別腹?!
応接間に、ゆったりとした時間が流れていた。
料理が運ばれるまでの間、程よく温まった空気の中、杯を傾けながら自然と談笑が始まる。
そんな中、ブランゲル侯爵が椅子に深く腰かけながら、ワインの杯を傾けつつ視線を向けたのは、ワーレンだった。
「――ワーレンといったな?」
突然の呼びかけに、ワーレンはビクリと背筋を伸ばし、思わず椅子から腰を浮かしかける。
「ハ、ハッ!」
短く答え、緊張の色を隠せないままに返す。
「王都の様子はどうだった?」
ブランゲルの声音は穏やかだが、その瞳には鋭い光が宿っていた。
ワーレンは一呼吸置いてから、静かに言葉を選びながら答える。
「――貴族間では…緊張が高まっております。特に要職に就く者たちには、明確な態度表明を求める圧が強くなってきており……いえ、実際に『迫られている』状況でしょう。」
その答えに、ブランゲルは唸るように「ふむ…」と低く呟く。
グラスを小さく揺らしながら、ジェイソンへと目をやった。
「――旗幟を鮮明にしろ、とな……締めつけすぎたかもしれんな。少し“隙”を見せるのも策かもしれん。」
ジェイソンはその視線を受け、即座に頷いた。
「承知しました。緩急の演出、検討いたします。」
「拮抗しているように見せねば、戦わずして勝つことはできん。」
ブランゲルは独り言のように呟きながらグラスを置いた。
その重々しいやり取りを聞いていたフレッドが、ぽつりと漏らす。
「…侯爵ともなると大変だなあ。いろいろ考えなきゃいけねえのか。」
「まったくだ。」とブランゲルが笑いながらうなずく。
「面倒ごとばかりが増えていく。だが、やらねばならんのだ。貴族の責務というやつだな。」
「その通りです、父上。」とエリクソンも重々しく続ける。
「我らはその覚悟をもって立たねばなりません。」
その真剣な空気に水を差すように、フレッドが肩をすくめて言った。
「…俺には無理だな。そんなの、向いてねえ。」
すかさずトーマスが笑いながら肘でつつく。
「お前は自分から面倒ごとを増やしていくからな。」
それを聞いて、一同がどっと笑い声をあげた。
「……俺には心当たりがねえよ。」
杯を片手にぼそりと呟くフレッドの言葉が、再び笑いを誘い、応接間は和やかな雰囲気に包まれた。
応接間に、料理の芳しい香りがゆっくりと満ちていく。
次々と運ばれてくるのは、奥方エリジェが考案し、ミテラン料理長と副料理長アコッジが心を込めて仕上げた逸品――ワイン煮込みハンバーグ。
上品な白磁の大皿に、深い赤褐色のソースが照りを放ちながらたっぷりと注がれ、中心には厚みのあるハンバーグが鎮座している。
その表面は滑らかに艶めき、ナイフを入れた瞬間、じゅわりと肉汁が滲み出そうな見た目。
ハンバーグの上には、絶妙な火加減でソテーされた小粒のマッシュルームと柔らかな赤ワイン煮の玉ねぎが彩りを添えていた。
周囲には、瑞々しい葉野菜と薄切りの赤黄パプリカ、さらにグリルされたズッキーニが美しくあしらわれ、カラフルなコントラストが皿の中に広がる。
付け合わせには焼き立てのパン、じっくり煮込んだポタージュスープ、そして季節の果物が丁寧にカットされ小皿に盛られていた。
席に料理が運ばれるたび、誰もが無意識に息を呑み、瞳を奪われていた。
香り、艶、盛り付け――一目で「これは間違いなく美味い」と確信できる存在感がそこにあった。
「うむ、ワインを」と静かに言うブランゲル。
エリジェとエリクソンは控えめな果実酒、ジェイソンは父と同じ赤ワインを。
フレッド、トーマス、マリア、ベガはエールを所望し、トク…トク…と琥珀色の液体がグラスに注がれる。
ロイド、ユキヒョウ、ワーレンもワインを選び、リズとノエルは軽やかな香りの果実酒を手にした。
そしてハイドは、まだ背筋を伸ばしたまま、澄んだ水を両手で抱えるように持っていた。
料理に釘付けになっていたトーマスの顔を見て、ブランゲルがにやりと笑う。
