調は一転して柔らかく、母としての顔が覗く。
リズは静かに微笑んで答えた。
「エリジェ様、問題ありません」
やがて支配人が現れ、複数の布生地を捧げ持ってきた。
それらはさすがと言うべき品で、織り、光沢、質感、色合い――すべてが最高級。
織り込まれた金銀の糸すら、下品に見えず気品を放っていた。
エリジェは一枚一枚を指先で撫でながら吟味する。
「リズ? ドレスにこの色……どう思う? 品はあるのだけど、ちょっとイメージがねぇ……」
その言葉に、リズは一つ頷いて言った。
「……デッサンを描きます」
「紙とペンを用意しなさい」とエリジェが命じた。
支配人が慌てて言葉を返す。
「は?わ、わたしどもにお任せいただけるのでは……?」
「二度は言いませんよ」
凛とした声に、支配人の背筋が伸びた。
「は、ハッ!直ぐに!」と姿勢を正して奥へと駆けていく。
紙とペンを携えて戻ってくると、そっとリズに差し出した。
「あなたは下がりなさい」
エリジェの一言に支配人は沈黙し、軽く一礼して静かに後退った。
白紙のスケッチブックに、リズのペンが走り出す。
静かに、迷いなく、まるで呼吸するかのように滑らかに線を引く。
かつて、シマから聞かされた「前世の世界」のファッション。
彼女の頭の中に刻まれていた断片が、インスピレーションとなって弾けた。
和洋折衷のドレスライン、ボリュームとしなやかさを両立したシルエット、レースやビーズの配置、背面のフリルのバランス――それらを瞬く間に、リズ独自の感性でまとめ上げていく。
——3枚、4枚、5枚……リズの手が止まることはなかった。
見ていたエリジェが、思わず手を胸に当ててつぶやく。
「……まあ! これならイメージしやすいわ!」
ノエルが感嘆の声を漏らす。
「これはまた斬新ね……上品さも、優美さもある」
エリジェがぱっとリズの肩を抱きながらノエルに言う。
「ノエル、こっちを見て! このデザインなら、落ち着いた色がいいんじゃないかしら? 」
ノエルは真剣にデッサンを覗き込んだ。
「…ドレスにアクセサリーを合わせる感じでしょうか。細めのネックレス、あるいは耳元に揺れるイヤリングが映えそうです」
リズがうなずき、次のページにその色を基にしたバリエーションを描き足す。
三人の会話は完全に専門家の打ち合わせのそれとなっていた。
侍女たちは静かにその様子を見守り、ネリは微笑みながら言う。
「……さすがですね。ブランゲル侯爵家が夢中になるのも無理はない」
リズの描く線がまた一つ完成を迎えるたびに、侍女たちは目を見張り、ノエルはそっとアドバイスを差し入れ、エリジェは静かに、そして満足げに微笑んだ。
こうして、ただの買い物だったはずの一幕は、シャイン傭兵団のリズの才能が改めて証明される場へと変貌していったのだった。
「グッミ」そして「プハダ」——
どちらもカシウムでも名を馳せる高級紳士服専門の店であり、格式のある貴族階級の服地を扱う名店である。
室内は香木のような落ち着いた香りが漂い、艶のある黒檀の什器には重厚感ある布生地がずらりと並べられている。
深みのある色彩、繊維の密度、上品な光沢……どれも一級品。
触れれば指先に柔らかくも粘りのある質感が残る、まさに「選ばれし者の装い」だ。
ロイドとトーマスは無言で肩を竦め合いながら、支配人に導かれて立ち位置に入る。
ネリも真顔のまま無言で従い、護衛たちまで巻き込まれる形で、次々に布を身体にあてがわれる。
エリジェは、彼ら一人一人に布をあてがいながら、その姿に夫ブランゲルや息子ジェイソン、エリクソンが着た場合のイメージを重ねていく。
「ネリ、ちょっと横向いて……うん、このラインならジェイソンの肩幅にも合いそう。襟はやや細めがいいわね」
「こっちの生地、派手すぎない? ううん…でもエリクソンなら似合うかしら?」
エリジェが次々と指示を飛ばすと、リズが隣で即座に補足する。
「その生地でしたら、縫い目の位置をわずかに下げるだけでシルエットが引き締まります。アクセントに艶消しのボタンを使えば、夜の場にも合うはずです」
ノエルもまた冷静に視線を走らせる。
「丈感の違いで印象が変わりますね。ジェイソン様にはやや裾を長めにした方が威厳が出ます」
その会話に、侍女たちもいつしか加わり、
「これは奥様向けに合わせた時と同じ仕上がりにできます」
「エリカ様はあの色がお好みですから、この裏地をあしらえばきっと……」
など、話はエスカレートの一途をたどる。
「あーでもない、こーでもない」
尽きることのない討論が交わされる中、布を当てられている男性陣はというと――
「……うごけねえ」
「こ、こんなにも……長く立ちっぱなしになるとは……」
トーマスが小声で呻き、ロイドは苦笑い。
ネリも「足が軽く痺れてきましたね」と足を擦る。
護衛たちにいたっては、プルプル震える足を鋼の精神で保っていた。
数時間後、「チャネル」「グッミ」「プハダ」の三店舗を制覇したエリジェ一行は、午後の陽射しの中、ようやくアパパ宿へと帰還した。
すっかり上機嫌のエリジェは、宿の前で一度立ち止まり、笑顔で振り返る。
「リズ、今日はありがとう。あなたのセンスと腕に心から期待しているわ」
「ノエル、あなたも。とっても頼りになるわ、また必ずご一緒しましょうね!」
「はい、またお会いできるのを楽しみにしております」
ノエルが丁寧に頭を下げる。
「お任せください、エリジェ様」
リズも微笑んで応じる。
そのままエリジェは軽やかに馬車に乗り込み、ネリと侍女たち、護衛たちが続く。
金と紅の房をあしらった御者台の上、護衛が軽く手綱を引くと、侯爵家の家紋が刻まれた豪奢な馬車は静かに動き出し、カシウム城の方へと向かっていった。
宿の玄関前、残されたロイドたち。
「……つ、疲れた……」
「しゃべってないのに、ぐったりだな…」