「フハハ、トーマス。待ちきれぬというような顔をしておるな。」
「バ、バレてたか…」と苦笑しながらも、目はハンバーグから離れない。
「たくさん食べてね」と、エリジェが穏やかに微笑みながら声をかける。
「乾杯!」
ブランゲルの朗々とした声がまず高らかに響き、重厚なグラスが持ち上げられた。
「乾杯!!」
その声に続き、シャイン傭兵団とブランゲル家の面々が一斉に声を重ね、カチン!と杯が触れ合う澄んだ音が応接間に華やかに広がる。
金属製のジョッキ同士がゴン!と豪快にぶつかり、フレッドとトーマスがにやりと笑いながらエールを仰ぐ。
ひとくち、ハンバーグを口に運んだ瞬間。
「……うまっ!」
最初に漏らしたのはフレッドだった。
厚みのある肉の塊は、ナイフを入れた瞬間にほろりと崩れ、じゅわっと溢れる肉汁がワインソースと絡み合って、口の中でとろけるように広がった。
「……これは……すごいわね」と呟いたのはノエル。
「ワインの香りが、肉の旨みを引き立ててるわ。お料理なのに、まるで芸術作品ね」
「……こ、こんな料理、食べたことない……!」
ハイドは目を見開いたままスプーンを止めるのを忘れている。
ワーレンは無言で頷きながらナイフを持ち、表情を崩すまいとしながらも思わず小さく「……絶品」と漏らす。
「奥方様、いえ……エリジェ様、素晴らしいセンスです!」
ノエルが真っすぐに褒めた。
「貴族の舌と感性を持つ者でなければこの発想には至らないわ」
リズも笑みを浮かべて言う。
「柔らかさが…まるで溶けていくようだな」「噛むたびに旨みが広がる」と呟くトーマスとベガ。
ユキヒョウは赤ワインを一口含み、「うん、ぴったりだね」と目を細める。
ブランゲルは頬を緩めながら、ワインひと口飲んで言った。
「こいつは間違いなく……我が家の新たな伝統料理となるだろうな」
「やったわ!」とエリジェが喜び、ミテランとアコッジが控えの位置で静かに頭を下げる。
テーブルに並ぶ焼きたてのパンには、バターが塗られて湯気を立て、野菜のグリルは香ばしく、果物は冷やされて彩り豊かに皿を飾る。
スープは濃厚でありながらも優しく、ハンバーグの濃い味わいを口の中でまろやかに包み込んでくれる。
和やかで豪奢な時間が流れ、誰もが会話と笑顔と、豊かな食事に包まれていた。
まるで宴のような、温かで、誇らしい夕食だった。
食後、空になった皿が静かに下げられ、代わりの器が慎重に運ばれてくる。
淡い乳白色のプリンがやわらかな光を受けてぷるりと揺れ、瑞々しい果物が色とりどりに添えられている。
艶やかな黄桃、薄くスライスされた苺、葡萄、そしてミントの葉がアクセントに添えられ、美しい彩りと甘い香りが食卓を包む。
「…プリンが三つ…?」
そんな声がいくつか上がったのは、ブランゲル侯爵夫人・エリジェの前に、他の者の三倍量にあたる三つのプリンの器が整然と並べられていたからだった。
エリジェは少しだけ頬を赤らめ、周囲の視線に気づきながらも、どこか誇らしげに言った。
「…ほら、プリンってすぐに食べ終わっちゃうでしょ?だから…ね?」
「エリジェ様、お気持ち分かります!」とリズが笑みを浮かべて頷く。
「私たちの村でもプリンは“至高”とまで言われるほど人気があるんです。」
「そう!そうなのよ!」とエリジェが勢いよく身を乗り出す。
「我が家でもね、日夜、侍女たちとメイドたちがプリンをめぐって争奪戦を繰り広げてるの!もはや戦争よ!」
「女性や子供たちは特に好きですしね。甘くて、なめらかで、やさしい味わいですから」
マリアが穏やかに言う。
「マリアでいいのよね?」とエリジェが微笑み、「あなた、よくわかってるわ! エリカもプリンが大好きなのよ!」と続けた。
「私たちの団長がよく言うんです。女性にとって、甘味は“別腹”だって」
ノエルが笑いながら付け加えると、
「あら、名言ね! まさにその通りだわ…あなたたちの団長に早く会ってみたいわ、お礼も言わないと…」とエリジェが目を輝かせた。
そして──
「さあ、いただきましょう!」
その声とともに、スプーンが器に入る。
プリンは柔らかく、すっと刃を入れるようにスプーンが沈む。口に運んだ瞬間、
「……なにこれ……!」
驚きの声を漏らしたのは初めてプリンを口にしたハイドだった。
「とろける…けどしっかりしてて、甘くて、優しくて……すごく、うまい……!」
ベガは黙ったまま一口目を味わい、すぐに目を見開いた。
「……なるほど。これが“別腹”の正体か。やるな、シャイン傭兵団」
ワーレンもまた、しばし言葉を失い、確かめるように味わってから
「……これは……危険な食べ物ですね。中毒性がある」と真顔で言い、周囲を笑わせた。
一口食べるたびに笑顔が溢れ、心がほどけていくようなひととき。
温かい夕食の余韻を、ひんやりと甘く、そして豊かに締めくくるミルクプリン。
静かな歓声と笑い声が重なり、応接間は至福の余韻に包まれていた。
応接間にやわらかなランプの灯りが揺れる中、ブランゲル侯爵は手元のグラスを軽く回しながらロイドに尋ねた。
「ロイド、カシウムには……いつまで滞在するのだ?」
ロイドは一拍おいて、背筋を伸ばして応える。
「明後日には出立する予定です。ノルダランへ向かい、その後チョウコ村に入ります」
「なるほどな」とブランゲルがうなずいたその横で、ジェイソンが会話に割って入る。
「仕立てる布生地なんだけど、こちらで用意しようか? それとも……自ら市井を廻って見てみるかい?」
すると、ジェイソンの横で身を乗り出したのはエリジェだった。
「私が案内するわ! そうよ、それがいいわ! ね!リズ、そうしましょ!」
「え、ええ……ぜひ」と微笑むリズ。
「おしゃべりしながら途中でお茶を楽しむのもいいわね! あなたたちの生地、色は私が選んであげるわ!」
すでに決定事項のように、楽しげに言い切るエリジェ。
周囲の空気が一瞬、ふっとやわらいだ。
「もはや決定事項だな…やれやれ……困ったものだ」と呟きつつ、どこかうれしげな表情を浮かべるブランゲル、そしてジェイソンとエリクソンも顔を見合わせて肩を竦める。
その視線の先、ジェイソンがちらりと執事長とネリ・シュミッツに目配せすると、二人はごくわずかにうなずいた。
すでに段取りは整っているようだった。
そこで、ジェイソンがふと声のトーンを改め、話題を切り替える。
「話は変わるけど……」
応接間の空気が少し引き締まったのを感じ取りながら、ジェイソンは続ける。
「ジトーたちには打診したんだけど、色よい返事は貰えていないんだ……だけど、リズ嬢には――10月中旬に、上演してほしいと思っている」
「…舞台、ですか?」とロイド。
「ああ。他の貴族たちを取り込む策も含んでいる。でも……母上にも是非、あの素晴らしい舞台を見せてあげたいんだ」
ジェイソンの視線が自然とリズに向かう。
その視線を受け止め、リズもまた、そっと隣のエリジェの顔を見る。
エリジェは、どこか恥ずかしげに、それでも素直な笑みを浮かべて言った。
「……あなたの舞台が、今では“奇跡”と呼ばれているくらい素晴らしかったと聞いてるわ。私のわがままでもあるのだけど……お願いしてもいいかしら?」
一瞬の静寂のあと、リズはゆっくりと立ち上がり、頭を下げる。
「シャイン傭兵団・リズが、謹んでお受けいたします」
その言葉に、エリジェの目がぱっと輝いた。
「さすがリズだわ!」と、思わず椅子を滑らせて立ち上がり、ぎゅっとリズに抱きつく。
「エリジェ様……っ」とリズが少し戸惑いつつも受け入れると、周囲からも温かな笑みがこぼれた。
「ブランゲル侯爵家としても、全面的に支援しよう」とブランゲルが宣言するように言う。
その場にいた者たちの誰もが、ひとときの祝福を共有していた。




